しかし、自由自在な人というのは、二次的な意味です。仏陀とは、ブッダ buddha の音写であり、意味は、「目覚めた者」です。何に目覚めたのかというと最高の真理です。つまり、妙法を覚ったので仏陀と呼ばれます。勝れた人であれば、自由自在の境地の人もいるかも知れませんが、妙法を覚ることはできません。妙法は、あるがままのことなので、肉体の眼では観ることができないのです。それを見ているというのは、眼で光をキャッチし、それを信号にして脳に送り、脳で仮設したものを見ているということです。実在のそれではなく、仮設されたものを見ているのですから、あるがままではありません。
如来寿量品第十六においては、輪廻は否定されます。はっきりとナ・サンサーラ na saṃsāra と書いています。これは、方便としては輪廻は有るけれど、真実としては、輪廻は否定されているのでしょう。ただし、鳩摩羅什はこれを訳していないので、漢訳の法華経だけを学んでいる人は知りません。釈尊は、輪廻を説いたのでしょうか? 縁起については積極的に説かれているけれど、輪廻については、そうでもありません。初期仏教を重視する人たちは、経典に書いているから輪廻は実在すると主張しますが、言葉で説かれることはすべて方便なので、輪廻を事実だと決定することはできません。
:
饒益 したもうを見て欺誑 せりと
法を聞かざることを頌す-3
:
経)
金色三十二 十力諸の解脱
同じく共に一法の中にして
この事を得ず
八十種の妙好
十八不共の法
是の如き等の功徳
しかも我皆すでに失えり
我独経行せし時
仏大衆に在して
名聞十方に満ち
広く衆生を
自ら惟わく この利を失えり
我これ自ら
:
:
太郎訳)
金色に輝く身体
三十二の尊い相
十力や様々な解脱は
すべて一つの真実から
発しているのでしょうが
どれも私たち声聞は
得ていません
八十種の美しい相
十八種の優れた特質
このような様々な功徳も
私たちは失っています
私が独りで歩きながら
教えを噛みしめていた時
仏さまが多くの人々の前に現れて
人々のために教えを説き広め
広く人々に慈悲の心で
利益を与えるのを見て
私は思い知りました
仏さまのような智慧を
私はまだ得ていないと
私は自分で自分を欺き ごまかし
目的を達成したと
思い込んでいたのです
:
:
法を聞かざることを頌す-3
:
:
:
鳴呼 して深く自ら責めき
法を聞かざることを頌す-2
:
経)
我 山谷に処し
或は林樹の下に在って
もしは坐し もしは経行して
常にこの事を思惟し
云何ぞ しかも自ら欺ける
我等もまた仏子にして
同じく無漏の法に入れども
未来に無上道を演説すること能わず
:
:
太郎訳)
私は山谷にいて
あるいは林の中の樹の下にいて
ある時は坐り ある時は歩きながら
いつも次のように思惟し
心に感じ入って深く
自分を責めていました
私はまだ目的を達成していないのに
達成していると自分で自分を欺いている
私たちも菩薩と同じように仏の子であり
同じように煩悩をなくす教えを学び
修行をしてきましたが未来において
人々に無上の仏道を説法するようには
私たちは ならないでしょう
:
:
法を聞かざることを頌す-2
:
:
:蒙 って 音 は漏尽 を得れども
偈頌
:
経:その時に舎利弗、重ねてこの義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく。
:
太郎訳:その時に尊者シャーリプトラは、もう一度詩にして申し上げました。
:
:
法を聞かざることを頌す
:
経)
我この法音を聞いて
未曾有なる所を得て
心に大歓喜を懐き
疑網 皆すでに除こりぬ
昔より来 仏教を
大乗を失わず
仏の
甚だ希有にして
よく衆生の悩を除きたもう
我すでに
聞いて また憂悩を除く
:
:
太郎訳)
私はこの素晴らしい教えを聞いて
有り難い想いを起こし
心に大歓喜を懐いて
疑いの気持ちは
すっかりなくなりました
昔からこれまで仏さまの教えを頂いて
今 最上の教えを得ることができました
仏さまの教えは
非常に稀な思想であり
よく人々の悩みを除かれます
私は すでに迷いをなくしていましたが
今は また 教えに関する悩みも
除くことができました
:
:
法を聞かざることを頌す
:
:
:
仏とは
:
R論:世の中でいちばん自由自在な人はだれかといえば、もちろん仏です。
:
:
太郎論:自由とは、スヴァ・タントラ svatantra の訳で、「自立・独立」という意味です。束縛から解放された状態のことなので、煩悩からの解放・輪廻からの解脱の意味もあります。自在とは、ヴァシター vaśitā の訳で、「自律・支配・服従」という意味です。自分の思い通りにすることです。よって、仏陀は自由自在な人だと言えるでしょう。
しかし、自由自在な人というのは、二次的な意味です。仏陀とは、ブッダ buddha の音写であり、意味は、「目覚めた者」です。何に目覚めたのかというと最高の真理です。つまり、妙法を覚ったので仏陀と呼ばれます。勝れた人であれば、自由自在の境地の人もいるかも知れませんが、妙法を覚ることはできません。妙法は、あるがままのことなので、肉体の眼では観ることができないのです。それを見ているというのは、眼で光をキャッチし、それを信号にして脳に送り、脳で仮設したものを見ているということです。実在のそれではなく、仮設されたものを見ているのですから、あるがままではありません。
妙法を観るには、智慧が必要です。智慧とは、真理を観る能力のことであり、最高の真理である妙法を完全に観た時、智慧は完成します。それを般若波羅蜜といいます。智慧の完成によって無上の覚りを得ます。その状態を成仏と言います。つまり、覚りを得るためには智慧の活性化が必要なのですが、一般人の智慧は煩悩によって塞がっているために眠った状態です。だから、まず煩悩を滅する必要があるのです。釈尊の成仏のことを「降魔成道」といいますが、ここで悪魔に喩えられているのが煩悩です。煩悩を降ろすことが先決だということです。
