【パーリ仏典では】
『小空経』(Cūḷasuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第121経に収録されています。この経典では、比丘(僧侶)が心を落ち着け、段階的に空の境地を体験していく瞑想のプロセスが説明されています。
『大空経』(Mahāsuññata Sutta)
パーリ仏典の『中部』(Majjhima Nikāya, 中部経典)の第122経に収録されています。この経典では、僧侶たちに対して「空」を中心とした生活態度と瞑想の実践を説いています。特に「多くの人々と交わることを避け、簡素であるべき」という教えが強調されています。
【漢訳経典では】
『小空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第190経「小空経」として収録されています。内容は、パーリ原典とほぼ一致しており、「空性」を瞑想を通じて段階的に理解する教えが中心です。
『大空経』
『中阿含経』(T26, 中阿含)第191経「大空経」として収録されています。こちらもパーリ原典に基づき、僧侶の実践と「空性」に基づいた生き方を強調しています。
次に『大空経』を見てみましょう。
パーリ仏典では、
MN.122 MahAsuJJata-s.(空大経 vol.Ⅲp.109、南伝 11 下 p.127、『片山・中部』5 p.355)
あるとき世尊は釈迦国のカピラヴァットゥのニグローダ樹園に住された。そのとき世尊は早朝、カピラヴァットゥ城内に行乞して食事の後、昼住のために釈迦族 のカーラケーマカ精舎に赴かれた。このとき精舎には多くの臥坐具が用意されていた。夕方、世尊は独坐より起って釈迦族のガターヤ精舎に赴かれた。そのときアーナンダは多数の比丘らと共にガターヤ精舎の中で衣を縫っていた。世尊はアーナンダに「カーラケーマカ精舎には多数の比丘がいるのか」と尋ねられた。アーナンダは「衣を作っています。その通りです」と答えた。世尊は「人々の集まりや群れを喜ぶ比丘は輝かない。しかし1人で群れより遠離して住する比丘は出離の安楽や正覚の安楽を得やすい」と遠離独住の功徳を述べられ、四空観(内空、外空、内外空、不動空)の修習、生活住としての空住の意義、空住における観察(無益と有益なる談論、尋、五妙欲、五取蘊)、師弟の聖なる談論(少欲論、知足論、出離論など)、師弟の煩労、師弟の道を説かれた。アーナンダは満足して世尊の所説を歓喜した。
漢訳経典では、
『中阿含』191「大空経」(大正 01 p.738 上、国訳 06 p.188)
あるとき世尊は釈迦国の迦維羅衛の尼拘類園に住された。そのとき世尊は迦毘羅衛に乞食して食事の後、加羅差摩釈精舎に赴かれた。このときこの精舎には多くの床座があり、多くの比丘らが止住していた。世尊は加羅差摩釈精舎を出て加羅釈精舎に赴かれた。そこでは阿難が多数の比丘らとともに作衣をしていた。世尊は阿難に「比丘は喧しい集団を離れて独住遠離の処を求めれば心解脱を得る」と語られ、内空・外空・内外空・不移動、経行・坐定、三悪不善念(欲念・恚念・害念)と三善念(無欲念・無恚念・無害念)、非聖論(王論・賊論等)と聖論(施論・戒論・定論・慧論・解脱論・解脱知見論等)、五欲、五盛陰(色・覚・想・行・識)、不放逸の教えを説かれた。さらに世尊は阿難の要請に応えて、煩師・煩弟子・煩梵行について詳説された。阿難と比丘らは世尊の所説を歓喜奉行した。
と説かれております。
ここでは、四空観(内空、外空、内外空、不動空)の修習と、非聖論と聖論と五蘊の教えが示されております。
「非聖論と聖論」ってなんでしょう。
ChatGPTで次のように聞いてみました。
『大空経』の非聖論(王論・賊論等)と聖論(施論・戒論・定論・慧論・解脱論・解脱知見論等)についてわかりやすく説明してください。
すると、次のような答が返ってきました。
『大空経』(Mahāsūtra)における非聖論と聖論の区別は、仏教の教義体系を深く理解するための重要なテーマです。以下にそれぞれを分かりやすく説明します。
非聖論(王論・賊論など)
非聖論は、世俗的な話題や倫理、社会秩序に関連する議論を指します。これらは仏教の最終目標である悟りや解脱に直接つながるものではありませんが、世俗の安定や調和のために重要な考察を提供します。
1. 王論
王とは統治者を指し、王論では理想的な統治者像や、国家運営のあり方について説かれます。善い王は仏教の徳目に従い、慈悲と正義によって民を治めるべきとされます。
2. 賊論
賊論では社会的な不正や悪行が取り上げられます。これには、なぜ犯罪や不正が発生するのか、またそれを防ぐにはどうすればよいかが述べられています。社会の秩序を保つためには、善行を奨励し悪行を抑える仕組みが必要とされます。
非聖論の目的
聖論(施論・戒論・定論・慧論・解脱論・解脱知見論など)
