仏教のお話

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24
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 21:23:52 修正

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疑いを挙げて願い望む
:
衆の疑いを述べる
:
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経:その時に大衆の中に、諸の声聞・漏尽の阿羅漢・阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等の千二百人、及び声聞・辟支仏の心を発せる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷あり。各この念を作さく。
:
いま世尊、何が故ぞ慇懃(おんごん)に方便を称歎(しょうたん)して、この(みこと)を作したもう。仏の得たまえる所の法は、甚深にして解り難く、言説したもう所あるは意趣知り難し。一切の声聞・辟支仏の及ぶこと能わざる所なり。
:
仏、一解脱の義を説きたまいしかば、我等もまたこの法を得て涅槃に到れり。しかるに今この義の所趣を知らず。
:
:
R訳:すると、そのお説法を聞いていた憍陳如(きょうじんにょ)をはじめとする声聞や聖者たち 1200 人。そして声聞や縁覚の境地を求める者たちは、釈尊が今説かれたことの真意を理解できずに、次のような疑問の心を持ちました・・・。なぜ世尊は今、『方便』というものをこのように強調して讃えるのであろうか? しかも『仏の悟った法(真理)は大変奥深く難解であるために、声聞や縁覚の境地の者には理解できず、知ることすらできない』などとおっしゃるのであろうか?
:
:
太郎訳:その時に大衆の中の様々な段階の声聞の弟子たちや、煩悩を滅した阿羅漢の境地の弟子たち、アージュニャータ・カウンディニヤ等の千二百人の弟子たち、そして、声聞や縁覚の境地を求める弟子たち、男女の出家した修行者たち、在家の修行者たちは、各々このように思いました。
:
今、世尊は、何故、念を入れて方便を讃えて、このようにおっしゃるのでしょう? 仏の得られた真実は、非常に深く理解しがたく、言葉で説いた内容は、その意向は知りがたく、一切の声聞や縁覚では、その真意を知ることはできないとおっしゃいました。
:
世尊が、一つの解脱の方法を説かれ、私たちは、その教えに従って修行をし、涅槃の境地に入りました。それなのに、何故、今さら声聞・縁覚では仏さまの教えの真意を知ることは出来ないとおっしゃるのでしょう?
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釈尊の権を開く
:
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23
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 21:05:08 修正

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釈尊の権を開く
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:
経:諸の声聞衆 
及び 縁覚乗を求むる者に告ぐ
我 苦縛(くばく)を脱し
涅槃を逮得せしめたることは
仏 方便力を以て
示すに三乗の教を以てす
衆生処処の著 これを引いて
出ずることを得せしめんとなり

:
:
太郎訳:声聞の人々よ
そして 縁覚の境地を
求める人々に告げます
私が人々を苦しみから救いだし
安らぎの境地に導いたのは
方便によって
三乗の教えを示したことによります
人々は それぞれに異なるものに
執着していますから
まずはその執着から
離れさせるためです

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:
釈尊の権を開く
:
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22
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 20:56:56 修正

:
略して開顕し執を動じて疑いを生じる
:
諸仏の実を顕す
:
:
経:舎利弗当に知るべし 
諸仏は(みこと)異ることなし
仏の所説の法に於て 
当に大信力を生ずべし
世尊は 法久しゅうして後 
(かなら)ず 当に真実を説きたもうべし

:
:
太郎訳:シャーリプトラよ
このことを しっかりと知っておいてください
諸仏の教えは真実です。
仏の様々な教えを聞いて
確かに大いなる信の力を起こしてください。
仏は 長い間 教えを説いた後
必ずや 真実の教えを説くのです

:
:
諸仏の実を顕す
:
:

21
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 11:55:33

:
言を絶して権実二智を讚歎する-5
:
:
経:不退の諸の菩薩
その数恒沙の如くにして
一心に共に思求すとも 
またまた知ること能わじ
また舎利弗に告ぐ 
無漏不思議の
甚深微妙の法を 
我 今すでに具え得たり
ただ我この相を知れり
十方の仏もまた然なり

:
:
太郎訳:二度と仏道から
離れることのない菩薩たちが
多く集い 一心に皆で思惟したとしても
仏の智慧を知ることは出来ません
また シャーリプトラに告げます
煩悩がなく不思議な
非常に奥深く
正しくて優れた真実の教えを
私は今すでに具えています
ただ、私だけが真実を覚っています
十方の諸仏も同様に覚っています

:
:
言を絶して権実二智を讚歎する-5
:
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20
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 11:48:27

:
言を絶して権実二智を讚歎する-4
:
:
経:新発意の菩薩の
無数の仏を供養し
諸の義趣を了達し
また よく法を説かんもの
稲麻竹葦(とうまちくい)の如くにして 
十方の刹に充満せん
一心に妙智を以て
恒河沙劫に於て
咸く 皆 共に思量すとも
仏智を知ること能わじ

:
:
太郎訳:新しく志を持った菩薩たちが
無数の仏を供養し
様々な教えを理解して
また 人々にも教えを説き弘める者が
多くの植物が生い茂るように
十方世界に満ちていて
それらの菩薩が集い
一心に正しい智によって
長い時間をかけて皆で思惟したとしても
仏の智慧を知ることは出来ません

:
:
言を絶して権実二智を讚歎する-4
:
:

19
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 11:42:58

:
言を絶して権実二智を讚歎する-3
:
:
経:辟支仏の利智にして
無漏の最後身なる
また 十方界に満ちて 
その数竹林の如くならん
これ等 共に一心に
億無量劫に於て
仏の実智を思わんと欲すとも 
よく少分をも知ることなけん

:
:
太郎訳:縁覚の中で 智を得ており
最高の聖者としての境地に達した者が
十方世界に竹林の竹のように無数にいて
それらの縁覚が集い
一心に長い時間をかけて
仏の真実の智慧を思惟しても
その幾分の一も知ることはできません

:
:
言を絶して権実二智を讚歎する-3
:
:

18
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 11:19:42

:
言を絶して権実二智を讚歎する-2
:
:
経:諸仏の弟子衆の
かつて諸仏を供養し
一切の漏すでに尽くして 
この最後身に住せる
是の如き諸人等
その力 堪えざる所なり
仮使(たとい)世間に満てらん 
皆 舎利弗の如くにして
(おもい)を尽くして共に度量すとも 
仏智測ること能わじ
正使(たとい)十方に満てらん 
皆 舎利弗の如く
及び 余の諸の弟子 
また 十方の(くに)に満てらん
思を尽くして 共に度量すとも 
またまた知ること能わじ

:
:
太郎訳:諸仏の弟子たちの
かつて諸仏を供養し
一切の煩悩を滅し尽くして
人間として最高の境地に達した者でも
真実の教えを知ることはできません
仮に 世間の人々が
誰もがシャーリプトラのように
知識があって知恵があり
それらの人々が集い
懸命に思惟したとしても
仏の智慧を知ることは出来ません。
仮に 十方世界の人々が
誰もがシャーリプトラのように
知識があって知恵があったとして
また その他の多くの弟子たち
また 十方の国のすべての人を集めて
それらの人々が集い
懸命に思惟したとしても
仏の智慧を知ることは出来ません

:
:
言を絶して権実二智を讚歎する-2
:
:

17
ダルマ太郎 2024/05/01 (水) 00:59:01 修正

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性相の義
:
太郎論:サンスクリット原文では、ラクシャナ lakṣaṇa です。主に「特徴・属性・マーク」という意味で使われます。漢訳だと「相」です。無量義経以来、よく出てくる言葉なのでおなじみですね。
:
鳩摩羅什の訳だと「覚りの大果報 真理と現象について 仏はよく知っている」というように訳すと思いますが、サンスクリット原文からだと、「覚りの大果報とその特徴を仏はよく知っている」というような意味になります。大部、イメージが違いますね。これは、鳩摩羅什の誤訳ではなく、鳩摩羅什の用いたサンスクリット経典の底本と、私の持っているサンスクリット経典とが異なるからだと思います。
:
:
言辞とは
:
太郎論:この場合の言辞は、ヴィヤーハーラ vyāhāra の訳です。意味は、「言葉・言語・会話」です。漢訳で同じく言辞と訳されるニルクティ nirukti は、語源の意味です。法華経には、ニルクティの方がよく出てきます。
:
:
経:na taddarśayituṃ śakyaṃ vyāhāro’sya na vidyate|
nāpyasau tādṛśaḥ kaścit sattvo lokasmi vidyate||6||

:
:
言辞の相寂滅せり
:
太郎論:「言辞の相寂滅せり」とは、「言葉に依る特徴は無い」という意味です。つまり、「言葉によって示すことはできない」ということです。この文の前に、「この法は示すべからず」とありますから、言葉によって示すことができないのは、「真理」だということが分かります。それも、最高の真理である真諦・第一義諦でしょう。最高の真理とは、妙法のことです。
:
真理には、二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の真理であり、言葉によって表現されます。真諦とは、真の真理のことであり、世俗の言葉では表現できません。言葉では伝えることのできない真諦を伝えるために、諸仏は、世俗の言葉を駆使し、譬喩・因縁・言辞などの方便にしています。
:
真の真理は、言葉では明示できないため、人々はこの真理を理解できません。ただし、信力の固い菩薩を除きます。
:
:
諸の菩薩衆の信力堅固なる者をば除く
:
太郎論:ここに出てくる「信力」は、アディムクティ adhimukti の訳です。意味は、「確信・決心・不動」です。そのことを確信し、それを成就することを決心し、その心が不動だということです。法華経の場合は、「誰もが成仏できることの確信」「自他の成仏を決心」「自他の成仏を求める心が不動」という意味で使われます。漢訳では、「信解」といいます。
:
幾つかのサンスクリットの単語が「信」と訳されます。シュラッダー śraddhā、バクティ bhakti、プラサーダ prasada、アディムクティ adhimuktiなどです。法華経では、バクティはあまり使われません。バクティとは、熱烈な信仰のことで、ヒンドゥー教の人々による神々に対する思いがバクティです。信解はバクティのことではありませんが、日本人はバクティの意味だと思い込んでいる人が多いようです。
:
よって、「諸の菩薩衆の信力堅固なる者をば除く」というのは、成仏できることを確信し、自他の成仏を決心し、自他の成仏を求める心が不動な菩薩ならば、真の真理を知ることができる、ということです。信仰心の強い菩薩という意味ではありません。
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:
性相の義
:
:

16
ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 22:24:13 修正

:
言を絶して権実二智を讚歎する-1
:
経:是の如き大果報
種々の性相の義
我 及び十方の仏 
乃しよくこの事を知しめせり
この法は示すべからず
言辞の相寂滅せり
諸余の衆生類は 
よく得解することあることなし
諸の菩薩衆の
信力堅固なる者をば除く

:
:
R訳:私が悟った真理の内容は、文字にも言葉にもあらわすことが出来ません。ですから、仏以外の者が知り得ることは出来ません。しかし、信ずる力が堅固で、実践の決意が強い菩薩たちだけは、この真理を理解することが出来るでしょう。
:
:
太郎訳:覚りを開くことによって得る
大きな果報とその果報の特徴を
私と十方の諸仏は
よく知っています
この真理は 明示することができません
明示するための言葉もありません
よって人々はこの真理を
理解し 得ることは出来ません
ただし 菩薩たちの中の
信力のかたい者は除きます

:
:
言を絶して権実二智を讚歎する-1
:
:

7
ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 21:24:58

:
輪廻は幻
:
太郎論:輪廻が事実として有ると主張する人に、その根拠を質問したら、経典に書いてあるからだと答えました。確かに初期仏教の経典には、輪廻のことが書かれています。大乗仏教の経典にも書かれています。経典に書いてあるのなら、それを信じるのが仏教徒だろう? と、輪廻を信じないことを責める口調です。
:
経典とは、釈尊の説法の記録ではありません。人々を救済・教化するための教本です。なので、人々を覚りに導くために、数々の方便を用います。業・輪廻・解脱は方便なので、そういうことが事実として有るわけではありません。しかし、輪廻を信じる人は、輪廻が有ると思い込み、その思い込みによって概念化しています。よって、事実としては無いけれど、概念としては有るという幻をつくってしまいます。輪廻を信じない人は輪廻に対する恐怖感はありませんが、輪廻を信じる人は、幻に悩み苦しみます。
:
:
輪廻は幻
:
:

15
ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 08:59:39

:
偈頌
:
経:その時に世尊、重ねてこの義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく。
:
:
言に寄せて権実二智を讚歎する
:
経:世雄は量るべからず 諸天及び世人
一切衆生の類 能く仏を知る者なし
仏の力無所畏 解脱諸の三昧
及び仏の諸余の法は 能く測量する者なし
本無数の仏に従って 具足して諸道を行じたまえり
甚深微妙の法は 見難く了すべきこと難し
無量億劫に於て 此の諸道を行じ已って
道場にして果を成ずることを得て 我已に悉く知見す

:
:
R訳:世尊は以上のことを重ねて強調するために『偈』をお説きになりました。宇宙のあらゆる者が、仏の『真の存在・はたらき』を理解しようと思っても、それは計り知れなく大きいために、正しく理解をすることはできません。仏の存在とは極めて深淵なもので、その仏に私が成れたのは、遠い過去世で無数の仏に従い、説かれる教えを完全に実践し尽くしたからです。気の遠くなるような長い年月をかけて精進し、そしてその後、ブッタガヤーの菩提樹下にて、『真理』を悟ることが出来たのです。
:
:
太郎訳:仏の存在を量ることはできません
天上界の神々や地上界の人々
一切衆生の類で
仏を知り得る者は誰もいません。
仏の十力 四無畏 解脱 様々な瞑想
そして仏の様々な教えを
明らかに知る者はいません
仏は 本 無数の諸仏に従って
諸仏の教えをしっかりと受持し
成仏への道を歩みました
非常に奥が深く
正しく優れている真実の教えは
出会うことが難しく
理解しにくい内容です
無量の時において
様々な修行を行じ終わって
私は この世界において成仏し
この世界の真実をすべて覚りました

:
:
言に寄せて権実二智を讚歎する
:
:

14
ダルマ太郎 2024/04/30 (火) 08:37:18 修正

:
十如是について
:
太郎論:天台教学では、読経の時、十如是を三回読みます。これは、三諦(空・仮・中)の義に配したものです。
:
是相如(是の相も如なり)=空 この相も真理である
如是相(是の如きの相)=仮 このような相
相如是(相も是の如し)=中 相もこのようである

