世親が顕した『唯識三十頌』を護法が注釈し、
それを中国の玄奘が漢訳した唯識の論典が『成唯識論』である。
我々世間の凡夫は、その「依他性」に我執と法執というフィルターがかぶさってくる訳です。
同じ「所変の相分・見分」なのですが、凡夫の場合、所変が所執になってしまうのです。
我執と法執に覆われてしまうからです。
この護法の解説文って、何を言っているのかお解かりでしょうか。
「有る無し」で相分・見分を説いているのではなく、
「縁起」で相分・見分を説いているのです。
相分・見分は、依他起でもあり遍計所執でもあるといっているのです。
縁に依りて変化するものであると。
「有る」と見るを常見、「無し」と見るを断見。
お釈迦さまはこの二つのモノの見方を外道の見解としてしりぞけました。
この外道の見解は、「有る無し」でのモノの見方で客観的なモノの見方なんですね。
「有る無し」でのモノの見方=客観認識
仏道に身をおいていない人達は、概ねこの外道というモノの見方をします。
なぜなら、人は〝客観〟の世界の中で生活しているからです。
仏門に入ってもなお、この客観の世界観から離れなれない修行者の境涯を仏教では声聞と言います。
この客観によって立ち上がる世界観を仮観といい、我々凡夫の世界観がこれにあたります。
そしてこの〝観〟を造り出す心を〝性分〟と言います。
凡夫の世界観(仮観)は、我執と法執に覆われた末那識によって形成されます。
その濁った凡夫の末那識の性分を「遍計所執性」といいます。
私達人間が見ている世界は、客観的に実在している対象です。
それは自身の〝客観〟という認識で見ている世界です。
しかし、世界は私達が認識している世界だけが
世界の全てではありません。
あなたが住んでいる地球の裏側の世界を、
あなたは認識出来ていますか?
あなたの認識から離れたところにある世界、それも世界です。
例えば人類が生息していなかった時代にあっても世界やモノは客観的に存在しております。
〝客観〟というのは人間の認識に限った言葉ではありません。
人間の「主観と客観」という認識における客観と、存在の有無を言い表す客観の二つの意味がこの客観という言葉には含まれます。
哲学の世界では、この二つの客観を「主観的実在」と「客観的実在」という言葉で使い分けております。
唯識における二取と二分の混同も、実はこの二種の客観の混同から生じております。その混同を正していったのが世親・護法・玄奘等が展開していった有相唯識になります。
『唯識三十頌』の第一頌の「彼依識所変 此能変唯三」の文句を真諦が、
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり
と訳していたところを玄奘は、
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
とまず、所取と能取を分けるところから始めている。
所変に依って識が起きると言っているんです。
所取である客体が変じる事を所変と言います。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
まず能取とは別に所取があるという設定を玄奘は立てております。
唯識をあるのは唯(ただ)自身の心(識)のみと言い、独我論や独在論と勘違いされている方が沢山おられます。
しかし、唯識で言っていのはそういった独我論や独在論ではなく、一人一人に各々の世界があると言っているのです。
阿頼耶識は、そういった一人一人の個別の世界が分別されることなく一つの蔵に全て収まっている訳です。
ましてこころ(識)というものは、人間だけとは限りません。
阿頼耶識では色別が生じませんので人だろうが犬だろうが豚だろうがカマキリだろうが、分別されることなくあらゆる心がそこには収まっていきます。
そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
『成唯識論』第三講 へ続く
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同じ「所変の相分・見分」なのですが、凡夫の場合、所変が所執になってしまうのです。
我執と法執に覆われてしまうからです。
この護法の解説文って、何を言っているのかお解かりでしょうか。
「有る無し」で相分・見分を説いているのではなく、
「縁起」で相分・見分を説いているのです。
相分・見分は、依他起でもあり遍計所執でもあるといっているのです。
縁に依りて変化するものであると。
「有る」と見るを常見、「無し」と見るを断見。
お釈迦さまはこの二つのモノの見方を外道の見解としてしりぞけました。
この外道の見解は、「有る無し」でのモノの見方で客観的なモノの見方なんですね。
「有る無し」でのモノの見方=客観認識
仏道に身をおいていない人達は、概ねこの外道というモノの見方をします。
なぜなら、人は〝客観〟の世界の中で生活しているからです。
仏門に入ってもなお、この客観の世界観から離れなれない修行者の境涯を仏教では声聞と言います。
この客観によって立ち上がる世界観を仮観といい、我々凡夫の世界観がこれにあたります。
そしてこの〝観〟を造り出す心を〝性分〟と言います。
凡夫の世界観(仮観)は、我執と法執に覆われた末那識によって形成されます。
その濁った凡夫の末那識の性分を「遍計所執性」といいます。
私達人間が見ている世界は、客観的に実在している対象です。
それは自身の〝客観〟という認識で見ている世界です。
しかし、世界は私達が認識している世界だけが
世界の全てではありません。
あなたが住んでいる地球の裏側の世界を、
あなたは認識出来ていますか?
