トピックのないただのつぶやき
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noratetsu
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Metaslip
これを書いてて、こういうのはScrapbox(Noratetsu Lab Dict.)の方が良いようなと思ったけど、ツール紹介とは関係ない話を書きたいこともあるのでここにトピックを作るのを控える必要はないなと思った。
というか、Noratetsu Lab Dict.はどちらかというと人のため、ここはどちらかというと自分のため、という感じで考えれば良いな。
アウトライナーについて思うこと、みたいなのもトピックを作っておけば書き込みたくなるかな。
情報管理全般にするよりはもう一歩具体的にした方が良いかもしれない。
アウトライナーそのものにすごく興味があるというよりは、アウトライナーを使うことに伴う事象を一般化して考えたいという感じがある。
関心の対象はアウトライナーと自分の接点の部分ということだろう。
接点というのは一般的な「つながり」というのではなくアウトライナーという概念と自己の存在が触れて何かが起こっている地点ということ。
なんか目が痛くてしんどい一日だった。
すごい痛いというわけじゃないけどストレスは小さくない感じ。
ゲームとか音楽とか、昔好きだったものを今でも好きだと信じたい気持ちがある。それで、同じタイプのものをやったり聞いたりした時に「それほどでもない」感じがすると、「いやそんなはずは」と思ってしまう。
熱量が失われた、という引き算のショックを感じるのだろう。
それと同じかそれ以上に何か新しいものが加わっていると思うのだが、そのことに自覚的でないと「どんどん色褪せていく」という喪失感に襲われる。
もっとも鮮やかなのが思春期で、そこから色が抜けていくばかりのような気になる。でも、別にそうではないと思う。「変わった」だけで、「減った」のではないのだろう。
デジタルツール用トピックを作るか。
→デジタルツール情報
「APIを叩く」「ブランチを切る」のようなメタファー、自分の身体感覚と合ってないものが多くて苦手にしている。
「扉を叩いて中から何かを出してもらう」的イメージがあったとして(それが「APIを叩く」のイメージとして正解かどうかはわからないけども)、私の中では「叩く」より「出してもらう」方に重みがあるので「叩く」の方を採用されると「叩いてどうするの?」という気持ちになってしまうのだと思う。
Gitの「ブランチを切る」は「枝分かれさせる」の意味のはずだけど、「枝を切る」と言ったら「枝を切り落とす」イメージがあって、むしろ「存在していたブランチを切り落とす」様子を想像してしまう。
業界用語というのはそういうものなんだろうけど、わざわざメタファーを使っているのにメタファーを使うメリットを享受できていない感じがあって個人的に馴染めないでいる。
漫画の「ネームを切る」も不思議に思っている。
「切る」になった何らかの経緯があるとしても(映画のコンテから?)、「切る」ですっかり定着するほど納得のメタファーなのだろうか。
日本人、なんでも切りたがる?
500字くらいでもブログ記事として出していいと思ってはいるけどなかなかそうはできない。
でも「魅力的な記事」ってむしろ短い。
一見すると「短いのに豊か」に感じるから魅力的に思えるのだが、実際には半分くらいは「短いから魅力的に感じる」のではないかという気がする。
つまりその意味では短い方が得をする。
でも短いと魅力を失うものもある。
何が違うのかっていうのは結局のところ、「正確にわかりたい」のか、「何かを感じ取りたい」のか、ということだろう。
前者は説明が不十分だと困る。後者は語られないところに読み手は勝手に何かを感じ取り、時にはその方が豊かな感じがする。
多分、「意味が曖昧だ」と思われることにある種の恐怖心があるから「スッと書いてスッと引く」みたいなことができないのだと思う。
曖昧でいいのにね。
というか、「曖昧なのは許せない」みたいな人に許されなかったとして、だから何、という感じもする。
まあでもこの問題の対処法としてあることをちょっと考えている。
さっさと進めたいところ。
>> 6と関連
ここのところ、YouTubeで今流行っている曲をチェックしている。
流行っているだけあって良い曲が多いと思う。流していて「微妙」という風にはあまり感じない。スーッと聞ける。
でもなんか、「痺れる」みたいなことになかなかならない。