:
事象の真理は空であり、このような事象は仮であり、事象は縁起によって有るので、実体は有りません。龍樹の場合、中とは「非有非無の中道」なのですが、天台では、「有空の中道」で解釈しています。私たちが、相性体力作因縁果報と観ているのは、仮であって実体は有りません。特徴は空だし、自性は空だし、体は空です。力作因縁果報も同様に空です。すべてが空なので、「本末究竟等」だと説きます。
:
事象を観察し、真理を覚るのです。諸法の実相を知ることによって、すべての事象が、一つの真理から生じていることを知見します。逆に言えば、「一つの真理から、無量の事象が生じる」ということです。応身仏である釈尊は、言葉によって人々を真理へと導きましたが、法身仏は、現象によって人々を真理へと導きます。現象を方便と観ることが鍵です。
:
説法の初めに、法身仏のことが出てくるので、聞いている人たちは、皆、意味が分かりませんでした。智慧第一の舎利弗でさえも、この時点では、理解していません。この後の説法で、徐々に法身仏のことが明らかになっていきます。
:
:
十如是について
:
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13
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 23:41:25 修正

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相性体力作因縁果報について 2
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6.(いん) ヘーツ hetu
:
因とは、ヘーツ hetu の訳です。原因・理由・動機のことです。花が香る時、その主体は花ですから、因とは花のことです。花が香ることが結果です。花は香りという力を発動して、風や温度などの環境を縁とし、さらに香りをかぐ縁を得て、はじめて花が香ります。
:
:
7. (えん) プラトヤヤ pratyaya
:
縁とは、プラトヤヤ pratyaya の訳です。プラトヤヤも原因という意味なのですが、仏教では、結果に至る原因は一つではなく多数であると観ますので、主原因を因といい、主原因を助ける原因・条件を縁といいます。合わせて因縁です。よって、因は一つですが、縁は多数あります。深く観察すれば、縁は因以外のすべてのことです。
:
十如是の場合、一つの現象を観察します。「花が咲く」という現象を観て、そのことの相性体力作因縁果報を観ます。よって、「花が咲くことの縁」を観ます。花が咲いたことによって、他にどのような縁となるかを観るのです。花が咲けば、人はそれを見るし、蜂や蝶は蜜を吸いに来ます。そのように、それがどのような縁になっているのかを観察するのですから、「花が咲くことの縁は、水・光・温度・空気・養分・堆肥だ」というような見方ではありません。
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8.() パラ phala
:
果とは、パラ phala の訳です。結果という意味です。今、この瞬間を切り取れば、すべての物事は、因としても、縁としても、果としても観ることができます。しかし、普通、私たちが見ているのは結果です。
:
:
9.(ほう) ヴィパーカ vipāka
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報とは、ヴィパーカ vipāka の訳です。通常、果報といいます。結果とは、花が咲く、花が香るというような状態のことですが、果報とは境界のことをいいます。境界とは、苦楽、もっと分ければ、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上という境界です。花が咲いているということは、きちんと育った成果でしょうから、楽の境地、天上界にあるといえます。もし、成長の段階で枯れている草があれば、それは苦の境地、地獄界にあるといえるかも知れません。
:
よく報を時間経過として観る方がいますが、この十如是は、瞬間的にそのものを十の視点で観察しているのですから、時間という概念は必要ありません。相性体力作因縁果報等は、時空の一点についての観察です。もちろん、他との関わりはありますが、観る対象は一つです。
:
:
10.本末究竟等(ほんまつくきょうとう) サマ sama
:
等というのは、等しい、平等のことでしょうから、サマ sama の訳だと思います。相性体力作因縁果報は、それぞれに違って見えるけれど、究めれば平等だということでしょう。すべては空ですから、仮に相性体力作因縁果報と分けて観察しても、究めれば平等だということです。
:
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相性体力作因縁果報について 2
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12
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 23:39:05 修正

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相性体力作因縁果報について
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1.(そう) ラクシャナー lakṣaṇa
:
相とは、ラクシャナー lakṣaṇa の訳です。特徴・特質・名称の意味です。外形・姿かたちという意味もあります。それを他と区別する時は、そのものと他との違いを観ます。他との違いを特徴といい、特徴があれば他と分けられます。他との区別ができたものには、名称をつけていますから、相とは名称のことだという見方もあります。赤い花、大きな犬、美しい宝石などのように、それらは言葉によって表されます。真理としての相(如是相)は、無相です。他と比べなければ特徴はありませんから、それ自体に何らかの特徴はありません。そのものの相の有無は否定されます。
:
:
2.(しょう) スヴァバーヴァ svabhāva
:
性というのは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。自性・本性・本来のありかたという意味です。赤い花なら、赤を赤とする性、花を花とする性があり、全体として赤い花としての性があります。インド人は、表面的な相とそれを成り立たせる性の二方向から観察しました。相があるところには、性がありますので、相性は一体です。真理としての性(如是性)は、無自性です。諸法の実体は欠如していますので、自性もありません。また、そのもの以外によって特徴があるように、そのものを成り立たせるのは他(縁)です。つまり、因縁に依って、諸法は仮に有りますから自性の有無は否定されます。空です。
:
:
3.(たい) ダーツ dhātu
:
体とは、ダーツ dhātu の訳です。「花が香る」という場合、香りの主は花です。このような何らかのはたらきを持つ主のことを体といいます。体は、相によって認識され、相は性と一体ですから、相性を持つ主体のことでもあります。相性体を総じて体ともいいます。真理としての体(如是体)は、無体です。無相であり、無自性であるならば、その主体の有無も否定されます。
:
:
4.(りき) バラ bala
:
力とは、バラ bala の訳です。内に秘めた力、力用、潜在能力のことです。花が香るのは、その花に香りを出す力があるからです。真理としての力(如是力)は、無力です。力の有無は否定されます。
:
:
5.() カーラカ kāraka
:
作とは、カーラカ kāraka の訳です。作用・はたらき・力の発動のことです。花が香る時、香るということが作です。ものごとは、体と用(ゆう)によって観察されます。「花が香る」「水が流れる」「風が吹く」というように、主語と述語、名詞と動詞によって言葉にされます。私たちが、そのものを認識するのは、体用に依ります。そのものが何らかの働きをしなければ、主体を観ることはありません。見せる・聞かせる・嗅がせる・味あわせる・触れさせるなどの働きを発っしています。真理としての作(如是作)は、無作です。作の有無は否定されます。
:
:

11
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 19:22:57 修正

:
諸法実相 サンスクリット原典
:
経:tathāgata eva śāriputra tathāgatasya dharmān deśayed yān dharmāṃs tathāgato jānāti | sarva-dharmān api śāriputra tathāgata eva deśayati | sarva-dharmān api tathāgata eva jānāti | ye ca te dharmāḥ yathā ca te dharmā yādṛśāś ca te dharmā yal-lakṣaṇāś ca te dharmā yat-svabhāvāś ca te dharmāḥ | ye ca yathā ca yādṛśāś ca yal-lakṣaṇāś ca yat-svabhāvāś ca te dharmā iti | teṣu dharmeṣu tathāgata eva pratyakṣo 'parokṣaḥ ||
:
:
訳:シャーリプトラよ。実に如来は、如来が知っているところの諸法を如来のために示されるだろう。シャーリプトラよ。すべての法についてもまた、如来が示される。すべての法についてもまた、如来こそが知っている。諸法とは何か? 諸法とはどのようにあるか? 諸法とはどのようなものか? 諸法とはどのような特徴を持つか? 諸法とはどのような性を持つか? 諸法とは何か? どのようにあるか? どのようなものか? どのような特徴を持つか? どのような自性を持つか? ということを。それらの法について、如来だけが明瞭にし、明らかに見ている。
:
サンスクリット原文からの現代語訳は、植木雅俊先生の『法華経』を参考にしました。
:
:
太郎論:このように、「それらのものごとが、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような自性を持っているのかを如来だけが知り得ている」と説かれています。サンスクリット原典には五つの項目しかありませんが、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経には十の項目があります。このことで、天台智顗の一念三千の根拠を失うという方もいますが、三千とは諸法の事なので、数にはこだわらなくていいように思えます。
:
五つの項目とは、①諸法とは何か? ②諸法とはどのようにあるか? ③諸法とはどのようなものか? ④諸法とはどのような特徴を持つか? ⑤諸法とはどのような性を持つか? です。
:
:
諸法実相 サンスクリット原典
:
:

10
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 02:35:52 修正

:
諸法実相
:
R論:宇宙のすべてのもののありのままの真実の相(すがた)。これを大きく分ければ、➊『すべてのものごとの、現象として現れている相(すがた)をありのままに観る』。➋『すべてのものごとの本質の相(すがた)を観る』の二つになります。
:
『すべてのものごとの、本質の相(すがた)をみながら、現象として現われている相(すがた)をも、ありのままにみる』ことになります。~ 仏の立場からすると、すべては「大調和の世界(涅槃)」なのです。仏はそれを見極めて、われわれに示して下さいました。凡夫であるわれわれがそのように見ることができずに大調和しないのは、人間たちが小さな「我」をもってものごとを見、考え、行動するからであって、全ての人が「我」に執着する心を捨てて、ありのまま(如是)の心をもってすべてを見、考え、行動すれば、この世はこのまま涅槃の相になるのだと教えられているのです。
:
:
太郎論:実相とは、真実無相の略だと解説されています。よって、諸法実相とは、事物・現象が真実としては、特徴が無い、ということです。これまでは、「無量の教えは一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の方便にして教える」、というように、教え(方便)と真理のことを説いていましたが、ここでは、「無量の現象は一つの真理から生じる」「一つの真理を無量の現象(方便)にして教える」、というように、現象(方便)と真理のことを説いています。このことは、如来寿量品で詳しく説かれますが、方便品の最初にこのことが説かれていることが興味深いです。
:
:
縁起観
:
R論:全ての存在やそのはたらきは、因縁所生(因と縁があって生ずる所)のものであり、縁起(因が縁にあって起こる)であるということができます。これがお釈迦さまのさとりの一大根本であり、すべての教えはここからでているといっても過言ではありますまい。これを「縁起観」といいますが、《諸法実相》の教えもこの「縁起観」が根本になっていることは、言うまでもありません。
:
:
太郎論:縁起とは、プラティーティヤ・サムトパーダ pratītya-samutpāda の訳です。プラティーティヤが「縁」、サムトパーダが「生起」なので、「縁って起こる」という意味です。縁起は、仏教の根本教義であり、初期仏教の経典から密教の経典まで、すべての教えの土台になっています。一切を苦と観るのは、ものごとが縁起によるからです。自力だけでなく、他との関係によってものごとは起こりますから、自分の力ではコントロールはできません。老いるのも、病も、死も、医療によって少しは抵抗できますが、いずれは老化し、病気が悪化し、死んでいきます。自分の思い通りにならないことを、思い通りにしようとするから苦なのです。無常は、縁が変わるから、因も変わります。縁起は、因+縁という単純なものではなく、無数の事象との関係によって起こりますので、縁によって生じるものは無常です。無我は、縁によって起こるものは、仮の存在であって実体は有りませんから、無我といいます。このように教義のベースには、必ず縁起という教義があります。
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諸法実相の教義も「因縁果報」という言葉が出てきますので、縁起がベースにあります。しかし、十如是の場合は、あるものの因縁果報を見るわけですから、因はこれ、縁はあれというように分けるのではなく、因としてのこれ、縁としてのこれ、というように観ます。このことは、後に十如是の解釈をするときに、詳しく説明いたします。
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一念三千
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R論:すべての人間は「平等な存在」であることは、『無量義経 説法品』でのべました。ところが、現実の相として現われているものは、賢い人・愚かな人・心美しい人・心いやしい人等々、じつに千差万別であり~ はなはだしい上下の相違があります。そこで、「人間本来平等」であるということも真実ではあるけれども、現実のあらわれにおいて『不平等』であるということも真実であります。したがって人間をみるときには、この『平等』・『不平等』の両面からみなければ、その本質はつかめないわけです。ところが、もっと深く考えてゆきますと、その『不平等』というのは決して固定したものではなく、つねに流動しているものだということがわかってきます。~ある条件(縁)にあえば、心いやしい人も心美しい人に変わることができ、逆に、不善の心や行為という因が、ある縁にあえば、幸福に満ちた人がたちまち苦悩のどん底に落ち込むこともありえます。~ 心の持ち方さえ変えれば、どの世界へも行くことができるのです。そういう可能性を、人間は平等に持っているのです。ですから、目の前に見る『不平等』は、決して固定した『不平等』ではなく、自由に流動させることのできる『不平等』です。つまり、〈『不平等』をどうにでもつくることのできる可能性を、みんなが等しく持っているところに『人間の平等さがある』〉と言うこともできるわけです。
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太郎論:一念三千は、天台大師智顗が提案した止観の一つです。止観とは、精神を統一させ、観察することです。一つの心に三千の世間(諸法)が具わっていることをいいます。刹那の一心に十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)があり、その十界のそれぞれに十界が具わって百界となり、さらに十如是が具わって千如是となり、それに三世間(衆生・五陰・国土)が具わって三千世間となります。ほんの刹那の一心に、三千世間が具わっていることを観察します。
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諸法実相
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9
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 01:23:14

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正しく言を絶する
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経:止みなん、舎利弗。また説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏といましよく諸法の実相を究尽(くじん)したまえり。いわゆる諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。
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R訳:ところがここまでお説きになると、世尊は突然、黙りこまれました・・・。「やめよう舎利弗。真理を説いても誰も解るものではない。だから説くのはやめよう。なぜならば『真理』は稀有で最高の教えであり、それは仏と仏との間でしか理解できないものです。ふつうの人間では到底理解できるものではありません。『真理』とは、この世の実相を説き示したものであり、それは『相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等』という作用と関係で成り立っていることを示しています。これを『十如是』と言います。仏はこの『真理』を悟ったのであります。
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太郎訳:止めましょう、シャーリプトラ。このことは、説かないほうがいいでしょう。なぜなら、仏の覚った真理は、最高であり、稀であり、非常に難解です。ただ、仏と仏だけが、よく諸法の実相を見極めているのです。諸法の実相とは、諸法の相の真実、諸法の性の真実、諸法の体の真実、諸法の力の真実、諸法の作の真実、諸法の因の真実、諸法の縁の真実、諸法の果の真実、諸法の報の真実、諸法の相から報までが等しいという真実ということです。
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正しく言を絶する
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8
ダルマ太郎 2024/04/28 (日) 01:10:10