あなたの認識から離れたところにある世界、それも世界です。
例えば人類が生息していなかった時代にあっても世界やモノは客観的に存在しております。
〝客観〟というのは人間の認識に限った言葉ではありません。
人間の「主観と客観」という認識における客観と、存在の有無を言い表す客観の二つの意味がこの客観という言葉には含まれます。
哲学の世界では、この二つの客観を「主観的実在」と「客観的実在」という言葉で使い分けております。
唯識における二取と二分の混同も、実はこの二種の客観の混同から生じております。その混同を正していったのが世親・護法・玄奘等が展開していった有相唯識になります。
『唯識三十頌』の第一頌の「彼依識所変 此能変唯三」の文句を真諦が、
彼れは識所変に依る 此れが能変は唯三のみなり
と訳していたところを玄奘は、
彼れは識が所変に依る。此れが能変は唯三つのみなり。
とまず、所取と能取を分けるところから始めている。
所変に依って識が起きると言っているんです。
所取である客体が変じる事を所変と言います。
所変・能変とは、
能変=変化せしめるもの
所変=変化せしめられたもの
まず能取とは別に所取があるという設定を玄奘は立てております。
唯識をあるのは唯(ただ)自身の心(識)のみと言い、独我論や独在論と勘違いされている方が沢山おられます。
しかし、唯識で言っていのはそういった独我論や独在論ではなく、一人一人に各々の世界があると言っているのです。
阿頼耶識は、そういった一人一人の個別の世界が分別されることなく一つの蔵に全て収まっている訳です。
ましてこころ(識)というものは、人間だけとは限りません。
阿頼耶識では色別が生じませんので人だろうが犬だろうが豚だろうがカマキリだろうが、分別されることなくあらゆる心がそこには収まっていきます。
そういう無分別の境地にある人が読み取る唯識と、未だ分別の境地にある人が読み取る唯識とでは、同じ唯識でも異った唯識となります。
それが無著や安慧等が説く唯識と、世親や護法等が説く唯識との違いとなって顕れてきます。
経典や論書、注釈書は、頭が良い人が正しく理解出来るものではありません。
賢い学者さん達が、どれだけ集まって解読しても、未だに仏教の教えを正しくひも解けないでいる姿を見ればそれはお分かりいただけるかと思います。
経典や論書、注釈書は、境涯で読み取っていくものなんです。
境涯ってわかります?
仏教ではこの境涯が、声聞・縁覚・菩薩・仏といった四段階に分かれて示されております。
学者さんは、この四つの境涯で言うと一番下の「声聞」という境涯にあたります。
声聞という境涯は、仏門に入っても尚、実体思想から抜けきらないでいる修行者達です。
実体思想とは、言い方を変えたら客観思考なんですね。
「有る無し」でしか物事を見れていない人達です。
見分があるとか相分はないだとか、
自我があるとか自我がないだとか、
石に仏性はありますかだとか、
ローソクの火を消してこいだとか、(消す=炎が無い状態)
そんな事ばかり言っている人達は概ねこの声聞という仏教初心者の境涯にあてはまります。
そういう境涯で唯識を読んでも、
世界は存在しないんだ!
自分も実際には存在していないんだ!
となります。(無相唯識)
仏教で言う境涯とは、どれだけ仏の心に近づいているかという修行者のこころの状態を言い表す言葉です。
その人がどれだけ仏と向き合い、どれだけ仏の心を観じ取るに至ったかという修得のバロメーターが声聞・縁覚・菩薩といった三乗の境涯となって顕れます。
世親や護法や玄奘などは菩薩の境涯で唯識を語っておられます。
そこで語られる唯識は、「有る無し」ではないんです。
因と縁と果によって語られる三元論で語られる三性説です。
『成唯識論』第三講 へ続く