最近の曲は~という話ではなく、私の音楽に対する態度の変化の問題なのだろうと思う。
昔は、流行っているとなったら流行の要因となっている要素についてすごく神経を注いでいたと思う。
「確かにこれはいいよね!流行るだけある!」と思おうとする気持ちが働いていた。
つまりものすごく「ちゃんと聴いていた」。音楽のことはよくわからないけども、良いと感じるポイントを探すことに余念がなかった。それをごく当たり前にやっていた。
今はなんか、音楽として優れているのかどうかとか、新しさがあるのかどうかとか、評論家でもないくせにそんなものさしを手に持って音楽を聴いてしまっている。
別に批評してやろうとか思ってはいないし、実際大抵の流行歌に「普通に良い」と思っているのだが、「普通に(音楽として良い感じでそれなりの新鮮さを感じるので)良い」みたいな括弧があるという感じ。私個人のフィルターを通していない。
なんかこう、どうにかしたいところ。もっと豊かになりたい。
自分のアイデアについて、特に欠点があったわけでもなく、ただ続けていない、ということがよくある。
続けられないなら欠点があったということじゃないか、と考えることもまあできるのだが、でも大抵は「他のことに意識を向けたから」ということが理由で止まってしまっている。
欠点はないが、続けるメリットがそんなに大きくなかった、ということなら言えるだろう。
で、続くために必要なメリットの大きさというのが結構なサイズなのだと思う。
そこに達しないと続かないけど、そんなにすごいメリットがあるアイデアっていうのはそうそうない。
そしてなんとなく止まってしまう。
続かなかったことを反省しようにも、「飽きっぽいから…?」みたいな頼りない結論しか出てこない。
まあ、自分のアイデアなら実践し続けなければ意味がない(アイデアに価値があることにならない)、と考える必要もないとは思う。
そういえば、ブログでやろうかなと思っていたシリーズっぽいものがある。
ブログの価値(主に主観的な)を増やすためにブログでやろうと思っていたけども、内容的にここでもいいかもしれない。
でもどうかな、もし自分のサイトを作るならそっちでやった方が良いに決まっている。
ここでやっても良さそうだからといって、ここでやってしまわなくてもいいよな。
Twitterのコミュニティに投げたツイートを拾っておきたいが、どうするのが一番いいのか微妙だ。
場所は作った。→知的好奇心向上委員会ツイート庫
でもただ埋め込んでも、サイズとしてでかすぎるしツリーになっているものの扱いに困る。
自分のツイートだからコピペしてもいいけど…。うーん、まあ埋め込みが駄目ならコピペしかないかあ。
Scrapboxの方が簡単で良いな。
良いけど、そうすると非公開プロジェクトに完全に自分用でということになるかな…。
まあ別にわざわざ公開する必要もないにはない。
埋め込みが簡単ということからここに貼ればいいかもと思ったんだけどな。
でもScrapboxだと多分見返さないんだよな。日頃Scrapboxで作っているページの粒度と違うものになってしまうため。
その意味ではここにコピペの方が良さそう。
zawazawaに対して使いやすいと感じていることを踏まえて自分で何か作ることもできるわけだよなあ。
コメントの「場所」をトピック番号とコメント番号で設定するというのもちょっと面白い。
削除しても番号は詰められず、欠番になる。
となると、
という形でデータを表せることになる。簡単だ。
あとは別途トピック番号に対してトピックを管理する。
まあ実際には二次元配列ではなくトピックのオブジェクトのメンバーにコメントの配列を入れた方がスマートか。
ただ、最も便利なのは見ながら書いて即反映されるということであって(他のあらゆるWebサービスがそう)、その部分を自前でやれないなら何をどうやっても継続が難しくなってしまう…。
>> 28
自分の手元ではその場で編集→即反映、公開用には時々更新、というのが学習コスト的にも現実的とは思う。(静的な範囲で作る)
その形式ならもう可能なんだけどいまいち設計がうまくいっていない感じがする。
PharoをインストールしてSmalltalkをちょっと触っている。
果たして良さがわかるところまでたどり着けるか怪しい…。
半月くらい「のらてつ」モードを完全オフにしていてすっかり浦島太郎。
遠ざかりたかった的なネガティブな動機は全然なかったのだけれど、ちょっと懐古の渦に飲み込まれていたというかなんというか。
昔自分が好んでいたものを見て、聴いて、読んで、昔からの知人と色々話して、ということをしていた。昔使っていたアプリケーションにまた触ったりもしている。