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言を絶して権実二智を讚歎する
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言を絶する由
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経:舎利弗。如来はよく種々に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗。要を取ってこれを言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
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R訳:舎利弗よ。仏というものは相手の機根と場合に応じて、様々に説き方を変えて巧みに教えを説きます。しかも、言葉を嚙みくだいて相手に判りやすく説き、それによってその人に『よろこびと満足感』を与えるのです。
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太郎訳:シャーリプトラよ。如来は、相手に応じて様々に説き方を分けて、巧みに様々な教えを説きます。相手に分かりやすい言葉を選んで柔らかく教えを説き、人々に悦びの心を起こします。シャーリプトラよ。要約して言いましょう。仏は、最高の真理を完全に覚っているのです。
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太郎論:釈尊は、相手に応じて教えを説き、人々を悦ばせてきました。そういう方便を使えるのは、最高の真理(妙法)を完全に覚っているからだと告げました。つまり、釈尊は、妙法を覚っているから、巧みに方便を使えるのです。こうやって、何度も繰り返し方便を讃えるのは、仏教にとって方便が非常に重要だということでしょう。方便力を身につけて、人々を救済・教化しましょう、というメッセージのためです。
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言を絶する由
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7
ダルマ太郎 2024/04/27 (土) 20:39:22 修正

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釈尊の二智を讚歎する
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経:舎利弗。吾、成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬諭をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん。如来は方便・知見波羅蜜皆すでに具足せり。舎利弗。如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
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R訳:舎利弗よ。私が悟りを得てから今日まで、様々な過去の事例や譬えを用いて法を説いてきました。それは人々を『執着』の苦悩から離れさせるためのものであって、なぜそれが出来たのかというと、それは私が、『方便』と『智慧』の両方を完全に具えているから可能であったのです。舎利弗よ。仏の『智慧』は非常に広大で奥深いものです。仏は宇宙全体のあらゆるものごとを知り尽くし、遠い過去からはるか未来のことまでを見通しています。そればかりか、『慈・悲・喜・捨』の『四無量心』という人々に福を与える大徳を具えています。そして何事にもとらわれない『完全なる自由自在』な『四無碍』の境地を得ています。そして、何者に対しても恐れずに法を説くことができる『四無畏』という徳力も具えています。心は散乱することなく完全に『苦』から抜け出して解放されており、今まで誰も知ることができなかった『真理』を完璧に悟っているのです。
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太郎訳:シャーリプトラよ。私は、成仏してからこれまで、様々な過去の実例や体験談、様々な譬え話によって、広く人々のために教えを説き、無数の方便の教えによって、人々を仏道に導いて執着の心を離れさせてきました。なぜ、そのようなことが出来たのかというと如来は、方便と智慧を完成させているからです。シャーリプトラ。如来の智慧は、広く、大きく、深遠です。人々への慈悲の心は無量であり、自由自在です。人々を救うための智力があり、畏れがなく、禅定の境地、解脱の境地、三昧の境地にあって、深く無分別の境地に入っており、これまでの人類が達していない最高の真理を得ました。
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太郎論:最初に諸仏の二智(智慧と方便)を讃嘆し、次に釈尊の二智を讃嘆しています。諸仏がそうであったように、釈尊も人々を真理へと導くために、方便を用いたことが説かれています。因縁とは、関係のことです。主に仏陀と弟子との過去の関係・出来事を通して、真理へと導く方法です。譬諭とは、たとえ話によって真理へと導く方法です。釈尊は、これまで、これらの方便を用いて、人々を執着から離れさせてきました。それが出来たのは、釈尊が、方便波羅蜜・智慧波羅蜜を具えているからです。
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法華経では、弟子たちの持つ様々な執着を指摘し、執着から離れるように導いています。それは、「声聞は成仏できないこと」「悪人は成仏できないこと」「女性は成仏できないこと」などです。
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般若経では、六波羅蜜が説かれましたが、法華経では、十波羅蜜が説かれています。十波羅蜜という言葉は出てきませんが、それぞれの項目については説かれています。それは、六波羅蜜に「方便・願・力・智」という波羅蜜を加えたものです。
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釈尊の二智を讚歎する
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6
ダルマ太郎 2024/04/27 (土) 14:47:32 修正

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百千万億無数の諸仏
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太郎論:百千万億無数というのは、百×千×万×億×無数 というように、すべての積です。無数が入っていますので、数えきれないほどの数です。仏は、過去において、無数の仏に親近したといいます。仏は、滅多に現れないのに、無数の仏に出会ったとはどういうことなのでしょう? たくさんの仏に出会ったということなのでしょうが、あまりにも数が大きいですね。おそらく、この場合の仏とは、応身仏なのでしょう。真理によって現象がありますが、真理のことを法身仏、現象のことを応身仏といいます。多くの諸仏とは、自然界に現れた自分を導く存在の事なのでしょう。そういう存在を仏と見て供養・恭敬・尊重・讃歎することは大事なことだと思います。
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:
勇猛精進
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太郎論:勇猛精進とは、自らが進んで励み、勇敢で努力を続け怠らないことです。サンスクリット原典では、クルヤ・ヴィーリヤ kṛta-vīrya です。「勇敢に行動する」という意味です。
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名称普く聞えたまえり
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太郎論:有名になることによって、多くの人々が教えを聞きに来ます。
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甚深未曾有の法
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太郎論:「非常に奥深く、見聞したことのない真理」という意味です。つまり、妙法のことです。
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宜よろしきに随って説きたもう所意趣解り難し
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R論:すなわち〈方便〉によって(真理を)お説きになることです。方便の教えを聞いた人は、それによって幸福の階段を一段上ったことは確かなのですが、たいていそれで満足してしまうために、仏の真意がずっと上にあること(すなわち、すべての人を仏の境地まで引き上げたいという最終目的)に気がつかないのです。この『所意趣解り難し』というのは、(真意を)理解しにくいというのではなく、〈気が付かない〉という意味です。

太郎論:宜しきに随って説きたもう所とは、「随宜説法(ずいぎせっぽう)」とも言います。相手の機根・性質・欲求に合わせて教えを説くことで、「対機説法」ともいいます。相手に応じて教えを説いても、仏の意図は伝わらなかったといいます。それほど、妙法は奥深くて理解し難いということでしょう。
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:
百千万億無数の諸仏
:
:

4
ダルマ太郎 2024/04/27 (土) 14:35:40

:
問答 輪廻について
:
:
知恵袋で、輪廻についての問答をしました。その内容を上げておきます。「問答 輪廻について」というスレです。
:
私は、主に大乗仏教を学んでいます。相手の方は、初期仏教の経典を学ばれているようで、特にパーリ語経典を重視されているようです。経典に書かれていることは事実だと主張し、輪廻も事実だといいます。私は、経典は教本であり、人々を導くために方便を駆使されているととらえています。譬喩表現・象徴表現などが、ふんだんに説かれていますから、釈尊の説法の記録ではないと思っています。業・輪廻・解脱などの教えは、すべて方便であり、事実ではありません。
:
人々は、輪廻が有ると思い込んでいるために、概念としては、その人の脳内にはあります。事実としては無くても、概念としては有りますから、非有非無です。輪廻が事実として有るという、その人との問答は平行線でした。
:
人それぞれで、色んな受け止め方があるのだと再確認できました。ご参考になればと思います。
:
:
問答 輪廻について
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:

52
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:28:12

ダルマ太郎さん

2024/4/26 0:31

了解しました。
お疲れ様です。

以上です。

51
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:27:14

Sさん

質問者2024/4/26 0:24

きりがないので、ここまでにしましょう。
大智度論の輪廻理証に関しては長いので気が向いたら質問として投稿しますよ。
「それは方便です」と繰り返すだけなのがわかっているので私にとっては無意味ですが、世間には眼のある人もいると思いますので。

それでは、ご苦労様です。

50
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:26:22

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:51

> 文字で書かれた大乗経典の方にこそ真贋を巡って多くの議論があります。

話が変わっていますね。釈尊は、教えを文字にして残さなかったけれど、龍樹は文字で残しているので、何を論じていたのかがある程度理解できるといったのです。

> だからそれを説いているのが十二縁起であり、四諦八正道なんですが。

私は、輪廻が自然現象ならば、それを解決する手段はない、と言っているのです。目に見える災害ならば、それを避ける方法はあるのでしょうが、目に見えない輪廻をどうやって解決するのですか? 