:
:
仏とは
:
:
:踊躍 歓喜して即ち起って合掌し、尊顔を瞻仰 して仏に白して言さく。今、世尊に従いたてまつりてこの法音を聞いて、心に踊躍を懐き未曾有なることを得たり。所以は何ん。我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、しかも我等はこの事に預らず。甚だ自ら如来の無量の知見を失えることを感傷しき。世尊。我常に独、山林樹下に処して、もしは坐し、もしは行じて、毎にこの念を作しき。我等も同じく法性に入れり、云何ぞ如来小乗の法を以て済度せられと。これ我等が咎なり、世尊には非ず。所以は何ん、もし我等、所因の阿耨多羅三藐三菩提を成就することを説きたもうを待たば、必ず大乗を以て度脱せらるることを得ん。しかるに我等、方便随宜の所説を解らずして、初め仏法を聞いて遇 便ち信受し、思惟 して証を取れり。世尊。我昔より来、終日竟夜 毎に自ら剋責 しき。しかるに今、仏に従いたてまつりて、未だ聞かざる所の未曾有の法を聞いて諸の疑悔を断じ、身意泰然として快く安穏なることを得たり。今日乃ち知んぬ。真に是れ仏子なり。仏口より生じ法化より生じて、仏法の分を得たり。踊躍歓喜 (踊り出したいほど喜ぶ)して立ち上がり、仏さまを仰ぎ見て申し上げました。世尊から『誰でも仏に成ることができる。そのことに疑念を持ってはならない』という強いお言葉を賜り、踊り出したくなるほどの大感激を覚えています。心は大歓喜に満ち、胸にからまっていた疑いの網はすっかりなくなりました。これまで私は世尊にお仕えし、『誰でも修行を積めば仏に成れる』とのお言葉は伺ってはいました。そして、多くの菩薩たちに授記(仏になれるという保証を与える)される場面を目の当たりにしました。しかし、このことは、私ども声聞や縁覚には無縁の、遠く及ばないことだと思っていました。私どものような声聞や縁覚の境地の者は、所詮、どんなに修行をしても絶対に悟りを得ること(仏に成ること)など無理なことだと諦めており、淋しく、悲しく思っていました。世尊よ。私はただ一人、林の中で木の下で座して瞑想し、歩きながら思索を深める時、いつも次のようなことを思い、嘆き、自分を責めていました。『自分たちは菩薩と同じように世尊のみ教えを伺うご縁を頂き、同じく汚 れのない清浄な境地に至っているのに、なぜ世尊は我々には《大乗の教え》を説かず、《小乗の教え》だけを説かれるのだろうか』と世尊を責める気持ちがありました。しかし、こう思うのは、私たちが至らぬせいであり、少しも世尊の責任ではありません。すべては私たちの咎 めとするところであります。
身子(舎利弗)の自陳
:
経:その時に舎利弗、
:
:
R訳:舎利弗は、
なぜならば、そもそも世尊は『仏に成れる大本(因)となる教え』をお説き下さっておられ、私たちは、何の心配も無くお待ちしていれば、いずれは《大乗の教え》をくださり、『誰でもが仏に成れる』教えである『法華経』を必ずお説き下さるはずであったからです。
それなのに私は、世尊からいただく《方便の教え》の真意を理解できず、教えの上辺だけを聞いて、すでに悟りを得ていたと勝手に思い込んでいました。ですから他の多くの菩薩たちだけが成仏の保証を頂くのを見て、『自分は授記を頂けない。自分は至らないダメな人間だ』と嘆き、そして『菩薩が得る素晴らしい境地などに、自分には到底、成就できるはずはない。今、自分が悟りを得ていたと思っていたことは、全くの思い過ごしで、自分で自分を騙していたのだ』と昼夜、自分を責めていました。
しかし、只今『方便品』にて、仏さまから未だかつて伺ったことの無い尊い教えを頂いて、すべての疑いも悔しい気持ちも、すっかりなくなってしまいました。今は心も体も安らかで、安穏な心持ちでございます。世尊は人と時と場合に応じてふさわしい教えを説かれ、すべての衆生を仏の境地にお導きされます。そのことが今こそハッキリと分かりました。
:
:
太郎訳:その時に尊者シャーリプトラは、歓喜し躍るように立ち上がって合掌し、釈尊のお顔を仰ぎながら申し上げました。今、世尊の教えを聴かせて頂き、心に大きな喜びを懐いています。このような感動はめったにありません。なぜならば、私は昔、仏に従って、成仏の教えを聞き、諸々の菩薩たちが成仏の予言を受けるのを見ましたが、私たち声聞には、成仏の予言はありませんでした。私たちは、如来の無量の智慧を得ることはないのだと失望し、心を痛めていました。世尊。私は常に独りで、山林の樹の下で過ごし、坐ったり、または歩きながら、いつもこのようなことを考えていました。私たちも菩薩たちと同じように、真実を覚っています。しかし、なぜ如来は、私たちには小乗の教えばかりを説かれ、小乗の教えで救おうとされるのでしょう? このことは、私たちに問題がありました。世尊の責任ではありません。
なぜなら、もし私たちが、完全なる成仏の教えを説かれることをお待ちしていれば、必ずや、世尊は、大乗の道をお教え下さるのです。しかし、私たち声聞は、方便の教えの真意が分からなかったため、釈尊から頂いた最初の教えを信じ、その教えを深く思惟することによって、涅槃を得ることができたと思っていました。修行の目的を達成したと思っていたのです。しかし、菩薩たちとは、修行の目的が違うことに疑問を持っていました。菩薩たちの目的が成仏なのに、なぜ声聞の目的が解脱なのかと考えていました。
世尊。私は、昔からずっと、昼も夜もこのことを考え、自分たち声聞が菩薩たちよりも劣る存在なのかと自分を責め続けていました。しかし、今、仏に従って、これまでに聞いたことのない稀なる教えを聴いて、様々な疑いと悔やむ想いを断じ、身も心も落ちつき、心地よい安穏の境地になることが出来ました。今日、私は分かりました。私たちは、まことに仏の子なのです。仏さまの口から生まれ出て、仏さまの説法によって生まれ変わり、仏法を分けて頂いています。
