中学社会の勉強部屋

歴史 「五畿七道(奈良時代の行政区分)」について

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奈良時代は…
 日本は、いまでこそ経済大国になりましたが、その頃、小国でしたので、中国のやり方を真似していました。
大宝律令を作ったお話は、以前、書きました。簡単にここで復習をしておくと、

律(りつ)は、刑罰のきまり
令(りょう)は、政治を行ううえでのきまり

その二つを合わせて律令(りつりょう)といいました。そして、その律令にもとづいて政治を行う国家のことを

律令国家

といいました。この律令国家を運営していたのは、

天皇と、近畿地方の有力豪族(この人たちは天皇によって高い地位である貴族となったんです)。

つまり、当時、中央集権国家を作り上げようとしていたのです。

話が長くなりましたが、今回は奈良時代の行政区分について、つまり、どうやって、それぞれ分かれていた国をつないでいったかというお話です。これは、経済的に、そして、政治的につないでいったのです。実は、当時は、他の国の人との交流はあまりないようにしていたようです。ただ、お米を作るのが大変で、いまのようにちょっと旅行してこようなんて、レジャーを考えていた人達はほとんどいなかったでしょう。当時、旅をするというのは、命がけのことでしたから。そりゃ、スマホも公衆電話もSNSも何もないですし、乗れるものは、馬。ほぼ、徒歩で旅するわけですから、いまのバックパッカーより条件は過酷だったのです。どうです、それでも、旅をしますか?トラベル・ゴー!しますか?

さて、この中央集権国家を作り上げようとするために日本に散らばる国の配置やその国々をつなげなければいけません。
じゃぁ、どうしようかということになり、

五畿七道

の構想が生まれたのです。

奈良時代の政治の中心は、畿内にありました。いまでいう奈良、京都周辺。その畿内を中心に七つの道を作って日本中の国と結ぼうということになったわけです。道がなければ、出張もできませんから。都は畿内、方々の国がちゃんと政治をしているのかきちんと管理ができなければ、日本という国は、運営ができませんから。日本国内の方々にある国々をまとめるための道、それが、七道だったのです。奈良時代の役所のしくみについては、次回に書きます。

さて、五畿七道はというと

五畿
大和(やまと)
山城(山背とも書きます)(やましろ)
河内(かわち)
摂津(せっつ)
和泉(いずみ)

この大阪湾岸の五つの地方。この地方が政治の中心であり、日本の中心地だったのです。いまは、東京ですね。

七道
東山道(とうさんどう)
東海道(とうかいどう)
北陸道(ほくりくどう)
南海道(なんかいどう)
山陽道(さんようどう)
山陰道(さんいんどう)
西海道(せいかいどう)

どの地域を結んだ道なのかは、地図で調べてみるとよいでしょう。

この普段よく使われる「道」には、
・都(みやこ)から地方にのびた道路
・その道路沿いに並んだ連絡し合う国々の集まり
この二つの意味があります。
後者の意味は、きっと、武士道、茶道、花道などの「道」と同じような使い方なのかもしれませんね。

次回に詳しく書きますが、日本国内にたくさんある国々には、国府(こくふ)と呼ばれる役所が置かれました。
そこには、国司(こくし)と呼ばれる役人が都(みやこ)から派遣されたのです。この役人が行き来するための道が
七道だったのです。ただ、乗り物は馬。そこで、16㎞おきにというなの宿が設けられていました。そこには、乗り継ぎ用の馬が用意されていて、駅鈴(えきれい)と呼ばれるものを持っている役人だけがその駅の乗り継ぎ用の馬を利用できたのです。そして、関所が三つ設けられていました。やっぱり…

・変な流通をしてほしくない。
・都が攻め込められないようにするため。

という思いがあったのしょう。

奈良時代の日本は、たくさん国がありましたと書きましたが、

66国ありました。プラス2島。

この2つの島は、壱岐(いき)と対馬(つしま)のことです。

行政区分について

奈良時代の行政区分は、政治の中心地である畿内からのびるこの七道に基づいて7つに行政区分されたのです。
道をへだてて…ってよくいいますもんね。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2022/01/10 (月) 18:49:43
最終更新: 2022/01/23 (日) 21:21:49
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TakeTea_44 2022/01/10 (月) 18:53:23

次回は、二官八省(にかんはっしょう)奈良時代の役所しくみについてです。