見る側と見られる側の「主体と客体」の関係と、人の認識のあり方である「主観と客観」の関係は次のようになります。
客体(見られる側)=所取(六境)
主体(見る側) =能取(六根)
客体(所取)=モノのあり様
主体(能取)=認識のあり方(主観と客観=六識)
六識の中の前五識は、客観による直覚的認識でそこに分別の心はありません。未だ言葉の概念を持たない赤ちゃんが見ている世界観でこれを現量といいます。赤ちゃんが成長し概念を身に付けていく程に分別の心が膨らんでいきます。その分別の心(言葉の概念)での認識を比量といいます。
スマホを例にとって考えてみますと、かくかくしかじかの機能を備えた物体をスマホと言います。
言葉で定義付けされた物体が「スマホ」です。言葉による定義がなければそれはただのモノ(物体)でしかありません。ですから言葉の概念がない赤ちゃんにはただのモノ(物体)としてしか認識されません。
実体は概念によって造り出されます。
この言葉に依る定義が蓄えられていく処が阿頼耶識という記憶の蔵です。その蔵に収まっている「定義」を深層意識である末那識の自我意識が拾い上げ、それを概念として表層の意識である第六意識に手渡します。本来無分別で存在している対象の見られる側のモノ(物体)を眼識が現量で認識します。それを第六意識が言葉の概念で分別(識別)して、そのモノをスマホとして認識します(比量)。
このように我々人間は阿頼耶識に蓄えられた情報を概念化し、外界の様々なモノや出来事をその概念という色眼鏡でもって認識しています。
しかし、その概念って人間が造り出したものですよね。
仏教では人間の事を凡夫と言います。
迷いの中にある衆生の事を凡夫と言い、凡夫の心は無明と言いまして真実に疎い存在とされます。
そんな迷いの心で人生をどんなに頑張って生きていっても、所詮、迷いの人生でしかありません。
そんなあてにならない凡夫の概念など捨ててしまいなさいというのが「空」の教えです。
この空を「モノのあり様」を説いた教えだと思い込んでいる人達が沢山おられます。
実体は仮和合(縁起)であって実在しない。
だから「空」だと。
しかし、実体は仮和合(縁起)によって実在しています。
あなたは今、スマホを手に取っていますよね。
それは幻影ですか?
スマホは因果の法理に基づいて今、あなたの手に握られ、
まぎれもなくそこに実在しております。
此縁性縁起という実体に即した真理によってそこに実在しているんです。
人間がモノを認識する五蘊という働きでその物体をスマホとして認識しているんです。
空とは、その認識を止めましょう(空じる)という教えです。
その認識は正しいモノの認識法ではないと言っているのです。
人間は主観と客観とで物事を認識します。この働きを仏教では五蘊と言います。この五蘊での認識を止めて対象を縁起で観る事が正しい物事の捉え方であるとお釈迦さまは縁起の法門を説かれたのです。
客観による認識は、此縁性縁起で起こります。客観視の対境である「見られるモノ=六境」は此縁性縁起で成り立っているからです。これは科学や物理と全く同じ概念で、物体の時間経緯によって生じる変化(縁起)です。実体における真理(実在の真理)なので科学や物理学と全く同じ真理となります。
蔵教で説かれた『倶舎論』がこれにあたります。
実体は仮和合によって仮在(仮設)する。
条件が変わればそのあり様もまた変化する。
よって変わらずにあり続ける本質は無い。
それが蔵教で説かれた真理です。
これは「モノのあり様」を説いた実在の真理(此縁性縁起)です。
そのモノがどのようにしてそのモノとして成り立っているか細分化して見ていきます。
科学と全く同じ視点です。
「モノのあり様」を〝人間の客観〟という視点で展開していきますと、科学が発展し様々な便利なモノが沢山造られていきます。医学も進歩します。それによって多くの人達が病から救われます。
しかし、そういった客観的視点で物事を展開していっても幸福な人生に辿り着くとは限りません。
なぜなら人の人生は主観で出来ているからです。
我々昭和の人間は、「いい大学を出れば一流企業に入れて安定した将来が約束される」と教えられてきました。そしてそれが幸せな人生をつかむ一番確実な道筋だと信じて生きて来ました。しかし、「社会的に成功する事」と「幸せな人生を手に入れる事」って果たしてイコールで結ばれるものなのでしょうか。
