• 1
    法介 2023/09/14 (木) 11:29:13 修正

    唯識』は表層識である前五識と第六意識、そして深層識の第七末那識と第八阿頼耶識からなる八つの識層を説いた法門ですが、このうち第六意識までは初期仏典である『阿含経典』の中で六根六境六識、そして五蘊として詳しく解き明かされております。

    まずはその表層の意識層のお話からはじめてまいります。

    人がモノをモノとして認識する働きは、対象となるモノとそれを認識する主体とがあって成り立ちます。

    〝見る側〟と〝見られる側〟の関係です。

    見る側を、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六根と言い、見られる側を色境・声境・香境・味境・触境・法境の六境と言います。

    <六根と六境>
     眼根 → 色境(姿・形)
     耳根 → 声境(音)
     鼻根 → 香境(匂い)
     舌根 → 味境(味)
     身根 → 触境(感触)
     意根 → 法境(思考)

    こちらのサイトで六識の説明もふまえて大変解りやすく解説せれてますのでご覧ください。

    『禅の視点 - life -』
    https://www.zen-essay.com/entry/rokkon-rokkyou-rokusiki

    この見る側と見られる側の関係は、「対象のあり様」と「認識のあり方」として仏教では因果と縁起で解き明かされております。

    例えば目の前に一つのリンゴがあったとしましょう。

    リンゴはまず種が大地に植えられ、目が出て幹が伸び枝が伸びて実が成ってリンゴとなりました。そこに至るまでには様々な要因が縁として和合し最終的に美味しそうなリンゴが収穫されて今、目の前に存在しています。この時間の流れの中でリンゴがリンゴとして形成されていった経緯を「此縁性縁起」と言います

    因縁和合によってそのモノがそのモノとなり得た過程を因果縁起で捉えた因縁生起という仏教的なモノの見方です。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立していて、独立してそれ自体が存在しているのではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを説いた法理・法門です。

    これは見られる側の因果と縁起で、「対象の有り様」を此縁性縁起として解き明かした縁起の法門です。

  • 2
    法介 2023/09/14 (木) 12:36:53 修正

    このモノのあり様として説かれた此縁性縁起は、実体における真理です。

    わたし達は様々なモノを実体として認識しておりますが、その実体は実際のところ私たちが思っている通りのあり様で存在している訳ではありませんよと、お釈迦さまはモノのあり様の真理を縁起の法門として説かれたのです。

    それはもちろん我々人間についても同じことが言えまして、自分という存在は実は「自分が思っている通りの自分」ではないんですよということです。
    .
    .

    自分は「縁起」によって存在しているんです。
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    自分のことを「自分」と思う気持ちを〝自我(自我意識)〟と言います。その「自我」をもって自分を自分だと思うことをお釈迦さまは否定されました。それを「無我」といいます。第一時説法このお話を聞いた未だ実体思想から抜けきらないでいる声聞衆は、
    .
    .

    「無我って我が無いことなんだ!」
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    .

    と理解しました。物事を「有る無し」で考えるのが実体思想の特徴なんです。

  • 3
    法介 2023/09/14 (木) 19:45:23 修正

    三転法輪の第二時で『般若心経』を理解出来た縁覚はどうかと言いますと、
    .
    .

    「色即是空だから無我だけど、空即是色も大事じゃね?」
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    と考えるわけです。考えることを漢語では「静慮」と言います。静慮とは「心を静かにして考えること」でして〝禅定〟のことを漢訳では静慮とも言います

    考えるという行為は、六根・六境・六識で言うとどれにあてはまるかと言いますと、六識にあたります。

    目という眼根でリンゴという色境を捉え、それを「あ! リンゴだ!」と認識します。この認識が眼識になります。ただ認識するまでにいくつかの工程が存在します。

    例えばリンゴという存在をまだ知らない2歳児の子供が眼根でリンゴを捉えたとしましょう。それが何か未だ知り得ない子供はそれを手に取って確かめます。

    (姿形あるモノ)であるリンゴがあって、それを眼根が捉える()ことで、「何だろう?」と思って()手に取ってみる()。

    その時()の段階で「食べられるモノなのかな?」と思えばかぶりつきます()。かじってみて「おいしい!」と思えばそれが記憶として経験値に加わって「これはおいしいモノ」として脳に記憶されます。(

    この一連の「色・受・想・行・識」といった人が物事を認識する工程を仏教では「五蘊」といいます

    こちらのサイトで図解で大変解りやすく解説なされておられますのでご覧ください。

    ・・・なんだそうだ、般若心経
    https://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya03.html

  • 4
    法介 2023/09/15 (金) 08:11:23

    第二時説法では空を深く理解していく訳ですが第一時説法の声聞の境涯は、『般若心経』が何を説いているのか理解に至りません。

    こんな感じです。(禅宗の勉強会)

    外部サイトのコンテンツ を読み込み中...

    般若経、禅宗はまじめに取り扱っていない(1:11:37)
    全部、無だ、空だ、と書いてあって(1:12:10)
    空で無だと(1:12:14)
    何にもない、何にもない(1:12:17)
    .
    .

    空を「モノのあり様」を説いたものだと思い込んでしまっているのが声聞です。

    般若心経』には「認識のあり方」が説かれていると縁覚は気づきます
    .
    .

     モノのあり様=「色即是空
     認識のあり方=「空即是色
    .
    .

