ちなみに、かなめさんの問いへのわたしなりの答えはこうです
かなめさんは喧嘩大会にて、
当然否定が優先されれば有益なやりとりとは程遠いものとなる。
と言いましたが、わたしは、そうは思いません
なぜなら、その言い合い自体が面白ければいいからです
たとえば、漫才というのは、一般的に、ボケを否定することで笑いにします
喧嘩だって、それに近い物にすればいいのです!
…と、これは理想のひとつです
喧嘩界は、ひとつの存在を否定するのではなく、それぞれが存在すべきものだと、わたしは思います
その共通の理念として、喧嘩界の発展を掲げればいいのです
専門家には、数学者、政治家、医者…などといったあらゆる分野の人がいます
それぞれ、時に対話したり、時に協力する関係でしょう
わたしは、喧嘩師にも専門分野があるのではないかと考えています
現段階ではカテゴリー化はできませんが、おそらく個性と言われているものが、それに相当するのではないかと感じます
それぞれ、時に交わったり、交わらなかったりすればいいとおもうのです!
かなめさんの言う、twitterの言論界隈がどういうものかは知りません
ただ、とてもレベルの高い方々だということはわかります
わたしはいつもこう思います
「敷居が高いってどういうことだろう?」
敷居が高いと聞くと、漠然と、よみ人さんのことを思い浮かべます
しかし、よみ人さんのやり方もまた、ひとつの喧嘩の結論にすぎないと思うのです
喧嘩とは言い合いです
喧嘩師とは好んで言い合いをする人です
本来、言い合いに、むずかしさも意義も何もないと思います
「何やってんだこいつら」
に対しては、「言い合っているんだ!」と答えるほかありません
たとえ、そこに、尊敬の念こめられていてもです
たとえば、よく夏になると話題になるコミックマーケットは、今でこそテレビでも流れるくらい人気な祭りになってますが、昔はオタクだけが集まる不気味な催しでした
それもそのはず、二次創作同人誌の売買をおこなうところだったからです
二次創作というのは、悪くいえばパクリです
題材をパクって、勝手にストーリーを作ったものです
似たようなものに、ニコニコ動画の人気コンテンツの中にある「歌ってみた」や「踊ってみた」などがあります
要は、そこに、著作権法なんてまったくなかったわけです
むしろ、パクってパクられる関係が暗黙の了解としてあったくらいです
簡単に言えば、オタクたちの落書きの売買が行われる場所だったんです
そんな祭りが有名になれたのは、自分たちのやってることのクオリティが高くなったというのもあるかもしれませんが、そういうコンテンツが面白いものだと認知されるようになったからではないでしょうか?
喧嘩がそうなるためには、まず、喧嘩というものに付いているマイナスイメージを払拭しなければならないと考えます
喧嘩師は怖い、ただのイジメ集団だ
危ない人の集まりだ…
そう思われていれば、一生、日の目を見ることはないでしょう
本来、喧嘩には危険なイメージがあるというのを持たせつつ、実際はそうでもないと安心してもらう必要があるんです
そこで重要なのは、「ごっこ感」です
よみ人さんは、「ごっこ感があると冷める」と言ってましたが、それを最重視した結果、ただの危ない人になります
その人が危なくないと証明する手段がなくなるからです
つまり、適度なごっこ感は必要だと思います
わたし達のやってることは、本来のイメージからいえば、あくまでも喧嘩ごっこです
その、ディベート風アレンジやレスバトル風アレンジにすぎません
わたし達は、ただ、言い合ってるだけです
そういうコンテンツだからです
そこに、好き嫌いとかいう個人的な感情や勝ち負けなんてないのです
大切なのは、見せ物をしているという認識なのです
まとめると、喧嘩には学術的、一般的な価値はないとしつつ、それ自体が面白いものであると思ってもらうほかに方法はないと思います
馬鹿馬鹿しいやりとりをしてると思われるのも仕方がないです
認められるためには、日々努力を重ねるしかないと、わたしは考えます
P.S.
表現とかそういう問題じゃないと思います