社会的に成功している人達って裕福な暮らしをされていて、傍から見ると羨ましく思えますが、そんな恵まれた環境にある人達が必ずしも幸せな日々をおくっているとは限りません。
客観的には羨ましい存在に見えていても、当の本人にとっては苦しみの人生だったりする事はよくあります。またその逆で、生活は苦しくてもいつも家族皆が仲良しで、いつも楽しそうに暮らしている人達も沢山おられます。私なんかはまさに後者の方です。
そういった視点で人の人生を考えてみると、客観的に見えている姿って案外あてにならないもので、人生ってその人の〝主観〟で成り立っているんだなと思いませんか。
そう考えてみると前回、四分の説法でお話しました「相分(客観)は無いが見分(主観)は有る」の言葉の意味するところが読めて来ませんか。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
仏教では最初に〝実体〟を空じる教えが説かれます。
「空」のファースト・ステージです。
実体とは我々人間が客観的に見ているモノや出来事(現象)の事です。そういったモノや出来事を自分達の言葉で定義づけして分別し、それが概念として阿頼耶識に蓄えられていきます。そうやって物事を分別していく事は大変便利な反面、その分別によって苦しみが生み出される事もまた事実です。
美味しい物をたらふく食べたい、綺麗な服が着たい、カッコいい車に乗りたい、立派な家に住みたいなどといった欲が生まれるのもこの「分別」によるところです。
「美味しいやマズイ」「綺麗とか汚い」「良いとか悪い」「立派だとか貧素だとか」こういった分別は、物事を客観で認識した心が主観で思う事です。
仏教のファースト・ステージでは客観を空じ、次のセカンド・ステージで主観を空じます。
客観を空じる=析空
主観を空じる=体空
人間の認識は「主観と客観」から成ります。この「主観と客観」を空じる事で人間の表層認識は止滅します。
この析空と体空の二空をもって人間の世界観から離れて「空」の世界観へ意識が入る事を入空観と言います。
析空と体空は人間の「客観と主観」をそれぞれ空じますのでこの二空の事を「人空」と言います。その人空に対して「法空」と呼ばれる空があります。これは人間の深層意識で起きる内縁を対象として起こる縁起を空じる「空」です。
人間は「主観と客観」で物事を認識し、対象の姿(色相)に定義付けをして概念化することで分別し識別することで様々なモノや出来事を整理して記憶に留めていきます。そういった一連の認識システムが仏教では「五蘊」として解き明かされております。
モノには姿形がありそれを相(色相)と言います。そしてそのモノの定義を人の心が決めていきます。その〝相〟は人の客観で認識される姿(現量)で此縁性縁起によって形成された〝相〟です。
そしてモノの定義は、そのモノを人の心がどういうふうに受け止めているかといった〝性〟にあたり(比量)こちらは相依性縁起によって定義付けされます。
人間によるこの「主観(性)と客観(相)」による認識によって我々は対象のモノを「実体」として認識します。
客観=相
主観=性
実体=体
この人間の認識である「主観と客観」空じる事で、我々凡夫が仏の認識に立つことが出来きます。この仏の認識を〝空観〟と言います。
客観は此縁性縁起で起こります。
そして主観は相依性縁起で起こります。
この二つの縁起を空じる事で「主観と客観」が「空観」の認識に変わります。
認識が空観に変わるとどうなるかと言いますと、対象を凡夫の前五識で認識しその現量を因として第六意識で比量が働き結果として対象を「実体」として見ていた認識が、前五識と第六意識が空じられ、それにより第七意識が阿頼耶識に貯蔵されている「そのモノがそのモノと成り得た因果」を拾い上げ、それを因とした阿頼耶識縁起が起こります。
「主観と客観」での第六意識での認識から、末那識での阿頼耶識の因果の認識へと変わる事で対象の真実の姿が観えてきます。
これが『唯識』で説かれる三性説です。
『唯識三十頌』の28頌の「相分と見分」の三性説です。
唯識三十頌 その④
https://zawazawa.jp/bison/topic/28
①相分も見分もない(依他起性)
②相分も見分もある(遍計所執性)
③見分はあるが相分はない(円成実性)