『成唯識論』に、
此の意は四煩悩の等きと相応す。是れ染法なるが故に、聖道を障侭し自心を隠蔽す。説いて有覆と名づく。善不善に非ず、故に無記と名づく。
とありまして、末那識も本来は、阿頼耶識と同じように無記なのですが、その無記が煩悩に覆われてしまっているので末那識は、有覆無記となります。
四煩悩とは、我癬、我見、我愛、我慢のことで、これらの煩悩が相応して起こると、聖道である無漏の智慧を覆い隠してしまいます。この煩悩が無くなった末那識の状態のことを「無我」といいます。
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