>> 48
なるほど、年を重ねて人類が前進しているとは限らないと。
それはまたディベータブルなテーマですね。
>> 48全体を通して、何やら誤解をされているような気がしたので、僕のスタンスを明示しておきます。
僕は、バンドルさんの意見を否定しようとしているわけではないのです。
ただ、こんな意見も考えられるんじゃね?と提言しているだけです。
今回のテーマは、決着にデータを必要とするテーマであり、多分世の中に十分なデータが存在しないために決着がつかないと思ってます。
ゆえに、僕は最初からバンドルさんを説得するつもりはありません。
飽くまで意見交換することを目的としています。
クリティカルシンキングに終始した収束的議論の結果、辿り着くのは平行線だと思いますよ。そうなったとき、僕の意見が破綻するのではなく、双方の意見が「真実とは言えない」となるだけです。
それよりも、折角面白いテーマなのですから、新たな発想や情報に触れられる拡散的議論のほうが楽しいと思います。「娯楽」としてね。
僕の意見を半ば強引にディベートのフォーマットに当てはめ、否定しようとしているように見えたので、先にお伝えしておきました。
・論拠とする論文のこの議題に対する有効性の有無について、です。
この論文があるからこそ僕の意見は正しいんだ!勝ったな!ガハハ!😆
などとふんぞり返ったつもりはなく、論拠としてというよりテーマの関連資料として紹介しています。
当該論文がこの議題に対して仮に有効でなかったとしても、僕の意見に特に変化はありません。
しかし、折角わざわざご参照いただいたので回答させていただきます。
高齢者抑うつ尺度は“自動化された世界”を前提としてはいませんが、
この調査結果は、“自動化された世界”ではどのような精神状態になるのか、という予想の一助になると考えています。
独居生活の高齢者が体験する世界と“自動化された世界”には、他者との対話の必要性や機会が少ないという共通点があるからです。
勿論、前者の場合、金銭面等の問題が主原因で抑うつ傾向を示す可能性もありますので、高齢者抑うつ尺度の調査結果をそのまま“自動化された世界”の精神状態に当てはめられるわけではありません。
ただし、原因に不純物が混じってるから全く意味ねぇや!ってのもデータに対する謙虚さに欠けた態度と言えるのではないでしょうか。
テーマの関連データに乏しい状況であるなら尚のこと、データを大事にしたほうがいいと思いますよ。
・精神的な状態を肉体的な状態と同じと捉えていいのか、という点です
同じと解釈することは可能だと思いますが、その解釈が妥当かどうかは分かりません。
この問題も、世の中にあるデータが乏しいため、どうとでも解釈できてしまう問題かと思います。
例えば、僕は唯物論的立場をとっているので、精神的な状態を肉体的な状態と同じように解釈しています。
人と対話しない状態が続くと、脳神経系で何らかの物質が欠乏し、うつや統合失調症などの精神症状が出てくると。
しかしそれは、僕が「そう思っている」だけで、真実かどうかは分かりません。
同様に、バンドルさんも僕が「そう思っている」内容を否定できるデータ、持ってないですよね。
それが真実かどうかは脳科学の進展によって明らかになるだろうと思ってます。
ちなみに、
飽食の時代に生きる我々が、タピオカミルクティーの写真をインスタグラムに投稿した後、ちょっとだけ飲んで捨てるというのは「娯楽」だと思いますが、
喉が渇いたときに水分補給するのは欠乏欲求を満たす「健康維持」ですよね。
この例示は、同じ「飲む」という行為を比較したときに、
前者は「娯楽」としての「飲む」であり、
後者は「健康維持」としての「飲む」である、
ということを示すのが目的でした。
前者の表現に不純物を混入させたため、「承認欲求」といった脇道的解釈に意識が逸れやすくなってしまいましたね。
まあ、前者の「全体としての行為」は承認欲求が欠乏していたからだと解釈できると思いますよ。
その場合、前者も「娯楽」ではなく「健康維持」ということになりますね。
だとしても僕の意見に何ら変化はありませんが・・・。
この例で示したかったのは飽くまで、「娯楽」と「健康維持」は別物と言える、ということです。
と、ここまで収束的議論に対して距離をとるような展開をしたわけですが、少し拡散的な展開もしてみます。
精神にとってなくてはならないモノとはなんでしょう?
マズロー的解釈をするなら、「欠乏欲求を満たすこと」ってとこじゃないですかね~。
身の回りが安全でなかったり、どこにも属してなかったり、誰にも認められなかったりすると精神が飢えてイカれちゃうんじゃないですか。
まあこれも、マズローさんが正しければ、ですけどね。
僕自身、数年の間どこにも属さなかった経験があるんですが、特に精神イカれなかったのですよ。自覚がないだけかもしれませんが。w
あるいは、どこにも属していなかったが、どこかに属している感覚は存在した、という可能性も否定しきれません。
バンドルさんが僕のトピックで、ミクロ⇔マクロという二項対立を紹介してくださいましたが、この話にも適用できるかもしれません。
人間の普遍的性質というマクロな観点ではマズロー的解釈が当てはまるが、個人というミクロな観点ではあまり当てはまらない。
マズローさんが描いたピラミッドのうち、帰属欲求の層が極端に薄い、あるいは無いという野良人間もいるのかも?