    モノのあり様を表現する言葉が「から・からっぽ・無・無い」といった形容詞です認識のあり方は「空と見る・空にする・無にする」といった動詞になります

    「認識のあり方」は、例えば坂道があったとします。坂道自体は「モノのあり様」なので此縁性縁起で形成された坂道です。しかし坂の上に住んでる人達にとっては「下り坂」です。逆に坂の下に住んでいる人達にとってはその坂道は「登り坂」です。それを見る人の認識の違いによって同じ坂道であっても「下り坂」と「登り坂」といった真逆の存在として認識されます。これを相依性縁起と言います

    詳しくはこちらで紹介しております。

    法介の『ゆゆしき世界』 「空」の理論
    https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/5?page=2

  • 5
    法介 2023/09/15 (金) 08:45:05 修正

    第三時の説法では、更に深い真理を覚っていきます。

    例えばリンゴを食べようとしたところ、リンゴが手から離れて床に落ちてしまいました。それを見て人は引力を認識します。また弓を引いて矢を放つと矢は宙を飛び的に突き刺さります。それを見て人は「飛ぶ」という運動の法則を認識します。

    そかしリンゴが落下したり矢が飛んだりといった現象は実は私たちが「落下した」「飛んでいる」と勝手に思っているだけで、本当のところは「落下もしていない」し「飛んでもいない」んです。

    「えええ! ウソでしょう!」

    「そんなの信じられない!」

    と思うでしょう。しかし龍樹が『中論』の第二章「運動の考察」でそのことを証明しております。

     すでに去ったものは、去ることがない。
     まだ去らないものも、去ることがない。
     さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
     現に去りつつあるものも、また去ることがない

    一見するとあたりまえの事を言っているようですが、実は大変深いところを鋭くついた偈(詩)です。去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」と龍樹は言っております。

    また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス、即ち逆説の真理として主張しております。

    この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法則(運動の法則)〟が、実は自身の概念が造り出す現象に過ぎないということです。

    要するに龍樹は、お釈迦様が空じる対象を〝我(われ)〟として声聞の弟子達に「無我」を説いたのに対し、その空じた〝我〟を縁として起こり得る現象の法理(運動の法則)を逆観で説くことで〝無自性〟即ち、現象(事象)にも本質は無い(不変の独自性はもたない)という真理が『般若経典』の中で説かれている事を読み取ったのです。

    考えてみて下さい。目の前の自身の息子に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねる認知症のおばあちゃんが引力で落ちたリンゴを見ても、そこにあるのは「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかなく、去る行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在しません。

    モノが落下するといった現象は、人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の〝概念〟の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということです。

    興味深いところで、古代ギリシアの自然哲学者のゼノンの「運動のパラドックス(逆説)」の中に「飛ぶ矢のパラドックス」というものがあります。弓で放たれた矢をハイスピードカメラで撮らえたら、矢の一瞬の姿は静止して写ります。矢は一瞬一瞬は静止していますがそれを映写機のように連続して再生して映し出す事で我々人間の目には「飛んでいる矢」として認識されます。

    〝飛ぶ〟という運動は、人間の脳(過去の映像の記憶)と目(一瞬の姿を撮らえる眼力)があたかも映写機のような役割を成して認識される人間独自の認識作用であって、自然界に備わっている働き(真理)ではないということです。

    龍樹が言っている「去る」という行為(運動)もこれと同じことを言っております。

    「すでに去ったものは、去ることがない」

    というフレーズは、例えば花壇の前に立っている男の姿がテレビ画面に映っているとします。しばらくしてその男は花壇の前から去って行きます。カメラは固定されて花壇を映しています。その画面から見た視聴者には去って行った男は認識されません。(「去る」という運動は認識されない)

    「まだ去らないものも、去ることがな」

    同じように、男が花壇の前を去る前の映像を見ていて男が去る前にテレビのスイッチを切ってしまえば、男は「花壇の前に立っていた人」として認識され「去る」という運動は認識されません。

    「すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない」

    男が花壇の前から〝動き出した場面だけ〟を見た視聴者は「去りつつある」姿(動いてる姿)だけを認識している訳で、完全には去っていないので「去る」という行為は認識されません。

    ということを龍樹は言っています。要はゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ事を主張している訳です。(運動の否定)

    飛ぶ矢は、映写機で言えば連続する静止画のフィルムがスクリーンにあるレンズと光源を通過する時だけ映し出される映像です。そうやって映し出された映像では矢は飛んで見えます。この仕組みが人間の五蘊による認識作用です。そこには時間の経緯も組み込まれています。時間も人間の五蘊の働きによって起こる現象(概念)です。我々人間は〝今〟という今一瞬の時を〝現在〟として認識し、去った出来事を〝過去〟として脳に記憶し〝時間〟という時の流れを感じます

    その記憶の貯蔵庫が『唯識』で説かれる〝阿頼耶識〟です。

  • 6
    法介 2023/09/15 (金) 12:34:44 修正

    蔵教の第一時法輪で「モノのあり様」としての空を覚った声聞が、
    通教の第二時法輪で「認識のあり方」としての空を覚って縁覚に昇格し、
    別教の第三時法輪で「概念を空じる」ことを覚って菩薩の境地に至ります。

    それが『解深密経』の無自性相品で説かれている四諦の三転法輪です。

    そして最後に、

    円教の第四時法輪でこれら三乗の教えを集約(開三顕一)して『法華経』が説かれます

    法介のほ~『法華経』--- その①
    https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/6?page=2

    法介のほ~『法華経』--- その②
    https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/12

    法介のほ~『法華経』--- その③
    https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/13