:
:
身子(舎利弗)の自陳
:
:
:
輪廻説の正しい受け止め方
:
R論:この輪廻説を、まちがって受け取ると非常に消極的なものになってしまいます。〈私が現在苦しんでいるのは、過去の業があまりに悪いからで、今、何をしてもダメなのだ。あきらめるしかないのだ〉というふうに、この世における努力を一切放棄してしまう生き方です。さらに悪いのは、輪廻説で他人を裁いてしまうことです。〈お前が、現在そういった苦しい目にあうのは過去世になしたお前の業のせいなのだから、あきらめて、現在の生活に甘んじていろ〉などという発言や、発想は、仏教徒として、否、仏教徒であるかないかということより、人間として、してはならないことなのです。
:
:
太郎論:現世の苦しみの原因が、過去世における自分の悪業の結果だとすると、今の苦しみを解決する手段がありません。この人生をあきらめて、ひたすらに善業につとめ、来世に期待するしかありません。閻魔大王の鏡のように、過去を見ることができるのなら納得もいきますが、客観的な証拠もないのに、業報輪廻を信じることは難しいです。しかし、多くの人たちが輪廻を信じています。もともと日本にはない、インドの思想なのに、信じる人が多いことに驚きます。不思議ですね。
如来寿量品第十六においては、輪廻は否定されます。はっきりとナ・サンサーラ na saṃsāra と書いています。これは、方便としては輪廻は有るけれど、真実としては、輪廻は否定されているのでしょう。ただし、鳩摩羅什はこれを訳していないので、漢訳の法華経だけを学んでいる人は知りません。釈尊は、輪廻を説いたのでしょうか? 縁起については積極的に説かれているけれど、輪廻については、そうでもありません。初期仏教を重視する人たちは、経典に書いているから輪廻は実在すると主張しますが、言葉で説かれることはすべて方便なので、輪廻を事実だと決定することはできません。
インドでは、業報輪廻は広く受け入れられた思想です。輪廻する世界とは、苦の世界であり、迷いの世界ですので、輪廻している限り安楽の境地にはなれません。束の間の楽ならばあるのでしょうが、すぐに憂悲苦悩におちいります。輪廻を信じている限り、この世は苦なのですから、輪廻を信じなければいいのに、なぜか、輪廻を知らなかった日本人までもが輪廻を信じるようになっています。事実として無くても、概念として有るのなら、それは人を苦しめます。もし裏山に怪物がいたとしても、人がそれを知らず、信じていなければ、概念上はいないのと同じです。しかし、信じてしまうと記憶に刻み込まれるので、実在することと同様に恐怖を感じるようになります。輪廻は、存在しない怪物を怖がるようなものでしょう。
幸いにも、日本人の場合は、輪廻を信じていても、それを苦の原因だと思っていないようです。信じることに何のメリットがあるのかが分かりません。デメリットばかりのように思えます。過去や未来に生きるよりも、今を生きたほうがいいのではないでしょうか?
:
:
輪廻説の正しい受け止め方
:
:
:
衆を棟びて信を敦む-2
:
経)
舎利弗
当に知るべし
諸仏の法 是の如く
万億の方便を以て
宜しきに随って法を説きたもう
その習学せざる者は
これを暁了すること能わじ
汝等すでに 諸仏世の師の
随宜方便の事を知りぬ
また諸の疑惑なく
心に大歓喜を生じて
自ら当に作仏すべしと知れ
:
:
太郎訳)
シャーリプトラよ
よくお聞きなさい
諸仏は このように多くの方便によって
相手に相応しい教えを説くのです
そのことを学んだことのない者は
この真意を覚ることが出来ません
皆さんは すでに諸仏の相手に応じた
方便の教えのことを知っています
様々な疑惑を持つことなく
心に大歓喜を生じて
自らまさに成仏すると知りなさい
:
:
衆を棟びて信を敦む-2
:
:
:
慙愧 清浄にして
衆を棟びて信を敦む-1
:
経)
五濁の悪世には
ただ諸欲に楽著せるを以て
是の如き等の衆生は
終に仏道を求めず
当来世の悪人は
仏説の一乗を聞いて
迷惑して信受せず
法を破して悪道に堕せん
仏道を志求する者あらば
当に是の如き等の為に
広く一乗の道を讃むべし
:
:
太郎訳)
五濁の悪世には
人々は様々な欲に
執着することによって
ついに仏道を求めません
これからの世界の悪人は
仏の説く一仏乗を聞いても
迷惑を感じ信受することなく
教えを罵って悪道に墜ちます
自分の過ちを反省して
清浄にして仏道を求める者があれば
この人々のために広く一乗の道を
讃えてください
:
:
衆を棟びて信を敦む-1
:
:
:
不虚
:
経)
汝等 疑あることなかれ
我は為れ諸法の王
普く諸の大衆に告ぐ
ただ一乗の道を以て
諸の菩薩を教化して
声聞の弟子なし
汝等 舎利弗
声聞 及び 菩薩
当に知るべし
この妙法は
諸仏の秘要なり
:
:
太郎訳)
皆さんは疑いを持たないでください
私は様々な教えの王なのです
広く人々に告げます
私は ただ 一仏乗の道によって
諸々の菩薩を教化します
声聞の弟子はいません
シャーリプトラよ
声聞 及び菩薩たち
よく理解してください
この正しく優れた教えは
諸仏の教えの奥義なのです
:
:
不虚
:
:
:興出 したもうこと
懸遠 にして値遇すること難し
正使 世に出でたもうとも
時時 に乃し一たび出ずるが如し
法の希有を讃歎する
:
経)
三世諸仏の 説法の儀式の如く
我も今また是の如く 無分別の法を説く
諸仏 世に
この法を説きたもうこと また難し
無量無数劫にも この法を聞くこと また難し
よくこの法を聴く者 この人 またまた難し
譬えば優曇華の 一切皆愛楽し
天人の希有にする所として
