日蓮曼荼羅本尊についてのお話です。
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法介
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御本尊について日蓮大聖人はこのように申されております。
https://syozou.blog.jp/archives/19110470.html
これに目を通していただきましたところ、以下のようなご意見を頂きました。
元コマンダー:
法介(法華経)曰く、石ころも人間のように成仏できる
これって人間を石ころの様に粗雑に扱っても良いという意味なのか?
それとも石ころも人間と同じように大切に扱うべきなのか?
JBC:
石ころがどうやって成仏するんかい?
このご意見について私の意見を述べさせて頂きます。
お二人の疑問のポイントは『唯識』を理解出来ているか否かの問題です。
「空」の第三段回目の理解に関わってくる問題で、これが理解出来ていない人は、このような疑問に駆り立てられます。先に言っておきます。
石に意志はございません^^
石がお題目を唱える訳もございません。
世界の中心ってどこだと思いますか?
と尋ねてみましたところ、
「宇宙に中心は無い
故に、何処を中心と定義しても正しい」
という返答が帰ってきました。
私は今度は、次のように質問しました。
「地球上の全人類が滅亡して地球上に誰一人居なくなったとして、
その時宇宙は誰によって認識されますか?」
(宇宙自体はそのまま変わらずに存在し続けています)
それに対し元コマンダーさんは、次のような返信を返されました。
「月を見たから月が実在するのか
月を見てなければ月は実在しないのか
量子力学の話か」
物理学的に「空」を解釈したらそういう事になります。
物理学的とは細分化(此縁性縁起)して「有る無し」を観測者の視点で見るって事(相依性縁起)です。しかし、仏教はそういった科学的、物理学的視点ではなく、阿頼耶識を因として起こす縁起です。縁起を起こすのは修行者本人です。その修行者の心で起きる縁起によって顕れる世界が究極の真理の世界観です。その「究極の世界観」にあっては、分別の心は起こりません。
阿頼耶識を因として起こる縁起の中の自分と石は、同体不二として顕れます。
ですから、
「草にも木にも成る仏なり」
なのです。
そうしましたら、元コマンダーさんはこのように申されました。
「科学と宗教を分別しているのでは?」
しかし、私が言っているのは、
「科学的に見たら分別。
仏教的に見たら無分別。」
という事です。
それに対し、元コマンドーさんは
「否定はしない…!
反論すれば分別した事になる」
と申されました。中々お話が解る方だなと私は感心致しました。
そこえ、リダンさんが次のようなご意見を投稿されました。
「分別した凡夫からみた場合
個別に阿頼耶識があるように見えます。
それぞれの阿頼耶識が受信送信をおこない同期しているのか。
阿頼耶識があって、
分別した末那識がそれぞれの自我を形成しているのか。」
リダンさん、分別した凡夫を「通教の菩薩」と考えて見て下さい。
菩薩なので阿頼耶識を覚っています。しかし通教という「空」の理解(第二段階の理解)なので、個別に阿頼耶識があるように見えます。
そう考えて天台智顗の四門の料簡(観無量寿経の16観法)の内容を今一度ご確認ください。
14,観無量寿経(その5)
https://butudou.livedoor.blog/archives/17944347.html
<通教の菩薩>
分別した凡夫からみた場合、
個別に阿頼耶識があるように見える。
<円教の菩薩>
分別しない凡夫からみた場合、
同体に阿頼耶識があるように見える。
空の三段階目の深い理解は、自我を完全に退治して起こる縁起(=空)です。自我を退治することで末那識がニュートラル状態になります。(サングラスを外した状態)これが三段階目の空っぽ、即ち空です。(末那識を空にする)
末那識を空にして阿頼耶識を因として起こす縁起、それが因果俱時で起きる縁起です。
現在・過去・未来の分別が起きませんので、今一瞬の出来事の中に、過去も未来も同時に同体で観じ取ります。
直感的に観じ取ります。わたしはそれを幾度となく経験してきております。(法介伝参照)
この人なんか変だなーて観じた人は後々問題を起こしたり、この人なんか凄いと直感的に観じた人は、後世で偉大な功績を成しえたり、そういうのが直感的に観じ取れるようになっていきます。