アントニオ猪木vsモハメドアリ・・・これ今やってもたぶん全然ウケない
なぜなら今は総合格闘技があるからね
打撃、寝技、投げ技、格闘技にも色々あるけど、メタ目線での研究が進んだことにより、格闘技を見る人の価値観もメタな方向に広がったってことだろう
ボクサーが最強を名乗ったら「じゃあ総合に出てみなよ」ってなる
小学校の頃「何時何分何曜日?地球が何回まわった日?(超どや顔)」っていうファイティングポーズを同級生の誰かが初めてクラスに輸入してきたとき、前代未聞なそのクソウゼェ技をどう攻略すればいいのか考えを巡らせた経験ってきっとあると思うんだけど、そのままマネするやつとか少しアレンジしてくるやつとかも大勢いたはず
喧嘩も同じような感じだ
分かりやすい例を挙げるなら「根拠は?」みたいな立ち回りがある時を境に爆発的に増えたりしたよな
良くも悪くも喧嘩のメタ研究が進みすぎたんだよ
メタってのは「~を超えた」とか「高次の」って意味だけど、もともとトラディショナルな喧嘩ってのは「俺はお前より優れてる!」みたいな内容だったはずが、いつしか等身大のスケールを超えて主体性を失っちゃったんだろうね
形から入るどころか、予習から入るやつまで現れたりしてるからな
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あと慈善事業するつもりなら俺ごときを古参認定するのはどうかと思うよ
俺が受けてる印象ってのはまさしく逆。
範馬勇次郎vs誰かは今の時代でもウケるだろ。
言うなれば喧嘩界は言葉の地下闘技場のようなもので、必ずしも総合格闘家が勝てるわけではない。
あのバランスのいい山本選手が文字通り手も足も出ずに敗北を喫したように、未曾有の言葉回し蹴りを彼らは知らない。
いや正確には見てもわからない(ヤムチャ視点)可能性が高い。
そもそも今何時何分論法の亜種とも言える中堅層、コンビニで買って食える程度のインスタント喧嘩師の代表格以外ほぼやり合ってるところを見たことがない(時代が被ってない)という実情がある。
喧嘩のメタ研究なるものはある時代を境に完全に止まっており、伝統芸を受け継ぐ者はおろか、伝統芸…言うなれば喧嘩界3000年の歴史に対抗しうる何かを開拓した者もいない。少なくとも俺はまだ見てない。
それはここを作ってから何人ものルーキーと実際喧嘩してみて正直に思ったことだよ。
主体性を失うのは大いに結構。「目的」のひとつに論理性至上主義があると言うのならば、それをこっちが納得するまで言語化してみろって話だが、正確には「その目的すら成就できていない」というのが実態。
つまり「総合格闘技こそ至高ッ!!」と言えるだけの「我儘(わがまま)を押し通す力」の圧倒的欠如。これに尽きる。
そりゃあ烈海王も「キサマ等のいる場所は既に我々が2000年前に通過した場所だッッッ」と言いたくなりますわな。
空手の予習・復習をいくらしたって、菩薩の拳とかを会得しない限りは張り合えん。
とまあここまでボコボコに言われて黙ってるようじゃもはや「喧嘩師」とは呼べませんわな。
これだけかき乱しておきながら「俺ごとき」とかずいぶんなこと言ってくれるね。
そのうちはっきりさせてやっから気長に待っとけ。
・・・せやろか?
今の平均的な新規を見た感じだと、勇次郎と郭海皇の勝負について「シャオリーとかうけるwてかルフィのほうが強くね?」って平気な顔で言いそうだぞ
そして脱初心者する頃にはラッキーマン最強説の支持者に成り果ててるところまで容易に想像できる・・・俺が抱いてる印象はそんな感じ
こういう格闘とかファンタジーとかギャグとかのジャンルを超えたメタ視点からの言及って主体性に欠けるし、主体性に欠けるからロマンも欠けてしまうんだと思う
古参はコックピットに搭乗して戦ってたけど、今の人らはラジコン式なんだよな
みそ汁作るとき、今まで何度もオカンに食わせてもらった味の記憶を頼りに再現するんじゃなくて
コンロに鍋を置くよりもまずは即クックパッド、水はジャスト300cc、豆腐は1/2丁で絹は不可、木綿でなければならない!・・・みたいなw
水が少し少なかったらそれはみそ汁ではなくなってしまうのか?って言いたい
濃い味と薄味どっちが好きかという主体性すら置き去りにして計量カップでジャスト300ccを測りきろうとする、ロマンに欠けたインスタント性の正体って恐らくこういう部分だよ
利便性が高くなったことで文字情報の出し入れ(表現)が画一化されたっていう時代的制約の影響は大きい。
あとは自分の発言に責任持てないみたいな。ラジコン走らせて自爆テロ起こしてワンチャン相手が沈めばそれでいっかって考え方の奴は多い気がするな。
とは言ってもインスタント性を別に否定はせんよ。現に俺はクックパッド論法をよく利用して喧嘩する。
既存の論理体系を応用したほうが省エネで効率的だし、それはそれで三國無双みたいに雑魚を一層するのは楽しい。
もちろんそれじゃ通用しない相手に出くわしたときには純粋な力比べや幻術の掛け合い、重火器持ってくるっていう別の楽しみもある。
弱者が辛うじて対抗できる手段として考案されたのが「晒し」「同調圧力」「無記名投稿」などであってそのほうが「効率いい」から依存しちゃったってだけ。
つまり当事者間の言葉遊びにゲーム性を見出すんじゃなくて、ゲーム外から論理や煽りを何かしらの批判を裏付けるための道具として使うのが主流になったんだ。
喧嘩師ではなく、評論家もどきがいかに手を汚さず相手を批評するか、便乗するか、みたいなシーンが散見される。
だからいざ対峙すると被弾することを極端に恐れる。
要するにこの「恐れ」ってのが昔の時代で言えば「ワクワク」に該当するんだと思うんだけど、主体性に価値を抱かないのはこういう認識の違いに起因してるものだと思うね。