法を聞いて歓喜し讃めて 乃至 一言をも発せば
則ち為れすでに 一切三世の仏を供養するなり
この人甚だ希有なること 優曇華に過ぎたり
:
:
太郎訳)
過去・現在・未来の諸仏と同様に
私も今このような無分別の教えを説きます
諸仏が世に出ることは稀であり
出会うことは非常に難しいものです
たとえ世に出られたとしても
真実の教えを説かれることは
めったにないのです
無量の時間の中に於いても
この教えを聴くことは
非常に稀なのです
こうして この教えを聴く者は
聴くことの難しい教えを
聴いているのです
譬えば 優曇華の花は
誰からも愛されていて
天上界の神々も地上界の人々も
珍しい花だと知っているのですが
三千年に一度だけ咲く様なものです
教えを聴いて歓喜し
たとえ一言でも讃えれば
そのことは 過去・現在・未来の諸仏を
供養することと同じです
この人は優曇華の花が咲くよりも
稀有な体験をしているのです
:
:
法の希有を讃歎する
:
:
:
正直捨方便 但説無上道
:
太郎論:「正直に方便を捨てて ただ無上道を説く」というこの文は、日蓮系では有名です。無量義経の「四十余年未顕真実」と「正直捨方便但説無上道」を合わせて、「釈尊は、説法を始めてから四十余年、方便の教えしか説いておらず、真実を顕していない。今、この法華経の説法においては、正直に方便を捨てて無上の道を説く」というように解釈しています。つまり、法華経以前の教えは方便であって、真実は説いていなかった。しかし、今、この法華経において真実を説きましょう、というように解釈をしています。このように解釈をし、自分のところの宗派や教団内で噛み締めるのは問題はありませんが、この解釈を他宗・他教団にぶつけて、「法華経以外は方便である」とマウントをとるのはやめたほうがいいでしょう。
方便品を最初からきちんと読めば分かりますが、釈尊がこれまで妙法について説かなかったのは、人々の機根が高まっていなかったからです。「舎利弗 当に知るべし 鈍根小智の人 著相憍慢の者は この法を信ずること能わず」とあるように、機根が鈍い人、智慧が小さい人、執着の強い人、驕り高ぶり、思いあがっている人は、この教えを説いても信じることができないだろうと言います。それだから、機根を高め、智慧を深め、執着から離れさせ、おごり高ぶりを無くすことが先決です。そのために、分かりやすい教えから順に説いてきました。小学生にいきなり相対性理論を説いても分かりません。最初は、数字を覚え、足し算・引き算を覚えて、徐々にレベルを上げていかないとついてこれません。仏教もそれと同じです。
方便品の最初で、釈尊は説法をためらいました。それは、聞く人が受け入れきれず、驚き怖れ疑うことになるからだと言います。また、増上慢の人は、地獄に堕ちることになるからだとも言います。譬諭品第三には、「おごり高ぶっている高慢な者たちやすぐに怠けて修行を続けられない者たち、自己中心的な者たちにはこの教えを説かないでください」と告げます。教えを拒否する人に説いてもいいことがありませんから、慈悲があるのなら説かないようにしなさいと告げています。今、この会には、教えを受けるのに相応しい者たちが集まっていますから、釈尊は、「如来出でたる所以は 仏慧を説かんが為の故なり 今正しく これその時なり」とおっしゃり、ついに機が熟したことを悦んで無上道を説かれるのです。
:
サンスクリット本では、次のように書いています。
:
viśāradaś cāhu tadā prahṛṣṭaḥ
saṃlīyanāṃ sarva vivarjayitvā|
bhāṣāmi madhye sugat'ātmajānāṃ
tāṃś caiva bodhāya samādapemi ||132||
:
また その時
すべての臆する心から離れ
躊躇せず 愉快であり
仏子の中で説き
彼らを覚りへと教化します
:
このように、サンスクリット本には、方便と訳される言葉はありません。捨てるのは、「臆する心」です。人々の鈍根・小智・執着・慢心の状態を観て、妙法を話しても大丈夫だと思ったから、躊躇せず、悦んで説法をするのです。
:
:
説法はすべて方便
:
「法華経以前の教えは方便であり、法華経において初めて真実が明かされる」という解釈がよく為されています。仏教用語の真実とは、「絶対の真理」のことです。よって、真実とは、真諦・第一義諦・勝義諦・妙法と同義です。真諦は、言葉では表現できない絶対の真理ですから、言葉によって説かれている経典には、真実は書いていません。法華経も言葉ですので、真実は書かれていません。方便品を読めば分かりますが、真実を覚った釈尊は、言葉では伝えることのできない真実をあえて言葉で説こうとしました。それが方便です。方便とは、「近づける」という意味であり、仏教の場合は、「真実に近づける方法」という意味で使われます。釈尊は、真実そのものを説こうとしたのではなく、方便によって、人々を真実に近づけさせようとしたのです。それは、釈尊が真実を覚っているからできることです。
:
:
正直捨方便 但説無上道
:
:
:
行一
:
経)
今 我喜んで畏なし
諸の菩薩の中に於て
正直に方便を捨てて
ただ無上道を説く
菩薩この法を聞いて
疑網皆すでに除く
千二百の羅漢
悉くまた当に作仏すべし
:
:
太郎訳)
今 私は喜んでおり
畏れはありません
諸々の菩薩たちの中において
正直に方便の教えを捨てて
ただ成仏の道を説きます
菩薩たちは この教えを聞いて
疑惑の心は除かれたことでしょう
千二百人の阿羅漢の皆さん
全員が まさに成仏してください
:
:
行一
:
:
:
理一
:
経)
我 即ちこの念を作さく
如来出でたる所以は
仏慧を説かんが為の故なり
今正しく これその時なり
舎利弗 当に知るべし
鈍根小智の人 著相憍慢の者は
この法を信ずること能わず
:
:
太郎訳)
私は このように想っています
如来が世に出現した理由は
仏の智慧を人々に説き明かすためである
今は、まさしくその時である
シャーリプトラよ
よくお聞きなさい
機根の低い人 智慧のない人
現象に執着する人 憍慢の者は
この教えを信じることが出来ません
:
:
理一
:
:
:
実を顕す
:
人一
:
経)
舎利弗
当に知るべし
我 仏子等を見るに
仏道を志求する者
無量千万億 咸く恭敬の心を以て
皆 仏所に来至せり
かつて諸仏に従いたてまつって
方便所説の法を聞けり
:
:
太郎訳)
シャーリプトラよ
よくお聞きなさい
私が仏子である菩薩達を見るとき
仏道を求める無量の者は
恭敬の心によって 皆 仏のところに参りました
このことは かつて諸仏に従って
方便の教えを聞いた因縁によります
:
:
人一
:
:
:音
化を方便で施す-6
:
経)
この事を思惟しおわって
即ち波羅奈に趣く
諸法寂滅の相は
言を以て宣ぶ可からず
方便力を以ての故に
五比丘の為に説きぬ
これを転法輪と名づく
便ち 涅槃の
および 阿羅漢
法僧差別の名あり
久遠劫より来
涅槃の法を讃示して
生死の苦 永く尽くすと
我 常に是の如く説きき
:
:
太郎訳)
このことを思惟した後
ヴァーラーナシーに向かいました
すべての事物・現象が
既に涅槃の境地にあるということは
言葉で説明できません
方便力によって
五比丘のために教えを説きました
この時に教えが
車輪のように転じ始めました
涅槃の境地に至る道を説き
その道を究めた者を阿羅漢であると説きました
こうして 涅槃という名前 阿羅漢という名前
そして 仏・法・僧という名前が生まれました
私は 長い間
涅槃の教えを讃え示して
涅槃こそが 輪廻の苦を滅した境地であると
常にこのように説いてきました
:
:
化を方便で施す-6
:
:
:
化を方便で施す-5
:
経)
舎利弗
当に知るべし
我 聖師子の 深浄微妙の音を聞いて
喜んで南無仏と称す
また 是の如き念を作す
我 濁悪世に出でたり
諸仏の所説の如く
我もまた 随順して行ぜん と
:
:
太郎訳)
シャーリプトラよ
よくお聞き下さい
私は 諸仏の深く浄い優れた声を聞いて
南無仏と称えました
また このように想いました
私は この濁った悪世に出現しました
この恐ろしい時代の中での私の役割は
苦に満ちた人々を救うことなのです
諸仏が説いたように私も諸仏に倣って
方便の教えを説きましょう と
:
:
化を方便で施す-5
:
:
:慰諭 したもう
化を方便で施す-4
:
経)
この思惟を作す時
十方の仏皆現じて
梵音をもって我を
善哉 釈迦文 第一の導師
この無上の法を得たまえども
諸の一切の仏に随って
方便力を用いたもう
我等もまた皆
最妙第一の法を得れども
諸の衆生類の為に
分別して三乗と説く
少智は小法を楽って
自ら作仏せんことを信ぜず
この故に方便を以て
分別して諸果を説く
また三乗を説くと雖も
ただ菩薩を教んが為なり と
:
:
太郎訳)
このように決意をした時
十方の諸仏が私のまわりに現われて
清らかな声で私に告げました
素晴らしいことです
この世界で第一の導師である釈迦牟尼仏は
無上の智慧を得ましたが
一切の諸仏に倣って
方便力を使われようとしています
私たちも皆 最も優れた第一の真理を得ましたが
人々のために分別して三乗を説きます
智慧が少なければ 小さな教えしか求めず
自分が成仏できることを信じません
このために方便によって分別し
それぞれの修行の結果を説きます
また 三乗を説くと言っても
ただ菩薩を教化しようとしているのです と
:
:
化を方便で施す-4
:
:
:
化を方便で施す-3
:
経)
我 即ち自ら思惟すらく
もし ただ仏乗を讃めば
衆生苦に没在し
この法を信ずること能わじ
法を破して信ぜざるが故に
三悪道に墜ちなん
我 寧ろ法を説かずとも
疾く涅槃にや入りなん
尋いで過去の仏の
所行の方便力を念うに
我が今得る所の道も
また 三乗と説くべし
:
:
太郎訳)
私は深く考えました。
もし ただ成仏の教えを讃えても
人々は苦の中にあるために
この教えを信じることが出来ません
愚かな者たちは 私の説いた教えに対して
罵りの言葉を吐きかけ 信じることがないため
地獄・餓鬼・畜生という悪い境遇に墜ちるでしょう
私は むしろ教えを説かない方がいいのであり
すぐにでも涅槃に入るべきかも知れません
過去の諸仏が
方便力を使って導いたことを想い
私が今得ることの出来た仏道も
過去の諸仏に倣って
仮に三つの道として
説き示すことにしましょう
:
:
化を方便で施す-3
:
:
:
化を方便で施す-2
:
経)
その時に諸の梵王
及び 諸の天帝釈 護世四天王
及び 大自在天
ならびに余の諸の天衆
眷属百千万
恭敬 合掌し礼して
我に転法輪を請す
:
:
太郎訳)
その時に梵天王が現われ
また 帝釈天が現われました
世界を守護する四天王と大自在天と
さらに多くの天上界の神々が現われました
集った神々は合掌をし
尊敬を持って礼拝し
私に教えを説くようにと請いました
:
:
化を方便で施す-2
:
:
:
化を方便で施す-1
:
経)
我 始め道場に坐し
樹を観じ また経行して
三七日の中に於て
是の如き事を思惟しき
我が所得の智慧は
微妙にして最も第一なり
衆生の諸根鈍にして
楽に著し 痴に盲いられたり
斯の如きの等類
云何して度すべきと
:
:
太郎訳)
私は 菩提樹の下で悟りを開いた後
しばらく悟りの座に坐っていました
菩提樹の樹を仰ぎ見て
またはゆっくりと歩いて
二十一日の間
このようなことを思い考えました
私が得た智慧は
正しく優れていて
最も第一です
人々の機根は鈍っていて
快楽に執着し 無知によって真実が見えていません
このような人々を
どうやって救ったらいいのでしょう?
