大宝律令(たいほうりつりょう)
~ この大宝律令は、日本初の刑法、行政法、民法の三つが備わった法律です。 ~
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に完成しました。
文武天皇(もんむてんのう)により施行されました。
令(りょう)が施行(しこう)されたのが、701年。
律(りつ)が施行(しこう)されたのが、702年のことです。
この法律は全国を統一して支配するために作られました。
この大宝律令(たいほうりつりょう)は、当時の中国である唐(とう)の律令を参考に作られたのです。
この律(りつ)は現在の刑法にあたり、令(りょう)は、行政法にあたります。
そして、この律令(りつりょう)に基づいて政治を行う国家を律令国家といいます。
もう少しこの大宝律令について詳しく書くと…
律(りつ)が6巻、令(りょう)が11巻の合計17巻にまとめらた法律です。
ただ、その文献はなく、どの教科書にもその内容は載っていません。
それは、不正確な内容を載せるわけにはいかないからです。
この大宝律令(たいほうりつりょう)、さきほども書いたとおり、全国統一を目指していました。
つまり、中央集権国家を作りたかったのです。朝廷を中心とした国を作りたかったわけです。
当時の日本には、多くの豪族たちが縄張りを持っていましたから。
それをまとめあげようってことだったのです。
しかも、お隣の唐(とう)や新羅(しらぎ)から攻め込まれたらどうしようという不安材料もあったのです。
内政をきちんとして、外敵から日本をまもろう、そのためには法律が必要だ!ってことになったわけです。
681年のこと、天武天皇(てんむてんのう)が、律令を制定しようじゃないかと発起人になったわけです。
ホントウは、そのもう少し前、天智天皇(てんじてんのう)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が制定した近江令(おうみりょう)が日本初の令とされています。その後、持統天皇(じとうてんのう)の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)も発布されましたが、律の部分はなく、中国の令のコピーだったので、日本にそぐわないという欠点があったのです。
そして、大宝律令を作った人たちは、刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比等(ふじわらのふひと)。
ちなみにこの藤原不比等(ふじわらのふひと)は、のちの養老律令(ようろうりつりょう)を編纂しました。
大宝律令の不備を改定した大宝律令改訂版がこの養老律令(ようろうりつりょう)だったのです。
大宝律令を作るにあたって、刑部親王(おさかべしんのう)が総監督を務め、藤原不比等(ふじわらのふひと)が監修リーダー、そして、唐出身者の官僚、渡来人なども含まれ、19人の構成だったそうです。
ところで大宝律令自体、文献が残っていないので、さまざまな文献を参考にすると
律:五刑八逆(ごけいはちぎゃく)というのがあります。
五刑の方は…
笞刑(ちけい)、杖刑(じょうけい)、徒刑(ずけい)、流刑(るけい)、死刑
この5つ。
笞刑(ちけい):細い棒で打つ刑。
杖刑(じょうけい):太い棒で打つ刑。
徒刑(ずけい):懲役刑で最長3年だそうです。
流刑(るけい):近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)と3パターンある島流し。
死刑(しけい):絞首刑 または 斬首刑(ざんしゅけい)
このころから、貴族の人たち、お金を払ってこの五刑が間逃れることもありました。
八逆の方は…
謀反(むへん)
謀大逆(むだいぎゃく)
謀叛(むへん)
悪逆(あくぎゃく)
不道(ふどう)
大不敬(だいふけい)
不孝(ふきょう)
不義(ふぎ)
の8つ。これらの重大犯罪を犯した場合は、貴族たちは死刑になるケースが多かったそうです。
当時の日本は、天皇が政治をつかさどり、貴族や皇族が政治を行いました。
とくに近畿地方の豪族たちは、天皇から高い地位をあたえられ貴族となったひとたちが中心となって
政治運営をしていたようです。
710年(和銅3年)、奈良盆地北部に唐の都、長安(西安:しーあん)にならった律令国家の新しい都である平城京が建設されたのです。
奈良に都が置かれ、平安京(へいあんきょう)に遷都(せんと)するまでのの80年あまりを奈良時代といっています。
今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。
次回は、「平城京」についてです。
今回は、政府の仕組み(中央と地方)、税制については、省いています。
法律自体のことについて触れました。