中学社会の勉強部屋

歴史 奈良時代の土地制度について

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だんだん、奈良時代の土地制度がだんだんと変化せざるを得ない状況になったことを説明します。

奈良時代の農業は、鉄製の農具も各地で使用するようになり、稲の収穫量が増えました。
租(そ)という税は、収穫量の3%ですから、収穫量が増えれば、人々の生活も楽になるはずです。
ところが、稲の収穫量が増え、生活も楽になってくれば、人口も増えてしまいます。
また、人々の生活が楽という割には、厳しい税制(労役、兵役、田地にかかる税)だったため、それほど生活が改善されたわけではありませんでした。

行き詰る班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
一番の問題は、子どもが生まれ、6歳になったら与える口分田だったのです。人口が増えるにつれ、分け与えていた口分田が不足してしまったのです。これが本当の不測の事態。そこで、朝廷は、新たな方法を考え出したのです。

三世一身法(さんぜいっしんのほう 723年)
 この法をまず、実施してみたのです。それは、新たに開墾した場合には、本人・子・孫の三世代の私有を認める。
班田収授法では、その人が死ぬと口分田を国に返す必要がありました。もし、開墾したら、三世代の私有を認めるというのです。一説には、曽孫まで私有を認めたというのもあります。どうですか、朝廷も太っ腹ですね。でも、三世代で土地を国に返さなければいけないため、労働意欲が減ってしまいます。労働意欲も減り、効果も上がりませんでした。そこで、出されたのが、

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう 743年)
 この法なのです。新しく開墾した土地(墾田 こんでん といいます)は、口分田と同様に租(そ)を負担する必要がありましたが、私有が認められたのです。そして、子孫に伝えたり、売ったりしてもよいということになりました。

つぎのように続日本紀(しょくにほんぎ)に次のように説明されています。

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743年5月27日 次のような詔(みことのり)がだされました。

聞くところでは、723年の規定では、墾田(こんでん)は期限が終われば、
ほかの土地と同様に国におさめられることになっています。しかし、このために
農民は意欲を失って、せっかく、大変な思いをして開墾(かいこん)をしても、
また、開墾(かいこん)をした土地が荒れてしまいます。
今後は、私有することを認めて、期限を設けることなく永久に国におさめなくてもよい。
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この墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)ができて、喜んだのは、貴族や東大寺などの寺院、そして、郡司(ぐんじ)たち。近くの農民を使い、開墾を促進、墾田を買い取るなど、積極的に私有地を広げはじめたのです。

この私有地を管理するための事務所や倉庫のことを「所(しょうしょ)」と呼ばれていたので、この私有地のことを、「荘園(しょうえん)」と呼ばれるようになったのです。

では、大化の改新以降の公地・公民という国家が直接支配する制度はどうなっていったのでしょうか。
私有地である「荘園」が広がり、だんだんと公地・公民の制度は崩れていってしまったのです。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2022/02/21 (月) 07:56:24
最終更新: 2022/02/21 (月) 08:19:39
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