:
:
化を方便で施す
:
:
:
犛牛 の尾を愛するが如し蔽 い
広く開顕を頌す
:
五濁の開三
:
経)
舎利弗 当に知るべし
我 仏眼を以て観じて
六道の衆生を見るに
貧窮にして福慧なし
生死の険道に入って
相続して苦断えず
深く五欲に著すること
貪愛を以て自ら
盲瞑にして見る所なし
大勢の仏
及び 断苦の法を求めず
深く諸の邪見に入って
苦を以て苦を捨てんと欲す
この衆生の為の故に
しかも大悲心を起しき
:
:
太郎訳)
シャーリプトラよ
よくお聞きなさい
私が仏眼によって
迷いの世界を輪廻する人々を観察すれば
心が貧しく福も智慧もありません
現象に振り回されて 険しい道を歩み
いつまでも苦が絶えません
深く五感の欲に執着しており
まるで尻尾を愛してやまないヤクのようです
欲に執着して 自分の智慧に蓋をしているために
真実を観る眼が閉じています
諸仏と苦を断つ教えを求めません
深く様々な誤った思想を持っていて
苦によって苦を捨てようとしています
このような人々のために
私は大慈悲心を起こすのです
:
:
五濁の開三
:
:
:
第五釈迦仏章
:
略して開顕を頌す
:
経)
今 我もまた是の如し
衆生を安穏ならしめんが故に
種々の法門を以て 仏道を宣示す
我 智慧力を以て
衆生の性欲を知って
方便して諸法を説いて
皆 歓喜することを得せしむ
:
:
太郎訳)
今 私もまた
過去・未来・現在の
諸仏と同じように
人々を安穏の境地に導くために
様々な教義によって
仏道を説き明かします
私は 智慧の力によって
人々の性格や欲望を知り分け
方便にして様々な教えを説いて
皆が歓喜するようにと導いています
:
:
略して開顕を頌す
:
:
:
開権
:
経)
衆生の諸行 深心の所念
過去所習の業 欲性精進力
及び 諸根の利鈍を知しめして
種々の因縁 譬諭
また 言辞を以て
応に随って 方便して説きたもう
:
:
太郎訳)
人々の様々な行為 深い心からの想い
過去に造った宿業 欲望 性格 続ける力
および 教えを受ける力の度合いを知って
様々な体験 譬え話 語源によって
相手に応じ 従って
方便の教えを説かれます
:
:
開権
:
:
:
第四現在仏章
:
施化の意を標す
:
経)
天人の供養したてまつる所の
現在十方の仏 その数恒沙の如く
世間に出現したもうも
衆生を安穏ならしめんが故に
また 是の如き法を説きたもう
:
:
太郎訳)
天上界の神々や地上界の人々が
供養しているところの
現在の十方の諸仏は
その数は無数です。
人々を涅槃へと導くために
また この教えを説かれています
:
:
顕実
:
経)
第一の寂滅を知しめして
方便力を以ての故に
種々の道を示すと雖も
それ実には仏乗の為なり
:
:
太郎訳)
最上の涅槃を説き明かし
方便の力によって
様々な修行法を示されましたが
それはすべて実は
一仏乗のためです
:
:
施化の意を標す
:
:
:
仏種は縁に従って起ると知しめす
:
太郎論:仏種は、ブッダ・ヴァンシャ buddha-vaṃśa の訳です。仏陀の系譜、系統、血統、種族、家族などの意味があります。カースト制度では、バラモンの子はバラモン、クシャトリア(王族)の子はクシャトリア、シュードラ(奴隷)の子はシュードラというように、生まれによって身分(種族)が決まりました。しかし、仏教では、カーストを否定して、生まれでなく、行為によって種族を為すと説いています。善行によって仏に成れるのです。
行為を起さしめるのは縁です。善い縁によって正しい者となり、悪い縁によって正しくない者になります。よって、相手を正しく導きたいのなら、まずは自分が正しくないといけません。仏教では、善い縁となる人を善知識と言います。善知識になることが、法華経においては重視されます。仏陀は、最高の縁を結ぶために、一仏乗を説くのです。
サンスクリット本には、「仏種は縁に従って起ると知しめす」にあたる文はありません。鳩摩羅什が加えた文なのか、鳩摩羅什の使った底本にはあったけど、現在残っているサンスクリット本にないだけなのかは不明です。仏種という言葉は、法華経で三回使われていますが、三回ともに、サンスクリット本には、それに当たる言葉がありません。仏種を仏性のことだと解釈する人もいますが、仏種という言葉はサンスクリットの法華経にはありません。
:
:
dharmā-mukhā koṭi-sahasr'aneke
prakāśayiṣyanti anāgate'dhve/
upadarśayanto imam eka-yānaṃ
vakṣyanti dharmaṃ hi tathāgatatve||101||
sthitikā hi eṣā sada dharma-netrī
prakṛtiś ca dharmāṇa sadā prabhāsvarā/
viditva buddhā dvi-padānam uttamā
prakāśayiṣyanti mam' eka-yānam||102||
:
:
訳)
未来の世において 如来たちは幾千コーティもの
多くの法への入口を説き示されるであろう
如来の本性において この一乗を説き明かしつつ
まさに法について語られるであろう
この真理を見る眼(法眼)は、常に確かに存続していて
あらゆるものごと(諸法)の本性は常に光り輝いている
そのことを知って 両足で歩く者の中で最上であるブッダたちは
私のこの一乗を説き示されるであろう
:
植木雅俊の訳を参考にしました。
:
:
仏種は縁に従って起ると知しめす
:
:
:
教一
:
経)
未来世の諸仏
百千億 無数の諸の法門を
説きたもうと雖も
それ実には一乗の為なり
諸仏両足尊 法は常に無性なり
仏種は縁に従って起ると知しめす
この故に 一乗を説きたまわん
:
:
太郎訳)
未来世の諸仏は
無数の様々な教義を説くのですが
