中学社会の勉強部屋

歴史 奈良時代の税について

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奈良時代も重い税がかけられていました。

大きく分けて2種類。1つは、稲を税として収める「租(そ)」。もう一つは、17歳以上の男子にかかる税として、
特産物を納めたり、兵役を行ったり、労役を行ったりです。

1.租(そ)
2.17歳以上の男子にかかる税(調(ちょう)、庸(よう)、衛士(えじ)、防人(さきもり)、運客(うんきゃく)、、雑徭(ぞうよう)

それでは、ひとつひとつみていきましょう。


律令制が敷かれてた当時の日本。戸籍に6歳以上の人々は登録されました。
そこで男女に口分田が与えられました。

良民 男子には、2段(約2300㎡)の面積の口分田を与えられました。
良民 女子には、男子の3分の2の面積の口分田を与えられました。
奴婢(ぬひ)は良民の男女のそれぞれ3分の1の面積の口分田を与えられました。
口分田をもらった人が亡くなれば、国に返す必要がありました。

これを題して、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)。

口分田からの収量の3%の稲を国府(こくふ)に納めていました。

特産物を納める調(ちょう)
17歳から65歳の男子が対象になります。納めるものは、絹や糸や布。

特産物を納める庸(よう)
21歳から65歳の男子が対象になります。納めるものは、麻布(あさぬの)。
この庸(よう)は、都(みやこ)で働く労役の10日間の代わりに納めることができました。
あれば、ラッキーですね。

兵役として衛士(えじ):都(みやこ)で宮の警備を一年間、行います。
兵役として防人(さきもり):九州北部の警備を3年間します。

養老令がでてからの話ですが、21歳から60歳の3人に1人は、諸国の軍団に入団して、訓練を受けていました。
大宝令では、4人に1人でよかったそうです。

ただ、この兵役の期間、武器や食料は自前だったそうです。
もう、ここまで書けば、結構、重税だったことがわかりますね。

労役 運脚(うんきゃく):食料は自前でした。
労役 雑徭(ぞうよう):17歳から65歳の男子が1年に60日以内の労働を国府で科せられました。おもに、土木工事でした。

ただ、これらの特産物を納めたり、兵役や労役は、貴族の人は、免除されていました。
また、運客(うんきゃく)では、諸国から京(きょう)へ向かうのに、東北地方や九州南部からだと40日以上かかることもあったそうです。食料は自前ですから、帰りに底をついて道端(みちばた)で餓死(がし)することもあったそうです。
そういうケースが後を絶たなかったため、朝廷は運脚に銭(ぜに)を持たせたり、道沿いの国司(こくし)や郡司(ぐんじ)に米を売らせたりしていましたが、効果はあまりなかったようです。有名な防人の歌で

から衣(ころも) すそに取(と)りつき 泣(な)く子(こ)らを 置(お)きてぞ来(き)ぬや 母(おも)なしにして (万葉集)

運脚(うんきゃく)の荷物は、約30㎏。長時間、背負っていたら、肩にくいこんじゃいますよね。
しかも、人の時速は4㎞/h。一時間に4㎞しか、歩けませんから、一日、八時間、歩いても、やっとで、32㎞/day。
300㎞、離れたところまで、大体10日かかるわけです。往復するわけですから、20日間、家を留守にすることになるわけです。どうです、その間、田んぼの世話ができないし、稲を育てなきゃいけないし。安否はわからないし。スマホもありませんから。

春から夏には、種もみや食べる米がなくなる人も多く、稲を国司(こくし)や豪族(ごうぞく)から借りました。
それを出挙(すいこ)といいます。ただ、これには、50%の利息があり、返すのが大変だったことがわかります。

山上憶良(やまのうえのおくら)の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)というのがあります。
その内容は、

一人前に耕作をして働いているというのに、着ているものは、ボロボロ。傾いた家で、地べたに藁(わら)を敷いて、両親は、私の傍(そば)で、妻子は足下で、悲しんでいます。米を蒸(む)すこしきには、蜘蛛の巣がかかっていて、ごはんをどれだけ、炊いていいないことでしょうか。そこにムチを持った里長(さとおさ)が来て、租税(そぜい)を取り立てに来る。この世に生きるということは、こんなにどうしようもないことなのだろうか…

山上憶良(やまのうえのおくら)は、中国で学び、下級の役人を経て、66歳ころ、筑前(ちくぜん)の国(くに)、いまの福岡県の国司(こくし)になりました。その人が詠んだ歌ですが、どちらかというと文学的に創作されたのではないかと言われています。ただ、当時の実際は、税の負担が苦しく逃げ出す人も多かったそうです。別な有力者のもとへ逃げ、助けを求めることも日常茶飯事だったそうです。ただ、逃げた場合、その逃げた人の分まで納める必要があった調(ちょう)など、ますます、彼らの首を絞めることになっていきました。

人々は、生活苦のあまり、戸籍の性別や年齢を偽(いつわ)ることも始めたそうです。

さきほど、貴族という特権階級のことを書きましたが、良民のなかでも、200人程度しかいませんでした。
当時の日本の人口が450万人。少ないことがわかりますね。
彼らは、太政官(だじょうかん)などの高官についたのです。しかも、代々、この地位は受け継がれていきました。

その一方で、奴婢(ぬひ)と呼ばれる全人口の1割未満の人々は、売買の対象となり、奴婢以外との結婚は許されませんでした。しかも、奴婢の子は奴婢のままでした。

これだけ、苦しい生活のなか、暮らしていた奈良時代の人達。人々は良民と賤民に分けられていたため、あえて、賤民になる人もでてきたそうです。性別や年齢を偽(いつわ)るだけでなく、身分も偽(いつわ)る人が増え始めたのです。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2022/02/12 (土) 00:24:06
最終更新: 2022/02/12 (土) 00:47:34
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TakeTea_44 2022/02/12 (土) 02:23:41

次回は、『奈良時代の土地制度について』です。