仏教のお話

02 インドの仏教

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仏教は、前5世紀頃にガンジス川流域で起こり、一時はインドの国教になるほど栄えましたが、1193年にトルコ、ムスリムの侵略によってナーランダ僧院やヴィクラマシーラ大学等の偶像崇拝を否定する名目で、仏像や仏教寺院は破壊され、仏教は滅亡しました。

ここでは、インド仏教のおよそ1700年についてお話していきましょう。

ダルマ太郎
作成: 2023/09/08 (金) 13:47:20
最終更新: 2023/09/08 (金) 14:39:23
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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 14:19:39

インドの仏教の歴史

インドの仏教は、初期仏教・部派仏教・大乗仏教・密教に分かれます。

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ダルマ太郎 2023/11/11 (土) 13:25:35 修正 >> 1

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仏教の始まり
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太郎論:約2500年前のインドで、仏教は起こりました。釈迦族の王子だったガウタマ・シッダールタ Gautama Śiddhārtha が菩提樹の下で最高の真理を覚って、目覚めた者(ブッダ buddha)となり、鹿野園において五比丘に説法をし、彼らを教化したことによって始まりました。初め釈尊は、新しい宗教を立ち上げたという自覚はなく、バラモン教の一派として道を説いていました。

太郎論:釈尊の死後、釈尊の説かれた教えを絶やしてはいけないとして、五百人の大比丘たちが集い、王舎城(おうしゃじょう)で第一回目の結集(けつじゅう)を行いました。結集とは、サンギーティ saṃgīti の中国語訳です。「共に唱えること」であり、教えと戒律について一同が唱え異議なく共通理解しました。教えについては、釈尊の侍者だった阿難が責任者となり、戒律については優波離(うばり)が責任者になりました。総責任者は、摩訶迦葉が努めました。これによって、釈尊の教えは大きく乱れることがなく、ある程度正しく伝えられたといいます。釈尊が五比丘に対して法を説いてから、釈尊滅後の100年までを初期仏教(原始仏教・根本仏教)といいます。

太郎論:仏滅後約100年して、第二回目の結集が開かれました。その時、戒律の解釈の違いによって、仏教教団は二つに分裂しました。保守派の上座部(じょうざぶ)と革新派の大衆部(たいしゅぶ)です。これを根本分裂といいます。根本分裂の後、次々と部派が起こりましたので、この頃の仏教のことを部派仏教といいます。部派の中で最も勢力があったのが上座部の説一切有部です。
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仏教の始まり
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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 14:21:52

仏教の根本的な教え

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:08:03 修正 >> 2

19. 無相

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:08:33 修正 >> 2

20. 無作

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:09:13 修正 >> 2

21. 無願

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:09:58 修正 >> 2

22. 菩提(覚り)

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:10:34 修正 >> 2

23. 菩薩

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:11:17 修正 >> 2

24. 六波羅蜜

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:12:01 修正 >> 2

25. 廻向

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:12:36 修正 >> 2

26. 中観

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:13:05 修正 >> 2

27. 唯識

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ダルマ太郎 2023/09/30 (土) 15:13:30 修正 >> 2

28. 如来蔵(仏性)

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ダルマ太郎 2023/10/03 (火) 15:02:31 修正

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仏教の目的と方法
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太郎論:仏教の目的は、仏に成ることです。釈尊が菩提樹の下で成就されたように、智慧を完成し、真実に目覚めて、成仏するのが目的です。仏(仏陀)とは、ブッダ buddha の中国語訳であり、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めるのかというと最高の真理である妙法です。妙法は、真諦・第一義諦・勝義諦・真実ともいいます。

太郎論:真理には二種があります。俗諦と真諦です。俗諦とは、世俗の言葉で語られる真理であり、真諦とは、絶対の真理ですから、言葉では顕すことができません。一般的には、真理というと俗諦のことを指しますが、仏教では真諦を覚ることを目的にしています。縁起・無我・無常・苦・涅槃・空・無相・無作・実相などを真理というのは俗諦の方です。釈尊は、言葉では伝えることのできない真諦を人々に伝えるために方便を用いました。方便とは、「近づける」という意味ですが、仏教の場合は、「真理に近づける方法」という意味で使われます。譬喩や象徴的表現、体験談を話すことです。言葉では伝えられない真理を言葉を巧みに使って導いたのです。つまり、真諦へと導くために、俗諦を用いました。この方便こそが仏教の教化の方法です。仏は、方便で導いていますが、それを聞く側が、それを方便だと理解していなければ意味がありません。方便を方便だと受け止めていることが大事です。

太郎論:智慧とは、真理を観察する能力のことです。智慧を完成させることによって、真諦を覚ることができます。しかし、人々の智慧はうまく機能していません。煩悩に覆われて、智慧の眼が閉じているのです。よって、仏道に入った者は、まず煩悩を滅する行をする必要があります。それが持戒です。戒を守ることによって、心を浄めるのです。心を浄めると禅定に入りやすくなりますから、心を一つに集中して禅定に入り、そうすることで智慧の働きを活発にします。この戒定慧が重要な行です。
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仏教の目的と方法
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