そのすべての教えは 一乗のためです
諸仏は一切の事物・現象には実体はないのだから
仏になることは 縁によって起こると説かれます
この為に一乗を説かれます
:
:
理一
:
経)
この法は法位に住して
世間の相常住なり
道場に於て知しめしおわって
導師方便して説きたまわん
:
:
太郎訳)
この真理は 確実であり 継続し
世間において不動で常にあります
この世界で 仏は方便によって説くことでしょう
:
:
教一
:
:
:
顕一
:
人一
:
経)
諸の衆生を度脱して
仏の無漏智に入れたまわん
もし 法を聞くことあらん者は
一りとして成仏せずということなけん
:
:
太郎訳)
多くの人々を救い
仏の智慧を得るように導きます
もし この教えを聞く者は
一人として成仏しないということはありません
:
:
行一
:
経)
諸仏の本誓願は
我が所行の仏道を
普く衆生をして
また同じく
此の道を得せしめんと欲す
:
:
太郎訳)
諸仏の本の誓願は
自分が実践した仏道を
広く人々に伝え
自分と同じように仏道を
得させることです
:
:
人一
:
:
:
第三未来仏章
:
開三
:
経)
未来の諸の世尊
その数量あることなけん
この諸の如来等も
また方便して法を説きたまわん
一切の諸の如来 無量の方便を以て
:
:
太郎訳)
未来の諸仏は
その数無量です
この諸仏も また方便で
教えを説かれるでしょう
一切の諸仏 無量の方便によって
:
:
開三
:
:
:
万善成仏
:
太郎論:すべての善行は、成仏に通じるということが説かれています。過去の出来事なので、「皆すでに仏道を成じき」という表現になっています。ここで説かれている成仏の縁となる善行は八つです。
①六波羅蜜
②教学
③仏塔
④仏像
⑤仏画
⑥供養
⑦礼拝
⑧南無仏
:
:
万善成仏
:
:
:
人・天の開会-6
:
経)
もし人の散乱の心に
塔廟の中に入って
一たび南無仏と称せし
皆すでに仏道を成じき
諸の過去の仏の
現在 或は滅後に於て
もし この法を聞くこと有りし
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳)
もし ある人が
心が定まっておらず乱れていても
仏塔やほこらの中に入って
南無仏と一度でも唱えた者は
皆 すでに成仏しています
過去の諸仏の在世の頃
または 滅後において
もし この教えを聞くことがあれば
皆 すでに成仏しています
:
:
人・天の開会-6
:
:
:
人・天の開会-5
:
経)
もし人 散乱の心に
乃至 一華を以て
画像に供養せし
漸く無数の仏を見たてまつりき
或は 人あって礼拝し
或は また ただ合掌し
乃至 一手を挙げ
或は また少し頭を低れて
これを以て像に供養せし
漸く無量の仏を見たてまつり
自ら無上道を成じて
広く無数の衆を度し
無余涅槃に入ること
薪尽きて火の滅ゆるが如くなりき
:
:
太郎訳)
もしある人が
心が定まっておらず乱れていても
一本の花を仏画に供養したならば
無数の諸仏に出会うことができました
または ある人が仏塔を礼拝し
または ただ合掌し
または 片手を挙げ
または 少し頭を下げて供養した者は
無数の諸仏に出会うことができて
自らが成仏し 広く無数の人々を救い
真の涅槃に入る様子は
薪がなくなって 火が消え絶えたようでした
:
:
人・天の開会-5
:
:
:
鼓 を撃ち 角貝を吹き
簫 ・笛 ・琴 ・箜篌 鐃 銅鈸
歌唄 して仏徳を頌し
人・天の開会-4
:
経)
もし人 塔廟 宝像
及び画像において
華・香・旛蓋を以て
敬心にして供養し
もしは 人をして楽を作さしめ
琵琶・
是の如き衆の妙音
尽く持って以て供養し
或は 歓喜の心を以て
乃至 一小音をもってせし
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳)
もし ある人が 仏塔 ほこら 仏像
及び 仏画に対して
花・香・旗・天蓋を捧げて
心から供養し
または 人々に音楽を演奏させて
太鼓を打ち 角笛・貝笛を吹きならし
縦笛・笛・琴・竪琴・琵琶
銅鑼・銅鉢など
このような様々な楽器による
優れた音楽を捧げ
または 歓喜の心で
歌を唄って仏の徳を讃えた者たちは
たとえ それが小さな歌声であっても
皆 すでに成仏しています
:
:
人・天の開会-4
:
:
:
三宝帰依
:
太郎論:在家は、仏教徒になる時に「三帰五戒」を誓います。三帰とは、三宝帰依のことです。仏陀・仏陀の教え・僧伽に帰依することです。僧伽とは、サンガ saṃgha の訳です。もとの意味は集団・衆であり、出家者のグループのことを僧伽といいました。僧というのは、僧伽の略です。本来は、集団のことでしたが、日本では、個人のことをいうようになりました。お坊さんのことを僧といいます。仏陀や仏陀の教えと同じように僧伽に帰依するのは、僧伽が教えを守り、仏道修行の手本を示すからです。戒律を護って浄く正しく生きる姿に帰依しました。
日本には、戒律がありませんので、僧伽への帰依はしていないようです。仏道修行の手本となる僧がいないことは、在家にとっては残念なことです。儀礼儀式で読経をしても、ほとんどの人は帰依はしないでしょう。新興宗教においては、僧伽自体がないところも多いので、三宝帰依は成り立っていません。
:
:
五戒
:
太郎論:五戒とは、在家信者が護るべき五つの戒めのことです。それは、不殺生戒 せっしょう ・不偸盗戒 ちゅうとう ・不邪淫戒・不妄語戒 もうご ・不飲酒戒 おんじゅ の五つです。殺さない・盗まない・邪な性行為をしない・嘘をつかない・酒を飲まないことです。在家は五戒ですが、出家者の場合は、男性だと250、女性だと350の律があります。戒の場合は反省をするだけで、特に罰はありませんが、律の場合は罪に応じた罰があります。五戒は、律にも含まれていますが、不邪淫戒は、淫戒になります。つまり、性行為のすべてが禁じられ、自慰なども禁止されました。夢精以外はアウトです。