聖論は仏教の修行や悟りのための教えに関する議論で、解脱に至る道筋を詳細に説明します。これらは仏教の核心であり、仏陀の教えの根幹を成しています。
1. 施論(せろん)
施とは布施のことで、他者に与える行為の意義を説きます。物質的な施しだけでなく、恐れや迷いを取り除く精神的な布施も含まれます。
2. 戒論(かいろん)
戒とは倫理的な規範です。仏教徒が守るべき戒律について説かれています。例えば、五戒(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒)などが含まれます。
3. 定論(じょうろん)
定とは瞑想による精神集中を指します。心を落ち着け、妄念を排除することで智慧を得る準備をする方法について述べられています。
4. 慧論(えろん)
慧とは智慧のことです。仏教では、物事の真理を理解する智慧を養うことが重要であり、無明(無知)を克服するために必要とされます。
5. 解脱論(げだつろん)
解脱は煩悩からの解放を意味します。生死を繰り返す輪廻から抜け出す方法を解説しています。
6. 解脱知見論(げだつちけんろん)
解脱の境地に到達し、それを知覚する段階を説きます。単に解脱するだけでなく、その体験を深く認識し、他者に伝える智慧も重視されます。
聖論の目的
まとめ
両者は独立したものではなく、相互に関連しています。非聖論によって社会が安定すれば、修行の環境が整い、聖論が実践されやすくなるという補完的な関係があります。
非聖論が、世俗的な倫理や社会秩序に関する議論。
聖論が、仏教の修行と悟りに関する教え。
ということのようです。
要約しますと、『大空経』では、
四空観(内空、外空、内外空、不動空)を修習し、
五蘊の教えと世俗と仏教について議論しよ、と説かれているようです。
この内容を以て龍樹が『小空経』と『大空経』で説かれている二つの「空」を、次のようにひも解かれたようにわたしには思えます。
『小空経』で説く空は世俗の真理。(此縁性縁起)---(世俗諦)
『大空経』で説く空は仏教の真理。(析空・体空・法空・非空)---(勝義諦)
※ 勝義諦(しょうぎたい)とは、仏教において、言葉を超え、世俗・世間の判断を超えた究極的な最高の真理のこと。仏教の目ざす悟り、すなわち涅槃を指す。
なぜそう思うのかを今から詳しくお話して参ります。
まず、天台の教判では、仏教の教えは三蔵教・通教・別教・円教といった四教に大きく区分されております。
天台智顗の五時八教は間違いだったのではないですか?
と言われる方が居られましたら、
こちらのトピックに目を通されてくださいな。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11279737816
ここ知恵袋では、いい加減な学者さんの論説を根拠に
でたらめな事を言いふらす不届き者が度々現れます。
こういう事もありました。
何を勘違いされたのか
こういう珍事も過去に御座いました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14279427989
昭和を代表する仏教学界の先生方の仏教観は、
昨今の学会に於いて
色々とその間違いが指摘されております。
そのような古い昭和の仏教観を本で学んでおられる方が、世の中には沢山おられます。
今はネットの時代です。
学会の論文も調べれば色々と出てきます。
これまでにわたしが目を通して参考なった論文を
こちらにリンクアドを残しております。
https://zawazawa.jp/bison/topic/4
仏教における重要概念である「無我」の解釈も、昔と今とでは随分と変わってきております。
間違いだらけの仏教の常識
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/16?page=2
仏教学の先生方は、仏教を学術研究なされている方々です。
しかし、仏教は学術として説かれたものではありません。
信仰として説かれた崇高なる教えです。
それを研究されるのは甚だ結構な事では御座いましょう。
わたしも大変参考にさせて頂いております。
しかし、そういった学者さん達が紹介されている書籍の中には、間違った法理を論じておられるケースも度々目に付きます。
そもそも仏教とは、信仰を説く教えです。
信仰の中で信心を以て教えを覚っていくのが仏道の世界です。
具体的には、菩薩の52位の階位を一段一段のぼり詰めて、最終的に仏が覚り得た究極の法(法理)を覚るに至ります。
仏教の教えは、この菩薩の52位の51位にあたる「等覚の菩薩」によって説かれた教えも沢山御座います。
等覚の菩薩とは、仏と同等の覚りを得た最上位の菩薩の事をいいます。この菩薩は仏と同じ32相を備えていると経典には記されております。
仏教の経典はそういった仏・菩薩達が説き残された崇高なる教えです。その仏が説かれた教えを信じるか否かといった信仰で成り立つ世界です。人間の世界観を遥かに超越した仏の世界観を説く教えです。