仏道の『阿頼耶識システム』

三転法輪 / 5

6 コメント
views
0 フォロー
5
法介 2023/09/15 (金) 08:45:05 修正

第三時の説法では、更に深い真理を覚っていきます。

例えばリンゴを食べようとしたところ、リンゴが手から離れて床に落ちてしまいました。それを見て人は引力を認識します。また弓を引いて矢を放つと矢は宙を飛び的に突き刺さります。それを見て人は「飛ぶ」という運動の法則を認識します。

そかしリンゴが落下したり矢が飛んだりといった現象は実は私たちが「落下した」「飛んでいる」と勝手に思っているだけで、本当のところは「落下もしていない」し「飛んでもいない」んです。

「えええ! ウソでしょう!」

「そんなの信じられない!」

と思うでしょう。しかし龍樹が『中論』の第二章「運動の考察」でそのことを証明しております。

 すでに去ったものは、去ることがない。
 まだ去らないものも、去ることがない。
 さらに、すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、
 現に去りつつあるものも、また去ることがない

一見するとあたりまえの事を言っているようですが、実は大変深いところを鋭くついた偈(詩)です。去るということは「今ここには既に居ない」という事実が無いと立証されません。しかし既に去っている訳でしてその「ここに居た姿」はもう存在していないので「すでに去ったものは、去ることがない」と龍樹は言っております。

また、その人がまだ去らずにその場に居たとしたら「まだ去らないものも、去ることがない」となって観測者がどの時点の「去る人」を見ても去るという行為がどこにも存在しないことをパラドックス、即ち逆説の真理として主張しております。

この偈が意味するところは、我々があたりまえのように信じ込んでいる〝法則(運動の法則)〟が、実は自身の概念が造り出す現象に過ぎないということです。

要するに龍樹は、お釈迦様が空じる対象を〝我(われ)〟として声聞の弟子達に「無我」を説いたのに対し、その空じた〝我〟を縁として起こり得る現象の法理(運動の法則)を逆観で説くことで〝無自性〟即ち、現象(事象)にも本質は無い(不変の独自性はもたない)という真理が『般若経典』の中で説かれている事を読み取ったのです。

考えてみて下さい。目の前の自身の息子に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねる認知症のおばあちゃんが引力で落ちたリンゴを見ても、そこにあるのは「落ちたリンゴ」ではなく「地面においてあるリンゴ」でしかなく、去る行為が存在し得ないと龍樹が言っているように「引力の法則」も実は存在しません。

モノが落下するといった現象は、人間の脳が持つ〝記憶〟という能力から起こる人間の〝概念〟の中で起こる出来事(縁起)であって、そのような高度な脳を持たない生物においては引力は生じないということです。

興味深いところで、古代ギリシアの自然哲学者のゼノンの「運動のパラドックス(逆説)」の中に「飛ぶ矢のパラドックス」というものがあります。弓で放たれた矢をハイスピードカメラで撮らえたら、矢の一瞬の姿は静止して写ります。矢は一瞬一瞬は静止していますがそれを映写機のように連続して再生して映し出す事で我々人間の目には「飛んでいる矢」として認識されます。

〝飛ぶ〟という運動は、人間の脳(過去の映像の記憶)と目(一瞬の姿を撮らえる眼力)があたかも映写機のような役割を成して認識される人間独自の認識作用であって、自然界に備わっている働き(真理)ではないということです。

龍樹が言っている「去る」という行為(運動)もこれと同じことを言っております。

「すでに去ったものは、去ることがない」

というフレーズは、例えば花壇の前に立っている男の姿がテレビ画面に映っているとします。しばらくしてその男は花壇の前から去って行きます。カメラは固定されて花壇を映しています。その画面から見た視聴者には去って行った男は認識されません。(「去る」という運動は認識されない)

「まだ去らないものも、去ることがな」

同じように、男が花壇の前を去る前の映像を見ていて男が去る前にテレビのスイッチを切ってしまえば、男は「花壇の前に立っていた人」として認識され「去る」という運動は認識されません。

「すでに去ったこととまだ去らないことを離れて、現に去りつつあるものも、また去ることがない」

男が花壇の前から〝動き出した場面だけ〟を見た視聴者は「去りつつある」姿(動いてる姿)だけを認識している訳で、完全には去っていないので「去る」という行為は認識されません。

ということを龍樹は言っています。要はゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と同じ事を主張している訳です。(運動の否定)

飛ぶ矢は、映写機で言えば連続する静止画のフィルムがスクリーンにあるレンズと光源を通過する時だけ映し出される映像です。そうやって映し出された映像では矢は飛んで見えます。この仕組みが人間の五蘊による認識作用です。そこには時間の経緯も組み込まれています。時間も人間の五蘊の働きによって起こる現象(概念)です。我々人間は〝今〟という今一瞬の時を〝現在〟として認識し、去った出来事を〝過去〟として脳に記憶し〝時間〟という時の流れを感じます

その記憶の貯蔵庫が『唯識』で説かれる〝阿頼耶識〟です。

通報 ...