その2つのパターンでも例外的な(同じ結論にならない)ケースが存在する
例外的ケース・・・って言ってるけど
- 「錯覚」の中にも「新発想」はある
- 錯覚ではない(そこから着想を得て新たな発想を得る)場合もあるって話をしてるんだよね
これらに関しては「それ例外じゃないんですけど」って説明を既に済ませてるぞ?
前者・・・つまり実際に新発想を得られている場合は、俺が批判している「新発想を得た(悟った)という錯覚」に当てはまってないし、後者の「錯覚ではない場合」なんてのは「錯覚するやつは知性がない」の要項にそもそも該当していないわけだから、それはもはや例外でも何でもなくただの別件だろ?
他に「それ以外の例外的ケース」って何かあるか?
提示されたものはだいたい否定(俺の言い分と矛盾せずに両立可能であることを説明)できていると思うんだが。
これだけじゃ知性低いとは言い切れないし。
その指摘の中に恐ろしく知性を感じさせる文脈が含まれている場合もあるでしょう。
それってもちろん
「その説明は不適切だ!(誤解されかねない!)」って感じの指摘ならまだいいんだけど
このあたりも踏まえたうえで言ってるんだよな?
だとしたら>> 27の後半(文章ってのは人に読ませるために~以降)で俺が主張している理屈をへし折ってもらう必要が出てくるぞ?
「分かりにくい」とか「文章が長すぎ」とか「余計な説明しすぎ」みたいな指摘は知性が低いと思う・・・という意見の理由がその後半部分に書かれているわけだからな。
なんつーかこの辺マジで重複してるし、なごむに対しても>> 137で「この部分を読んでくれ」と理由部分を再掲示してるので、重複してる自覚があるならしっかり読んでおいてほしいんだけど
(なごむ)
文章が無駄に長かったり、説明不足だったりするのは、実は読み手にそう感じさせてしまう書き手側の落ち度なのです
文章の長さの「適量」はどこなのか、説明の粒度の「適量」はどこなのか、って問題になってくるね。
- 一般的に文章ってのは特定の個人に宛てたものではなく、その文章を目にするであろう不特定多数の読者を意識して書かれていると留意する必要がある
- 「相手がどのくらいの予備知識を持っているか」なんて書き手は把握しきれないので、読み手の層を広めに見積もっておく必要がある
- わざわざ狭い範囲の人しか理解できない文章を書かなきゃいけない理由なんてない
この辺をもう一度しっかり読んでほしい。
「今から話す相手は高校生である」と事前に確定している家庭教師がわざわざ四則計算のイロハから説明し始めるのは「適量を超えている」ので無駄に長い説明と言われても仕方ないだろうけど、どの程度の予備知識を持っているか定かではない不特定多数の読者を想定して書かれた文章に「無駄に長い!」って評価を下すのめちゃくちゃ横暴じゃね?
「今から話す相手は小学生である」と事前に確定している家庭教師が説明もなく関数のグラフを用いるのは「適量に届いていない」ので説明不足と言われても仕方ないだろうけど、どの程度の予備知識を持っているか定かではない不特定多数の読者を想定して書かれた文章に「説明が足りていない!」って評価を下すのめちゃくちゃ横暴じゃね?
「自分にとって丁度いい分量じゃないからダメ!」みたいな横暴な審美眼を持つ知性なき読み手が、喧嘩界隈には溢れかえっていると日頃から感じている所存です。
この説明を経て、なごむは「確かに横暴だと思う」てな感じで誤解を認めてくれたぞ。
他にも、第2次世界大戦に関する歴史を説明する例とかも出した記憶があるな。
そういうコンテクストを踏まえてもまだ疑問に思う部分が残るのであれば
知性が低いと思う俺の意見の理由部分をぜひ崩してみてくれよ。
もう少し具体的にノルマを述べるのであれば
- 特定の個人ではなく不特定多数の読者がいることを念頭に書かれた文章に対し
「その説明は不適切だ!」って感じの指摘(共有可能な予備知識を根拠とする指摘)はともかくとして
「分かりにくい」とか「文章が長すぎ」とか「余計な説明しすぎ」みたいな指摘をする喧嘩師は知性がない。ぼくに丁度いい文章を書いてくれない人は無能!と横暴で傲慢な戯言を並べているのと同じだ
この主張を否定できるかどうか、って話になってくるわな。
まぁそもそも「俺はこう思ってるんだけど、誰かこれ否定できる?」と挑戦者を募る感じで>> 27を書き込んだ俺からすればただの原点回帰に過ぎないんだけど
「詠み人知らずが述べた条件を満たしつつ知性を発揮できるやつ(例外)がいる場合もある!」みたいな想像や可能性の話ではなくて、俺が説明した理由や根拠を否定できるのか?っていう実践の話なんだよな。
俺を言い負かすことができるやつが現れたら、俺はそいつを「知性なき者」として扱えなくなる
言ってしまえばそれだけの、喧嘩オタク的には当たり前の構図だ。