新興宗教団体では、三帰五戒を誓いません。よって、戒を守りません。虫や小動物を平気で殺すし、人のものを黙って持っていくし、不倫をするし、嘘をつくし、お酒を飲みます。悪いことをすれば、ワクワク・ドキドキします。この興奮が忘れられず、罪を犯すのでしょう。映画やドラマでは、犯罪がテーマになることが多いです。殺人事件・強盗・不倫・詐欺のシーンは多く、飲酒は日常的に行われます。それだけ、人は犯罪に魅力があるのでしょう。だから、仏教では戒律を定めるのだと思います。
もし、日本で仏教を再び盛り上げたいのなら、出家者は律を在家者は戒を守るのがいいでしょう。戒を守ることで心が平穏になり、禅定に入りやすくなるからです。禅定に入らなければ、智慧は得られず、智慧が無ければ成仏できません。
:
:
:
綵画 して仏像の艸木 及び筆爪甲 を以て
漸漸 に功徳を積み
人・天の開会-3
:
経)
百福荘厳の相を作すこと
自らも作し もしは人をしてもせる
皆すでに仏道を成じき
乃至 童子の戯に
もしは
或は 指の
画いて仏像を作せる
是の如き諸人等
大悲心を具足して
皆すでに仏道を成じて
ただ諸の菩薩を化し
無量の衆を度脱しき
:
:
太郎訳)
仏の姿を絵画にして
仏に多くの福が具わっていることを
自分で描いたり
または、他者に描かせる者たちは
皆、すでに成仏しています
または、子供が戯れに
木の枝や筆、
あるいは、指の爪で
仏の絵を描く者たちは
だんだんと功徳を積み
大きな慈悲心を具えるようになり
皆、すでに成仏して、
そして、ただ菩薩たちを教化し
無量の人々を救いました。
:
:
人・天の開会-3
:
:
:
鍮鉐 ・赤白銅
白鑞 及び鉛錫 膠漆布 を以て
人・天の開会-2
:
経:
もし人 仏の為の故に
諸の形像を建立し
刻彫して衆相を成せる
皆すでに仏道を成じき
或は 七宝を以て成し
鉄木 および泥
或は
厳飾して仏像を作れる
是の如き諸人等
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳:
もし ある人が 仏のために
様々な仏像を造り
三十二相の仏の特徴を
盛り込んだならば
このような人々は
皆 すでに成仏しています
あるいは 七種の宝によって
または 真鍮 赤銅 白銅
白鑞 鉛 錫
鉄 木 粘土 漆喰によって
立派な仏像を作ったならば
このような人々は
皆 すでに成仏しています
:
:
人・天の開会-2
:
:
:頗黎
硨磲 と碼碯
玫瑰 瑠璃珠 とをもって
栴檀 及び沈水
木樒 ならびに余の材
甎瓦 ・泥土等をもってするあり曠野 の中に於て仏廟 を成し戯 に
沙 を聚 めて仏塔と為る
硨磲 の貝殻 石英の結晶、
人・天の開会
:
経:諸仏 滅度しおわって
舎利を供養する者
万億種の塔を起てて
金 銀 及び
清浄に広く厳飾し
諸の塔を荘校し
或は 石廟を起て
もしは
土を積んで
乃至 童子の
是の如き諸人等
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳:諸仏が入滅した後
仏の遺骨を供養する者が
多くの仏塔を建てて
金銀や水晶
雲母 瑠璃という宝石によって
それらの仏塔を
浄く美しく厳かに飾りました
あるいは 石のほこらを建て
栴檀や沈香 シキミ その他の材料
瓦や粘土などをもって造りました
もしくは 広野の中において
土を積んで仏をまつるほこらを造り
または 子供が戯れに
砂を集めて仏塔を建てました
このような人々は
皆すでに成仏しています
:
:
人・天の開会
:
:
:
二乗の開会
:
経:諸仏 滅度しおわって
もし人 善軟の心ありし
是の如き諸の衆生
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳:諸仏が入滅した後
素直で柔らかな心を
持った人々がありました
このような人々は
皆 すでに成仏しています
:
:
二乗の開会
:
:
:
菩薩の開会
:
経:もし 衆生類あって
諸の過去の仏に値いたてまつって
もしは 法を聞いて 布施し
或は 持戒 忍辱 精進 禅 智 等
種々に福徳を修せし
是の如き諸人等
皆すでに仏道を成じき
:
:
太郎訳:もし 人々の中で
過去の諸仏に出会い 教えを聞いて
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という
菩薩行を実践して
様々な徳を修めた者たちは
皆 すでに成仏しています
:
:
菩薩の開会
:
:
:
顕一
:
経:この諸の世尊等も
皆 一乗の法を説き
無量の衆生を化して
仏道に入らしめたまいき
また諸の大聖主
一切世間の 天人群生類
深心の所欲を知しめして
更に異の方便を以て
第一義を助顕したまいき
:
:
太郎訳:これらの諸仏も
皆 一乗の教えを説き
無量の人々を教化して
成仏へと導きました
また 諸仏は 一切の世間の
天上の神々 地上界の人々など あらゆる生物の
深い心の様々な欲望をよく把握していて
その者たちに応じて異なる方便を用いて
真実の教えを説き明かされました
:
:
顕一
:
:
:
第二過去仏章
:
開三
:
経:過去無数劫の
無量の滅度の仏
百千万億種にして
その数 量るべからず
是の如き諸の世尊も
種々の 縁 譬諭
無数の方便力をもって
諸法の相を演説したまいき
:
:
太郎訳:過去の世の非常に長い時間において
涅槃に入られた無量の仏は
その数は 非常に多くて
人々の知るところではありません
これらの諸仏も 様々な過去の体験
譬え話 無数の方便によって
すべての事物・現象について説かれました
:
:
開三
:
: