中学社会の勉強部屋

歴史 律令国家をめざして

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朝鮮半島の出来事
 朝鮮半島では、百済(くだら)や高句麗(こうくり)が新羅(しらぎ)と唐(とう)により滅ぼされました。
じつは、百済(くだら)が唐(とう)と新羅(しらぎ)に滅ぼされたとき、日本に助けを求めたのです。それを受けて日本は2万7千人の大軍(百済再興(さいこう)軍)を送りましたが敗れてしまいました。これを白村江(はくすきのえ)の戦い(663)といいます。その後、新羅(しらぎ)は、唐(とう)とも戦って、朝鮮半島は、新羅(しらぎ)によって統一されていきました。

百済(くだら)は、660年に滅亡。
唐(とう)は、648年にはじまり、907年に滅亡。
新羅(しらぎ)は、676年に朝鮮半島を統一し、935年まで続きました。

日本では、白村江(はくそんこう)の戦いののち、海防のために九州北部に防人(さきもり)がおかれたのです。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、西日本の各地に山城(やましろ)が築かれ、唐(とう)や新羅(しらぎ)から攻められることを心配し、防衛を磐石にしていたのです。朝鮮式の山城(やまじろ)、大野城(おおのじょう)も福岡県の水城(みずき)の近くに建設されたのでした。そのほか、九州の博多、四国をはじめ、西日本の守りが固められたのでした。よほど、白村江の戦いでの敗北が堪えたらしく、敵が博多に上陸することを恐れていたのでしょう。

都の変遷

広い平野と水陸の交通の便を求めて北上していったのです。
以下に都は移り変わりました。

645年 難波宮(なにわのみや):孝徳天皇が難波に遷都した。
667年 大津宮(おおつのみや):天智天皇(てんじてんのう)が即位した都。壬申の乱で敗れるまでの間、ここが都。
694年 藤原京(ふじわらきょう):日本史上初の条坊制を布した本格的唐風都城(平城京に遷都されるまでの日本の首都)
710年 平城京(へいじょうきょう):奈良時代の日本の首都。唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。
740年 恭仁京(くにきょう):平城京から遷都された都。
742年 紫香楽宮(しがらきのみや):740年、藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京に移り、742年に離宮を造営。
784年 長岡京(ながおかきょう):784年11月11日に平城京から遷都され、794年10月22日平安京に遷都するまで続いた。
794年 平安京(へいあんきょう):794年から1869年までの日本の首都。桓武天皇により選ばれた土地。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)⇒天智天皇

天智天皇となったのが668年のこと。天智天皇は、はじめて全国の戸籍をつくり、政治改革に乗り出しました。

壬申の乱(じんしんのらん)672年

 672年に起きた天智天皇没後の後継者争いで、即位したのが天武天皇。天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)が対立したのです。結局、大海人皇子(おおあまのおうじ)が勝利し、天武天皇となりました。ちなみに負けた大友皇子(おおとものおうじ)は、自殺してしまいます。(割腹自殺)ここで有名な話は、大友皇子(おおとものおうじ)が弘文天皇として即位したかどうかということです。さまざまな文献に即位したことが書かれており、平安時代には、大友皇子が即位したと信じられていたようです。

 ちなみに天智天皇の死因は病死で、唐が関与した暗殺や九州の倭国系の刺客による攻撃、はては、靴だけを残して姿を消したというわさが流れたのは、あくまでもうわさだったのでしょう。

 天武天皇は…

・天皇の地位を高め、
・都を飛鳥に遷都し、
・律令や歴史書の編纂(へんさん)
を命じました。
そして、富本銭(ふほんせん)の使用もこのころからでした。この富本銭(ふほんせん)は、1999年に大量に見つかり、天武天皇の頃の貨幣で、日本最古の銅製の貨幣といわれています。

天武天皇の没後は、その皇后が持統天皇(じとうてんのう)として即位しました。
持統天皇(じとうてんのう)は、694年、藤原京に遷都して律令国家の基盤を整えるべく、律令制度の礎を築いたのです。
中国の都にならって、道路によってごばんの目のように区画された藤原京を作ったのです。

日本」という国号が定められたのも、この頃といわれています。

万葉集に…

大君(おおきみ)は神(かみ)にしませば
 水鳥(みずとり)のすだく水沼(みぬま)を都(みやこ)となしつ

意味:天皇は神でいらっしゃるので、水鳥が多く集まる沼を都としました。

本来、天武天皇や持統天皇をたたえた歌とされていますが、作者が不明で、誰についてうたったものなのか確定できないため、飛鳥に宮を築いた天皇たちを讃えた句であるという解釈が一般的になっています。

ここで律令国家までのあゆみをまとめてみると…

 聖徳太子の死後、蘇我氏の政治となり大化の改新(645)を皮切りにさまざまなことが起きた約50年間だったのです。
大化の改新のあとすぐに東アジアでは、どのようなことが起きたかというと

唐が618年に成立したのに百済が660年に滅亡し、新羅が勢力を強大にし、朝鮮半島を統一したのが、676年のこと。その後、渤海(ぼっかい)が698年に成立しました。

 日本では、まだ、この頃は、日本という国号はありませんでしたが、日本では、白村江の戦いで2万7千人の兵を送ったもの大敗し、逆に攻めこめられるのではという不安から、海の防衛につとめたのです。それが、防人であったり、水城(みずき)であったり山城(やまじろ)であったり。こういったものが海の防衛施設として建設され、実際に海防にあたったわけです。

 そうこうしている間に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、天智天皇(てんじてんのう)として即位し、藤原京に遷都したのです。そこが、日本の首都となりました。そして、戸籍をつくることに専念するとともに、さまざまな政治改革を手がけるのです。

 天智天皇が健康を崩し亡くなると、後継者争いとして実の息子である大友皇子(おおとものおうじ)と実の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)が対立し、結局、叔父さんのである大海人皇子が後継者として、天武天皇に即位します。大友皇子(おおとものおうじ)は、割腹自殺してしまいますが、お父さんである天智天皇は、実の息子に継がせたかったようでした。

 そして、天武天皇(てんむてんのう)は、律令を整え、歴史書の編纂を明示、富本銭の使用も開始しました。この富本銭は、日本最古の銅製の貨幣であるといわれています。

 天武天皇(てんむてんのう)の死後は、皇后が持統天皇として即位し、律令制度を実施する準備を整え、本格的な都である藤原京を作り、日本の首都となったのです。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2021/09/08 (水) 02:01:26
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TakeTea_44 2021/09/08 (水) 02:02:26

次回は、大宝律令についてです。