あと身の回りで変化があったので、そちらに意識を割いていたのも大きい。
この二年くらい、自分にまとわりついていたものを振り払って前に進むみたいなことをずっとしてきた。脱皮していた、という感じ。
無自覚に縛られていたものを脱ぎ捨てられたことで生まれ変われたようなところもある一方で、別に手放さなくてもいいものを置き去りにしていた。……というか、新たな領域、空白の領域を求めすぎて、過去に一度でも触れて手放したものたちを拾い直すということが全然なかった。
その拾い直しの作業を今しているのだと思う。
自分に必要なのはプロダクト型アウトライナーだった、という結論に達しそう。
昔使っていたNanaTreeみたいなやつ。
今はAndroidのハルナアウトラインを久々に積極的に使っている。
ハルナアウトラインのファイルをPCではMeryで開いて階層付きテキストとして編集している。
>> 31
浦島太郎をさらに二週間継続していた。一瞬で二週間経ってしまっていた。
その間に日記ツールを開発したんだけどこれがかなり最強。
昔使っていた複数の日記アプリ(Android)のデータをインポートできるようにしたりして、分散してしまっている記述の結構な部分をまとめることができた。気分的にものすごくスッキリした。
SQLiteをJSONにすることを覚えたのが大きい。
何か作るごとにコードの書き方が大きく変わってしまっていて、なかなか過去のツールのリファクタリングができないでいる。
でもまあこれ以上良い感じにはならないかなあ。根本的に違う発想を取り入れることにならない限りは。
一番騒然としていた時間帯に開いてなかったのでよくわかってないけど、Twitterに一騒動あったようですね。
それに伴いMastodon(Fedibird)は流入が激増したからかホームが反映されなかったし、BlueskyもAndroidアプリで開いたら他の人の投稿がホームに表示されなくなっていたりして(私だけだろうか?)、なんかこう、「この形式に頼るのは駄目だな!」という気持ちが高まった。
と言っても、結局どうするのがベストなのかはまだ悩みどころ…。
「掲示板」や「タイムライン」のような、他人と共有する「場」への投稿での自分の言葉の軽さと、自分に責任がある場での自分の言葉の重さがイコールじゃないのが難問。
やっぱり自分でサイトを作ってRSSフィードを出力するようにすべきか…。
毎日ブログを書き、SNSはやらない、と決めるべきなのかもしれない。
多分記事の量を増やせばひとつひとつの記事の存在感が薄まるから、気軽に書ける度合いは高まるとは思うんだよね。
SNSに放流するようなテンションでこの記事を書いている、ということを表現できる何かがあればより良いと思うけど、どういう手段があるだろうか。
>> 41
文体とか断り書きとかで区別するのはあんまり有効じゃなさそう。というか、ごちゃごちゃ言い訳がましくなる。
視覚的に区別できた方がよいと思う。チラシの裏ですよ的な感じで。
そうやって区別すること自体ある種の狡さがあるのかもしれないけど、でもいちいち責任を云々されるようなことか?というのがそもそもある。
せっかくここを用意したのに、これこそここに書くべきというような内容をついBlueskyに投稿してしまっている。
TwitterやMastodonより一歩引っ込んだ場所としてBlueskyをイメージしていて、「Twitterじゃない方がいいからBlueskyに」となっている。「SNSじゃない方がいいからひとり掲示板に」と考えないと。
ソシャゲ、超高難度マップを攻略して喜びを表現しているプレイヤーがいたとしても、その人を含めてプレイヤーたちが「超高難度マップに挑みたい」と思っているとは限らないんだよね…。
Blueskyがタイムライン取得できない…
直った!
テーマパークで楽しむ能力が僅かも無いのだが、或る「テーマ」の中に自分を入れ込むこと、というのが多分無理なんだと思う(Dランドについての評論を読んでふと思ったこと)。
同様にライブが無理だし、スポ根的感性も持ち合わせていない。
俯瞰が許されていない世界観の中のキャラクターになることができない。
バランスを取ろう的な意図によって議論を後退させると、多分相手は相当頭に来るのではないか。んなことはわかっとるんじゃと思われるだろう。バランスを取るなら議論をバランスが取れる方向に「前進」させることを試みた方がいい。
そもそもとかそうは言ってもとかいうのは、そこに「見逃されていること」が含まれている場合であってこそ人の目を覚まさせる効果が出るのであって、ただわかりきったことを言われても「で?じゃあこの現状はどうするの?」以外に返せる言葉はない。