十二因縁では、苦の根本原因を無明だとし、無明を滅すれば苦が滅すると説いています。無明とは、真理を知らないことですが、なぜ真理を知れば、輪廻から解脱できるのですか? 輪廻は概念として仮に有るということを覚ることによって、輪廻から解脱するのではありませんか? 四諦・八正道も、真理を覚るための教義です。

> 心が先導しているのです、この生存という現象は。

ここでいう心とは何ですか? 
先導している心って実在するのですか?

> 仏教が智慧を重視するのはこのためであって、智慧が目的ではないのです。

大乗仏教では、般若波羅蜜多を目的にしています。智慧を完成すると同時に、無上の覚りを得られるからです。このことは、般若心経にも、「依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提」だと説いています。

> 成仏とはなにか、成仏するとどうなるかは多くの経論に書いてあります。

コーヒーの味は、コーヒーを飲まないと分かりません。経論に書いてあっても、自分で体験しないと分からないのではありませんか?

49
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:23:33

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:49

> いえ、ブッダの言行の記録であるというのが、経典の前提です。

仏陀の言行の記録だというのは、Sさんの個人的見解ですか? それとも、所属する会の説ですか? 大乗仏教の経典は、紀元前後から編纂されたので、釈尊の言行の記録だとは思えませんが、初期経典も釈尊が亡くなってから、弟子たちが書き加えたことが多いのではないでしょうか? このことは、多くの学者も言っています。学者の説を信じないSさんにとっては、受け入れられないのでしょうが。

> そして、それが信じられないなら、ブッダの存在やブッダの悟りやブッダの教えも信じる根拠がなくなりますから、帰依も生じないでしょう。

経典は、仏陀の記録ではなく、仏陀の教えを記した教本です。だから、それを説かれた仏陀、仏陀の教えに帰依をします。

> ダルマ太郎さんは「初期経典を読む暇は無い」と放言していましたが、ブッダの教説そのものが含まれる可能性が最も高いものがあるのに、その程度の興味しか示さないというのはそういうことなんでしょう。

私は、大乗仏教の経典に興味・関心があるから仏教を学んでいます。般若経や法華経は、もう何度も読みましたが、今でも繰り返し読み続けています。読むごとに発見があるからです。

龍樹・無著・世親は、いずれも最初は説一切有部に属していました。しかし、後に大乗仏教にかわっています。大乗仏教に魅力を感じたからでしょう。

日本は、大乗仏教の国です。初期経典を読む人は少ないのではありませんか? 最近は、スリランカから僧侶が来て、テーラワーダ仏教を弘めていますが、どれほど日本に流布するのでしょうね?

48
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:21:14

ダルマ太郎さん

2024/4/25 23:48

> 長いので引用しませんが、私が引用した大智度論の釈往生品で、龍樹は根拠を示して輪廻の理証を試みていますよ。

Sさんが、どの文章によって、龍樹が根拠を示して輪廻の理証を試みていると言っているのかが分かりませんので、具体的にその文を引用してください。そうすると話が早いです。

> 経典の引用や仏教的概念の辞書的解説には熱心でも、自分自身の思想的態度を問われるという肝心のところでそのような逃げ口上しか出てこないとは。

Sさんが、私のことを決めつけて意見を言うので、「Sさんの感想ですね」と返しました。私は、何度も、「輪廻は概念として有るので、無ではない」と伝えているのに、それを無視して、私のことを断滅論者だと決めつけるから、それは感想だと言ったのです。

諸法は幻のごとしです。諸法には、業・輪廻・解脱も含まれます。輪廻は幻です。

> 二つを並べてみれば、あなたが実は断滅論者で、それを取り繕うために詭弁を弄しているのは明らかです。

なぜ私が詭弁を使う必要があるのですか? 
Sさんは、決めつけが多いですねwww
「断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です」「大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません」という文章のどこを読んで、私を断滅論者だと決めつけたのですか? 方便というのは、真理へと導く方法のことです。つまり、概念・言葉としては仮に有るので、それを受け入れて教化しているということです。

47
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 23:19:17

Sさん

質問者2024/4/25 21:19

>輪廻が事実として有るのなら、それは自然現象だということですか。

自然現象といいたければ言っても良いですが、他のあらゆるものと同様に縁起、因縁生ということです。

>解脱とは、一体何なのでしょう? 自然現象を解決できる方法ってあるのですか?

…だからそれを説いているのが十二縁起であり、四諦八正道なんですが。大丈夫でしょうか。般若経を読む前にいろいろ学ぶことがある気がしますが。

私たちの心も自然の一部です。そして、生存という現象は無明から始まり、死に終わるというサイクルを繰り返しています。心が先導しているのです、この生存という現象は。それが仏教の発見なのです。

従って智慧によって心の無明を解消すれば生存という現象が起こらなくなるということです。 仏教が智慧を重視するのはこのためであって、智慧が目的ではないのです。

>如実知見

如実知見は解脱の縁ですが、あくまで方便です。目的ではありません。

>成仏しないと分かりません。

成仏とはなにか、成仏するとどうなるかは多くの経論に書いてあります。すべて輪廻を前提としているはずですから、勉強してみてください。

46
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:43:41

Sさん

質問者2024/4/25 21:16

>ノンフィクションではないのです。

いえ、ブッダの言行の記録であるというのが、経典の前提です。如是我聞に始まり、経典の内容がどこで誰を相手に説かれたものか明らかにするという形式が、ほぼ全ての経典で徹底されているのはそういうことです。それを信じないというのは勝手ですが、そうした形式が徹底されていることからノンフィクションを標榜されたものであるということは明らかですし、大乗経典がこの形式を踏襲したのも創作ではなくノンフィクションだと信じさせたかったからです。

そして、それが信じられないなら、ブッダの存在やブッダの悟りやブッダの教えも信じる根拠がなくなりますから、帰依も生じないでしょう。

ダルマ太郎さんは「初期経典を読む暇は無い」と放言していましたが、ブッダの教説そのものが含まれる可能性が最も高いものがあるのに、その程度の興味しか示さないというのはそういうことなんでしょう。

>なぜなら、釈尊は教えの文字化をしていないからです。

文字で書かれた大乗経典の方にこそ真贋を巡って多くの議論があります。書かれていれば信頼性が高いなどということは言えない証拠です。そもそも、そういうのは仏教学者の弁であって仏教徒のものではありません。教えを聞いて、経典を読んで浄信が生じれば、それを縁として帰依を誓うのが仏教徒でしょう? それ以外にどうやって仏教徒になるのでしょう?

