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恥晒しの毒正義 / 2

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KANAME 2019/11/19 (火) 16:37:11

そのままなんの修飾もせずにコピペするとはずいぶん赤裸々なトピックの立て方をしやがる。
気に入ったぞ毒正義。

第一に、戒めとして自らを恥じるって行為自体稀だ。
特にこの手の突っ込みを受けやすい界隈に身を置いている者ならなおさら「恥ずかしくないようにしよう」という意識が働くはずだ。

若さゆえなのか、根がクソ真面目なのかはわからないが、少なくとも自らの恥について基本的に人は語りたがらない。
なぜかって、「恥ずかしい」からだ。
恥ずかしいことは避けなければならない。
そう教わっている。

相手を非難することを目的とした喧嘩において、相手の「恥」を抽出し、自覚させる作業は常套手段だ。
「恥ずかしくしないようにする心掛け」を恥ずかしいものとして取り扱う、これは性格の悪い俺がよく使う喧嘩術だ。
相手は大抵開き直る。
そして次に自らの恥について「どうでもいい」とか「興味がない」とか現実逃避をし始める。
だから俺は喧嘩相手によく嫌われる。
すこぶるウザいからな。

ところが、例外として、自らの恥を最初から自認して受け入れている相手にはこれが通じない。
そんな奴は喧嘩界隈には滅多にいない。

まともな対話相手としてふさわしいかどうか判断する指標として、自らの恥を受け入れる覚悟があるのかどうかという点で俺は区別している。
そんなわけで声をかけさせてもらった。


で、ここから本題に入るわけだけれども
そもそも「恥」とは何か?

毒正義の場合で言うと

嘘や秘密による化粧を自分に施して他人に見られることは恥ずかしい

その理由として挙げているのが

本来の僕とあべこべの状態

というもの。

そこには

他人を騙している

という自責の念が存在している。

他人に良く見られようとすること。
それは「恥」か?
その行為に後ろめたさを感じる理由は、「本来の僕」と呼ばれるものでなければならないという認識があるからだと思うんだけど、違うか?
だとするなら、なぜ「本来の僕」と呼ばれるものでなければならないのか、考えたことあるか?

そんなに気負わなくていいから、まったり進めていこうぜ。

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  • 12
    毒正義 2019/11/19 (火) 20:22:36 >> 2

    >> 2

    親愛なるカナメさんへ

    拝啓、僕は恥ずかしいです。このトピックに記述する事に、とても羞恥を覚えてしまいます。何故ならば、僕は馬鹿なのにも関わらず、僕自身を賢く見せようとしているからです。馬鹿であることを隠す、これはつまり自分を隠すということです。化粧をするということです。つまり、ここに書き込む僕は「自分が作った何か」なのでしょう。それってまさに他者を騙すということですよね。では何故それが恥ずかしく感じるのか。さぁ、自分解剖を始めましょう。

    「何か」への嫉妬

    「何か」はいつも僕より上手くやってしまいます。僕が作った、僕ではない「何か」は、いつも僕が欲しいものを得ます。そんな「何か」を誰よりも間近に見ているからこそ、「何か」に僕は嫉妬してしまうのです。例えば、賢く見せる事によって得ることが出来た名声は、僕のものではなく、「何か」のものなのです。嫉妬してしまいます。劣等感を覚えてしまいます。「何か」に負ける自分が恥ずかしくてたまらないのです。
    ですが、「何か」から僕は幸せを得ようとします。幸せも名声も、元から全て「何か」の所有物ですので、「何か」が居ようと居まいと僕には何もないのですが、「何か」の所有物を僕の所有物だと勘違いをすることで、偽りの幸せを僕は得ようとしているのです。みんなに見られる時は、「何か」を「僕ではない」と突き放す癖に、「何か」が得たものだけは僕がかっさらおうとするのです。僕は都合のいいゴミですね。しかし、そんな僕を僕が見てしまうので、結局僕は、勘違いが出来ないのです。僕を僕は騙せないのです。ただ、全てを持つ「何か」に嫉妬する、何も持たない「僕」がいるだけなのです。つまり、僕には劣等感による羞恥心だけが残ります。結局、僕と「何か」という対立構造からは抜け出せないのです。

    所々、論理的におかしいのかもしれません。とても僕の文章は見苦しいかもしれません。しかし、これが僕です。文章に酔わないとこんなテーマの文章は書けないので、温かい目で見てください。

    敬具