そうしましたら、元コマンダーさんはこのように申されました。
「科学と宗教を分別しているのでは?」
しかし、私が言っているのは、
「科学的に見たら分別。
仏教的に見たら無分別。」
という事です。
それに対し、元コマンドーさんは
「否定はしない…!
反論すれば分別した事になる」
と申されました。中々お話が解る方だなと私は感心致しました。
そこえ、リダンさんが次のようなご意見を投稿されました。
「分別した凡夫からみた場合
個別に阿頼耶識があるように見えます。
それぞれの阿頼耶識が受信送信をおこない同期しているのか。
阿頼耶識があって、
分別した末那識がそれぞれの自我を形成しているのか。」
リダンさん、分別した凡夫を「通教の菩薩」と考えて見て下さい。
菩薩なので阿頼耶識を覚っています。しかし通教という「空」の理解(第二段階の理解)なので、個別に阿頼耶識があるように見えます。
そう考えて天台智顗の四門の料簡(観無量寿経の16観法)の内容を今一度ご確認ください。
14,観無量寿経(その5)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
<通教の菩薩>
分別した凡夫からみた場合、
個別に阿頼耶識があるように見える。
<円教の菩薩>
分別しない凡夫からみた場合、
同体に阿頼耶識があるように見える。
空の三段階目の深い理解は、自我を完全に退治して起こる縁起(=空)です。自我を退治することで末那識がニュートラル状態になります。(サングラスを外した状態)これが三段階目の空っぽ、即ち空です。(末那識を空にする)
末那識を空にして阿頼耶識を因として起こす縁起、それが因果俱時で起きる縁起です。
現在・過去・未来の分別が起きませんので、今一瞬の出来事の中に、過去も未来も同時に同体で観じ取ります。
直感的に観じ取ります。わたしはそれを幾度となく経験してきております。(法介伝参照)
この人なんか変だなーて観じた人は後々問題を起こしたり、この人なんか凄いと直感的に観じた人は、後世で偉大な功績を成しえたり、そういうのが直感的に観じ取れるようになっていきます。