>最終的に覚るのは、学ぶ側自身の智慧によります。

龍樹は大智度論でこう言っています。

若人心中有信清淨。是人能入佛法。
若無信是人不能入佛法。
不信者言是事不如是。是不信相。

(訳)
「もし人の心に清浄なる信があれば、その人は仏法に入ることが出来る。
もし信が無ければその人は仏法に入ることができない。
信のないものはこれを否定するが、それこそが不信の特徴である。」

45
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:40:33

Sさん

質問者2024/4/25 21:13

>事実として輪廻が有るならば、そのことの根拠を示し、証明する必要があります。

長いので引用しませんが、私が引用した大智度論の釈往生品で、龍樹は根拠を示して輪廻の理証を試みていますよ。ご存じないのでしょうか? 成唯識論では死体の変化による現証を示して阿頼耶識の論証を試みているところがありますが、阿頼耶識というのは輪廻を前提とした識ですから、輪廻を論証しようとしているのと同じことです。他にもそういう試みは多くあるのに、ダルマ太郎さんが知らないだけだと思います。

>Sさんの感想ですね。

経典の引用や仏教的概念の辞書的解説には熱心でも、自分自身の思想的態度を問われるという肝心のところでそのような逃げ口上しか出てこないとは。

「一方、断見とは、死ねば断滅して、再び生まれ変わることはなく、業報・輪廻・解脱など無いとする思想です。仏教は、この思想だという誤解を持つ人が多いのですが、仏教は、断見を否定します。」

これはご自身の言葉でしょう?そして以下もあなたの言です。

「大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。」

二つを並べてみれば、あなたが実は断滅論者で、それを取り繕うために詭弁を弄しているのは明らかです。

44
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:34:04

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:42

> 輪廻が方便ならなんのために仏教が説かれたのか、その理由が無くなりますと言っているのです。

衆生は、輪廻が幻であることを知らず、実体の無い幻に恐怖し、怯え、苦しんでいるので、そこから救済するために仏教は説かれたのでしょう。輪廻からの解脱とは、輪廻を概念だと気づき、輪廻への執着から離れることだと思います。

輪廻が事実として有るのなら、それは自然現象だということですか。だとしたら、輪廻は地球が自転しているのと同じで、誰も変えようがありませんよね? 解脱とは、一体何なのでしょう? 自然現象を解決できる方法ってあるのですか? 輪廻が概念だから、それを解決できる方法があるということです。

> 最高の真理を知見することで知的な満足を得ることが仏教の目的ということですか?

概念ではなく、名称ではなく、あるがままの真実を知るということを「如実知見」といいますね。それを知的な満足だというのであれば、それはSさんの感想ですので、いいのではないでしょうか。

> 真理を知見したらどうなるのでしょうか? 成仏している人としていない人の違いはなんなのでしょうか?

それは、真理を知見しなければ分からないし、成仏しないと分かりません。

43
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:31:29

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:40

> 事実としては輪廻の存在を否定しているわけですから、事実としては断滅論者なのですが、それが邪見とされていることを知識として知っているので、そう見なされないように立ち回っているだけではないでしょうか。

それは、Sさんの感想ですね。諸法は幻のごとしです。諸法には、業・輪廻・解脱も含まれます。

> 経典に書いてあることが事実だと思っていないなら、なぜ仏教に帰依するのです?

経典に書いてあることが、事実だとは思っていません。経典とは、事実を記した記録書ではないし、歴史書でもありません。人々を救済し、教化し、覚りへと導く教本です。教えるために書かれていますから、方便・譬喩・因縁・言辞が多用されています。ノンフィクションではないのです。その点を熟考されてください。

> ブッダが存在したと、真理を悟ったとされていること、ブッダの教えたこと、それら全ては経典に書いてあるだけですよ。

そうです。だから、本当のことは誰にも分かりません。経典の内容は、仏陀の説法の記録ではありませんから、後の弟子たちの加筆が為されているでしょう。輪廻にしても、釈尊がどんな説法をされていたのかは謎です。なぜなら、釈尊は教えの文字化をしていないからです。大乗仏教の場合は、龍樹が教えを文字にしています。だから、ある程度は、仏教の教義が分かります。

> もちろん経典には修辞的・神話的な表現も多くありますから、逐語的に全てを信じる必要などありませんが、経典を貫いている前提や論理があるなら、それを信じないでどうやって仏教に帰依するのでしょうか。

真理は言葉では表せません。だから、釈尊は方便力で人々を真理へと導いたのです。方便も言葉ですが、譬喩によって、象徴表現によって、因縁によって、巧みに言葉を使われ、真理へと近づけさせました。最終的に覚るのは、学ぶ側自身の智慧によります。それを知らないで、どうやって仏教に帰依するのでしょうか。

42
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:28:55

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:38

摩訶般若波羅蜜經習應品第三

仏の舎利弗に告げたまわく、『菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ずる時、応に是の如く思惟すべし、菩薩は但だ字有るのみ、仏も亦た但だ字有るのみ、般若波羅蜜も亦た但だ字有るのみ、色は但だ字有るのみ、受想行識も亦た但だ字有るのみ、と。舎利弗、我れに、但だ字のみ有るが如く、一切の我は、常に不可得なり。衆生、寿者、命者、生者、養育、衆数、人、作者、使作者、起者、使起者、受者、使受者、知者、見者、是の一切は皆、不可得なり。不可得なれば空なるが故に、但だ名字を以って説く。菩薩摩訶薩も亦た是の如く般若波羅蜜を行ずるも、我を見ず、衆生を見ず、乃至知者、見者を見ず。所説の名字も亦た見るべからず。

と、このように説かれています。すべては言葉によって認識されるので、真理を観察する時には、言葉を見るなと説いています。

> ダルマ太郎さんは「概念として有れば非無です」といいながら、一方で「事実としては」それらが存在しないと見なしているのです。ダルマ太郎さんがいう「非無」というのはただ言葉の上でのことであり、一言でいえば詭弁なのです。

事実として輪廻が有るならば、そのことの根拠を示し、証明する必要があります。誰も死後の世界については知りませんので、根拠はありませんよね。経典に書いてあるといっても、理証や現証がなければ、証明としては不足しています。理証とは、道理にかなっていることによる証明です。現証は、現実に起こったことによる証明です。釈尊が、嘘をついていると言っているのではなく、人々を救うための方便として、業・輪廻・解脱を説いているのでしょう。

「概念として有れば非無です」という説を受け入れるのも、受け入れないのも、あなた次第です。

41
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:27:24

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:02

> 言語的認識というのはわたしたちの心的作用のごく一部に過ぎません。

私たち人間が、どれほど言語的認識をしているのかを、じっくりと思惟されてはいかがでしょうか?

> ウイルスに体が反応するのも身識によって識別しているということですから、ウイルスという概念を知らなくても、ウイルスに冒された人にとってそれは存在しているのです。

身体が反応しても、ウイルスを知らなければ、何が起こったのかは不明ですよね。

> ダルマ太郎さんはあくまで言葉と概念というものにこだわり、そこから全てを説明しようとしているように見えます。大乗の一部にそうした傾向があることは否定しませんが、それが大乗仏教だというのは偏った見方だと思いますよ。

少なくとも、私が学んできた大乗仏教では、概念と言葉は重視されています。たとえば、摩訶般若波羅蜜経には、次のように説かれています。

40
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:25:43

ダルマ太郎さん

2024/4/25 18:02

> 私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。

私は、認識論者だとは思っていません。それは、Sさんの感想です。

> 対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。

もちろん、言語的認識だけではありません。言語・概念・イメージなどを認識しています。般若経では、言語に依る認識を重視していますから、私もそうしています。疑問があるのなら、摩訶般若波羅蜜経をお読みください。

Sさんは、外の世界を認識していると考えているのですか?

> リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。

私たちが、知らないものを見たら、それを景色の一部だと認識します。知っていたら、そのものの名称や概念を想起します。それを見てリンゴだと思うのは概念に依ります。耳・鼻・舌・身も同じです。

> 自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。

感情や欲望も、概念化し、言語化するまでは、正体不明でしょう? 憂悲苦悩は、それを憂悲苦悩だと言葉で知っているから認識できます。

39
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:23:15

Sさん

質問者2024/4/25 7:39

>輪廻が方便であるということは、Sさんにとって何か都合が悪いのですか?

輪廻が方便ならなんのために仏教が説かれたのか、その理由が無くなりますと言っているのです。ブッダはあなたが言う最高の真理を知見して成仏した後に、普通の人と同じように、老いて病んで死んだのです。ブッダの死と凡夫の死との違いは輪廻するかしないかの一点です。もしもそうした違いがないなら、なぜ一生を投げ打って修行をする必要があるのでしょうか?

>成仏のメリットとは、最高の真理を知見できることでしょう。

最高の真理を知見することで知的な満足を得ることが仏教の目的ということですか? それでは仏教はただ知的な達成度を競うゲームに過ぎなくなります。仏教にとって智慧の開発は三学の一つであり、それこそがあくまで手段・方便です。ダルマ太郎さんは輪廻を否定し解脱という目的を否定しているため、手段が目的になってしまっているように見えます。

真理を知見したらどうなるのでしょうか?
成仏している人としていない人の違いはなんなのでしょうか?
輪廻を否定すれば、その答えが無いのです。

38
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:21:22

Sさん

質問者2024/4/25 7:37

>大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。

ほら、ここです。ダルマ太郎さんは「概念として有れば非無です」といいながら、一方で「事実としては」それらが存在しないと見なしているのです。ダルマ太郎さんがいう「非無」というのはただ言葉の上でのことであり、一言でいえば詭弁なのです。事実としては輪廻の存在を否定しているわけですから、事実としては断滅論者なのですが、それが邪見とされていることを知識として知っているので、そう見なされないように立ち回っているだけではないでしょうか。

>経典に書いてあることが事実ってことでしょう? 

経典に書いてあることが事実だと思っていないなら、なぜ仏教に帰依するのです? ブッダが存在したと、真理を悟ったとされていること、ブッダの教えたこと、それら全ては経典に書いてあるだけですよ。

もちろん経典には修辞的・神話的な表現も多くありますから、逐語的に全てを信じる必要などありませんが、経典を貫いている前提や論理があるなら、それを信じないでどうやって仏教に帰依するのでしょうか。

37
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:19:34

Sさん

質問者2024/4/25 7:33

私が「認識論」と読んでいるのは、言語的・概念的に把握されることに拘る哲学的立場のことです。対して、仏教における識というのは言語的認識だけを指すのではありません。初期仏教で説かれた六識も、唯識が説いた八識も、言語的に概念として認識すること以外にも識という働きが作用していることを説いています。リンゴという言葉・概念がなくても、私たちはそれを見ること(眼識)、その匂いを嗅ぐこと(鼻識)、それを口で味わうこと(舌識)、手でそれを触ること(身識)でも識別しています。自分の感情や欲望を認識するときも、それを逐一言語化して、概念化してから識別しているわけではありません。意識にそれらが接触すれば一刹那のうちにそれを識別するのです。言語的認識というのはわたしたちの心的作用のごく一部に過ぎません。

ウイルスに体が反応するのも身識によって識別しているということですから、ウイルスという概念を知らなくても、ウイルスに冒された人にとってそれは存在しているのです。ダルマ太郎さんはあくまで言葉と概念というものにこだわり、そこから全てを説明しようとしているように見えます。大乗の一部にそうした傾向があることは否定しませんが、それが大乗仏教だというのは偏った見方だと思いますよ。

>Sさんは、実在論者ですか?

外の世界のことを仏教では「境」(visaya)と呼んでいます。「認識しなければ、私の世界には存在しない」と言いますが、そもそも認識は対象がなければ成立しませんよね? もちろんリンゴは実体として有るわけではありません。縁起生のものとして生滅していますが、そうした形で私たちの外に認識に関わらず世界が存在しているという事実も、私たちの世界に含まれているというのが私の立場です。

36
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:16:26

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:13

> 成仏といいますが、どうなったら成仏で、成仏するとどんなメリットがあるのでしょうか?

仏陀とは、無上の覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を完成された方です。覚りを得るには、智慧の完成(般若波羅蜜)が必要です。智慧とは、真理を観察する能力のことです。よって成仏とは、智慧を完成させて、最高の真理に目覚めることです。成仏のメリットとは、最高の真理を知見できることでしょう。

> 別の表現で言えば、仏教の目的はなんだと考えているのか、ということになりますが、良かったら教えてください。

それは、自他の成仏です。

以上です。

35
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:15:11

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:12

> それらをダルマ太郎さんが認識できないからというのは、それらが無いということの根拠にはなりません。

輪廻は概念だと認識しています。だから、仮に有ると言っています。

> 経典に書いてあるから事実なのではなく、ブッダが見た事実であり、仏弟子達が追体験できた事実だから経典に伝えられてきたのでは?

だから、経典に書いてあることが事実ってことでしょう? だとしたら、事実として梵天や帝釈天は存在するのですか? 釈尊は、生まれてすぐに歩まれて、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったのですか? 方便を方便として読んだ方がいいのではないですか?

> ひとつ聞きたいのですが、ダルマ太郎さんのように輪廻を受けいれずに、業も解脱も方便だと言っている人は、ではそういう方便を学んで最終的にどうなりたいのですか?

方便とは、「真理に近づける方法」という意味です。釈尊は、菩提樹の下で最高の真理を覚られて、その後に、人々を真理に近づける方便を覚られました。輪廻に執着して苦しむ人たちには、輪廻からの解脱を説いて安楽の境地へと導き、その後、真理を覚る道へと導きました。私は、釈尊の方便を学び、一歩でも覚りに近づけられたらと思っています。

34
ダルマ太郎 2024/04/26 (金) 22:12:42

ダルマ太郎さん

2024/4/25 1:12

> 非有か非無かは我々の認識とは無関係です。

非有だと認識するから非有という説があるし、非無だと認識するから非無という説があるのではないでしょうか? 何も認識せずに、そういう説だけが有るというのはおかしいですね。

> ですので、概念としてあるから非無だとはいえませんし、ダルマ太郎さんがウイルスを認識できなくてもそれがあるように、輪廻もあります。

概念として有れば非無です。これは、外の世界のことを言っているのではなく、脳内のことです。私たちは、外の世界の事実を知ることはできません。眼や耳で感受し、想起しているのですから、その時点で事実とは異なります。鏡の中の像と同じです。

> またどこかの仏教学者の本で読んだのかもしれませんが、形而上というのは西洋哲学の概念ですから、ブッダがそれにとらわれるはずがありません。

仏教学者の説は信用できないと思っているのですか? 知恵袋には、仏教学者を嫌っている人がいますが、Sさんも、その一人なのですか? 何だか、仏教学者よりも自分の方が知識が上だとでもいいたそうですね。学者は、人々に分かりやすいように形而上学的という言葉を使っています。仏教では、それを何と言うのか私は分かりません。

> ブッダは輪廻について、神通について、神々について多くを説いていますし、それは大乗の経典にも受け継がれています。

大乗にも輪廻・神通・神々は登場します。しかし、それらは、方便であり、事実として存在しているわけではありません。輪廻が方便であるということは、Sさんにとって何か都合が悪いのですか?