前回の話題で、今年の入管難民法の「改悪」について書きました。この法律に見られるような現実が実生活から「楽しさ」を消してゆくのではないでしょうか。ある日小さなことが発端となって、「強制送還される」かもしれない「法文」が書かれているのです。これは、日本国の法制度です。当事者にとっては日ごろの生活場面で、不安に駆られる事態を招いています。インターネット上に「【署名】「帰る国」のない若者の永住許可を取り消さないで!」というサイトがあります。そのメンバーの訴えを聞きました。こうした現実に目をつむった状態での、地域日本語教育の活動では、学習者に「楽しさ」はないのではないでしょうか。こうした本質的な事柄に共感できる思いを持たないと、地域日本語教育の場での「楽しさ」は実現できないのではないでしょうか。わたくしたちはすぐには制度を変える力はありません。しかし、小さな活動ですが、気持ちの響き合いがある活動の継続を心がけたいものです。
皆さんはいかがでしょうか。
「楽しい」と思える気持ちが継続できるには、どうしたらよいのでしょうか。ボランティア活動が、市民活動であり、人間として「自由・平等・公平・公正・等価」の関係が築かれていくことで成り立っている活動ではないでしょうか。だから、時々、「法律の壁」「文化の壁」「制度の壁」などにぶつかって悩むことがあるのです。こうした壁があると「充実したひと時」のことも「楽しかった」とは言えないのではないでしょうか。
ここで皆さんと改めて、「楽しいって何だろう。」という表現について考えてみましょう。そろそろ「何故この標題なの?」と疑問に思っておられる方もいるのではないでしょうか。日本語は多義的で、時々振り返って考えないと、わからなくなります。なぜでしょうか。ここでお尋ねしますが、加藤周一の言葉をご存じでしょうか。日本語の会話の特性についての言葉です。「日本語は流行すると定義が失われる。」というのです。したがって、日本語のネイティブスピーカーの皆さんですが、中には「楽しいって何だろう。」の定義をそろそろお忘れの方もいると考えられます。
まず、ボランティア活動を「奉仕活動」「同好会活動」と同じだとお考えの方がいます。自分の意思で参加して行うことは同じなのですが、市民活動なので、「奉仕活動」「同好会活動」とは異なった側面を持っています。「奉仕活動」は社会的な意義を考えて行います。「同好会活動」は好きだから長続きするものだと考えて行います。どちらも生きがいを感じられるので「楽しい」という感情も伴います。
さて、「楽しい」という言葉は、いろいろな場面で用いられます。良質な時間を過ごした時に、「楽しかった」と言います。有意義で、QOLが充実していた気がするのです。他方で、享楽・歓楽という意味で使うことがあります。バスに酔いそうなときには「楽しいこと」を考えて、気を紛らします。ワークショップなどでも、笑いもはじけて楽しそうだったという評価を見かけます。
幼児教育では、安全な活動の環境を作りながら、やさしさや相手への思いやりなどを身につけられるように配慮されています。楽しく1日を送って、成長していけるように工夫されています。その中には、クラス名に「さくら」「ばら」「うめ」「ぼたん」といった花の名前や「きりん」「うさぎ」などの動物のなまえを使うというケースもあります。このケースでは揺籃期の児童の成長を促し、保護育成の発想が背景にあります。
さあ、こうして考えてみるとボランティア活動における「楽しさ」とは何でしょうか。
皆さんは、如何お考えでしょうか。
宮本敏弥(地域日本語教育コーディネーター:文化庁H29研修修了)