つまり、なかには、それが「おもしろい」という人がいれば、「最低限の会話ができない」人の存在も認めるべきと?
それで「我々のめざす喧嘩」が達成できるのか?
根本的な志が同じにならないことには実現不可能だと思うけど。
「おもしろさ」の問題がすっぽり抜け落ちてる。
ようこそ。
「価値観の森」へ。
>> 26でなごみんはこう言ってる。
おもしろくない、わたしも同感です
せっかく畑を耕して、「喧嘩の良さ」を引き出せる環境を育てているのに、害虫によって蝕まれたら本末転倒では。
俺以外の奴はこう言うかもしれない。
自然栽培こそ至高!
それは「至高」ではなく「理想」というのが俺の持論だ。
「我々のめざす喧嘩」を何不自由なく可能にするにあたって必要なのは、人為的な手段であり、ただでさえ荒れやすく、最低限の会話もできておらず、おもしろくない喧嘩が量産されるリスクを規制することだ。
もちろん、今の喧嘩界は運営の裁量で行われている。
だから俺は、利用者の一人であるなごみんにヒアリングしているわけだ。
「俺となごみんが同感した『おもしろくない』という感情を与える存在は、我々のめざす喧嘩をするにあたって必要なのか否か」
勝ち負けにこだわるから、ひどいものになるし
その勝ち負けにこだわるから、ひとつのやり方にこだわって、独創性がなくなっていくとおもうんですよだから、いっそ、勝敗をなくせばいいんです
ちょ、待て待て待て待てえい!
結論を先急ぐなよ!!
それはいくらなんでも極論すぎるだろ…!
勝ち負けにこだわりつつも、おもしろいものをしたためたり
勝ち負けにこだわりつつも、さまざまなやり方で独創性を希求すること
共存することは可能とちゃうんか?
それができない奴がいたとして、それってなんでなん?
ランキングの話は脱線するので置いときます。