平城京(へいじょうきょう)
いつ、だれが
平城京(へいじょうきょう)は、710年(和銅3年)に 元明天皇によって、律令制に基づいた政治を行う中心地として藤原京から遷都されました。いまから約1300年前の出来事です。
どこ?
現在の奈良市につくられました。この平城京を中心に天平文化が生まれました。この奈良時代は約80年間(74年間です)続きました。
遷都の目的は?
まず、平城京(へいじょうきょう)をつくった理由は、国内外に律令国家としての威信を見せるためでした。
なぜ、唐をまねた?
それは、そのころもっとも文化の進んでいたんが唐の長安だったからのです。
大きさは? 形は?
唐(とう)の長安城(ちょうあんじょう)の広さの4分の1の平城京。
東西 約4.3㎞、南北 約4.8㎞の長方形。
その長方形の東側には、東西約1.6㎞、南北2.1㎞の外京があります。
全部で、なんと2,500ha(ヘクタール)。
南端の羅城門(らじょうもん)から朱雀門(すざくもん)までの朱雀大路(すざくおおじ)の幅はなんと74m。
幅を利かせていますね。
朱雀大路(すざくおおじ)の西側を右京、東側は左京。
元F1レーサーの片山右京さん、
SF小説で有名な小松左京さん、
お名前、ちなんだんでしょうか。
平城京の北部には、平城宮という区画には、天皇の住まいや太政官(だいじょうかん)などの役所が建てられました。
ここには、政治・儀式の場である大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)があります。
天皇の住まいである内裏(だいり)、そして、役所の日常的な業務を行う官衙(かんが)、宴会を行う庭園がありました。
この平城宮は、都を治める官公庁街だったのです。この平城宮の周りには大垣がめぐらされ、入れたのは、皇族、貴族、役人、使用人など限定されていました。
平城京の人口は、約10万人。1万人は、役所で働いていました。
当時の日本人口は、450万人だったそうです。いまのイスラエルの人口の半分になります。
寺の数48。信仰心の深さがうかがえます。
東西の市(いち)では、各地から送られてきた産物などが売買されていました。
物の取引は貨幣でおこなれ、このころ、唐にならって、和同開珎(わどうかいちん)などが発行されたのです。
富本銭(ふほんせん)は、日本最初の銅銭ですが、その当時、どれくらい流通していたのか、分かっていません。
和同開珎(わどうかいちん)は、708年(和銅元年)の正月に武蔵国(むさしのくに)から朝廷に銅を献上したのを記念して、朝廷は年号を和銅と改めました。そして、この和同開珎(わどうかいちん)を作ったのです。この年に、平城京の建設も始まって、建設するための労働者への支払い賃金はこの和同開珎(わどうかいちん)だったそうです。
平城京は、奈良盆地の北部に位置しました。
そのなかにあった朱雀門(すざくもん)を通ったところが、儀式を行うところ。
東側は、政治を行うところ。
北側は、天皇の生活の場。
というように生活空間が分けられていました。
平城宮の中には、大極殿(だいごくでん)がありました。
第一次大極殿(だいごくでん)と第二次大極殿(だいごくでん)があります。
これらの大極殿(だいごくでん)は、唐の長安城にあった太極殿(たいきょくでん)を真似ました。
天の中心を意味している太極星(北極星)にちなんで、名付けられました。
この第一次大極殿(だいごくでん)は、藤原宮のものが移築されたといわれています。
大極殿(だいごくでん)は、天皇の即位などの儀式の場。
聖武天皇は、740年から745年にかけて、京都、大阪、滋賀と都を転々とさせてきました。
そのたびにこの大極殿は解体され、そのまま移築させたのです。
実は、第一次大極殿(だいごくでん)は、元明天皇が建て、第二次大極殿(だいごくでん)は、聖武天皇が建てたものなのです。
今回は、平城京について、どのような所なのかを中心にお話しました。
~ 余談 ~
保存運動について
遷都を繰り返すと書きましたが、平城京も遷都され、長岡京、平安京と都が移されます。しだに平城京は忘れさられ、田畑へと姿は変わってしまいました。平城京の研究が始まったのは、幕末のこと。国学者である北浦定政(きたうらさだまさ)がおおよその平城京跡地を測量したのです。そして、平城京の地図を作り上げたのです。そののち、奈良県の技師である関野貞(せきのただし)が研究をつづけました。田畑になった平城京跡地を保存しようと始めたのは、植木職人だった棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)。天皇の都だったところが、田畑に代わってしまってよいのだろうかという疑問からの出発でした。棚田(たなだ)さんは、保存会を発足、平城京跡地の一部を買い取って整備し、史跡として指定されると同時に国にその土地を寄贈したのです。戦後になってこの保存運動は本格化し、日本の歴史を大切にする財産を大切にしてほしいと全国的に運動を繰り広げられ、鉄道建設、道路建設の計画はいつも変更されてきました。そして、1998年(平成10年)には、平城京跡地は世界遺産に登録されたのです。
ハンコのはなし
大宝律令に基づいて朝廷は印をつくりました。天皇の印は一辺が三寸(約8.7㎝)。これが一番大きな印。
地位が下がれば、印の大きさも小さくなりました。奈良時代には、戸籍、帳簿、命令文書、報告書、伝票などの書類があり公文書であること、偽造防止のためにハンコが押されたのです。
ハンコの歴史って奈良時代からだったんですね。
今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。
次回は、奈良時代の役所のしくみ、行政区分についてです。