中学社会の勉強部屋

歴史 聖徳太子がめざした政治

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6世紀頃の朝鮮半島では、何が起きていたかというと…

百済(くだら)や新羅(しらぎ)が勢力を強めていました。
そして、前回でも書いた通り、大和政権と交流のあった伽耶(かや)地域の国々を併合していたのです。

その一方、中国では、6世紀の末に、隋が南北朝を統一して帝国を作り上げていました。
日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋(ずい)の進んだ制度や文化を取り入れるために数回にわたり、使者を送りました。それを、遣隋使(けんずいし)といいます。中国の歴史書には、倭(わ)は、600年にも使者を隋に送っていると記されています。そして、607年の小野妹子(おののいもこ)をはじめとする多くの留学生や僧も同行させた一行が隋に向かったそうです。そのことについては、隋書(ずいしょ)倭国伝(わこくでん)に次のように書かれています。

 607年、倭(わ)の王多利思比孤(たりしひこ:天皇)が隋(ずい)の煬帝(ようだい)に使者(小野妹子:おののいもこ)らをつかわせた。

(中略)

持ってきた手紙には

「日出(ひい)づる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処(ところ)の天子(てんし)にいたす」

(↑ この手紙の意味は、太陽が昇る東の国の天子が、太陽が沈む西の国の天子に手紙を差し上げます)
 
と書いてあったのです。これは、有名な書き出しですが、これは、東夷(とうい)の島国の王が「天子」ということ自体、気に食わず、しかも、対等な外交関係を求めて、字面(じづら)では「没落の途にある皇帝」を意味する「日没(ひぼっ)する処(ところ)の天子(てんし)」、煬帝(ようだい)がいい顔をしなかったのは、当然です。日本人特有の時候の挨拶のつもりで書いたのかもしれません。というのも、倭(わ)では、日没は方位を表す程度の表現でしかなかったのです。ただ、その当時、隋は高句麗遠征を控えており、外交上倭国(わこく)との友好関係は必要と判断したので、この遣隋使を許可したのです。けっこう、危ない書き出しの手紙でしたが、おとがめなくてよかったですね。

 さて、このたびたびでてくる煬帝(ようだい)について話をする前に、隋(ずい)を作った彼のお父さんの話をしましょう。名前は、楊堅(ようけん)。楊堅(ようけん)は、589年に陳(ちん)を滅ぼし、中国を統一してできた国が隋(ずい)なのです。

 そして、その楊堅(ようけん)の息子である煬帝(ようだい)があとをつぎます。しかし、この煬帝(ようだい)は、父である楊堅(ようけん)や兄弟たちを殺害し『中国史上最強の暴君』といわれるようになったのです。

 父親の名前である楊堅(ようけん)には、『明るい、温かい』という意味、その子である煬帝(ようだい)には『炙(あぶ)り尽(つ)くす、照り付ける』という意味がある通り、正反対の性格でした。親子で名前が違うじゃないかと思うかも知れませんが、煬帝(ようだい)の本名は、楊広(ようこう)なのです。楊堅(ようけん)は長安に都を定め、西晋(せいしん)の滅亡から300年間にもわたる中国の分裂状態に終止符をうち、中国を統一させた偉大な人です。ところが、この『隋(ずい)』も次の代の『煬帝(ようだい)』が終わらせてしまいます。589年から618年までの29年間しか続かなかった短命だった隋(ずい)。しかも、煬帝(ようだい)は、高句麗の遠征に失敗し、その最期は、家臣二人に真綿で首を絞められて殺されたのです。彼本人は、毒酒で殺されたかったらしいのですが… 結局、彼は、国の統治には向いていませんでしたが、文才に長(た)けた人だったようです。とくに、彼の抒情詩は、文学的にも高く評価されているそうです。興味のある方は、調べてみるとよいでしょう。

そして、この隋(ずい)の時代は、
・土地や税、兵の制度を整えました。
・試験をすることで、人材を集めました。(科挙(かきょ))
・大運河の建設を行いました。

ということがありました。

 この煬帝(ようだい)が作った『黄河と長江を結ぶ大運河』は、後世にとってとても役立つものになったことは事実でした。当時、中国大陸は西から東へ流れる川ばかりで、南北を船で移動することはできませんでした。しかし、この運河のおかげで南北に分裂していた中国をつなぐルートができ、中国が一つになることができたのです。ちなみに、遣唐使(けんとうし)もこの運河を利用したそうです。この運河は、明(みん)の時代になって、今のような大運河となりましたが、19世紀の後半に衰退し始め、現在は地方の交通路として利用されているだけとなっています。

 さて、話を日本列島にもどしましょう。

 日本列島では、地方の豪族が反乱を起こしていたのです。

・まず、共通の祖先でつながる集団が氏(うじ)を構成します。
・たとえば、蘇我氏は財政というふうに、氏(うじ)ごとに、大和政権(王権)の仕事を担当していました。
・そして、この氏(うじ)は、大王(だいおう または おおきみ)から、大和政権(王権)での地位を表す称号である姓(かばね)を与えられたのです。
 例)蘇我氏は、臣(おみ)。物部氏(もののべし)は、連(むらじ)。

この豪族というのは…
ただ豪族といってもよくわからないかもしれませんが、いわゆる地方の有力な氏(うじ)といえるでしょう。
具体的には、

地方に住んで、力を持っている(お金があり、武力が備えられ、発言力のある)氏(うじ)の事を豪族と考えたらよいでしょう。彼ら豪族は、いつも、広い土地を所有して、村を支配してきたのです。三浦氏のように、三浦半島全体を支配していた豪族もいますので、有力な地方の権力者だったことには違いありません。元々、豪族は荘園の中から生まれたので、職業は主に農業でしたが、牧(まき)という牧場主から豪族になった人や、漁師や水夫を支配した豪族もいます。海を相手にしてきた豪族を「水軍」といって、この「水軍」が朝廷や貴族の船や土地を襲うと「海賊」と呼ぶようになったのです。また、豪族は武力によって自らを守っていたので、武士であるとも言ってもいいでしょう。

 ところで、微妙に貴族と豪族は違っていて、貴族は大和朝廷が誕生した時に、朝廷に味方した近畿地方の有力者による集団と考えるとよいでしょう。たとえば、中臣氏(なかとみし)や菅原氏(すがわらし)です。この中臣氏(なかとみし)は、のちの藤原氏のことで、後ほど、詳しく書くことにします。

 奈良時代や平安時代は律令(りつりょう)という法律のもとに成り立っていました。その中に規定されている貴族は最も高い地位に属していたのです。地方にも広大な土地を所有しており、住居は、都に大きな屋敷をかまえて、生活をしていました。なに不自由なく裕福な輝かしい暮らしを送ることができたのが貴族なのです。なかには、豪族から貴族になる氏(うじ)もいましたが、身分も高く、源氏や平氏のように天皇の血を引いた都に住んでいるトレンドな人たちが「貴族」だったのです。簡単にいえば、

お高くとまっている「豪族」は田舎人、「貴族」は都会人というところでしょうか。

 またまた、話がそれてしまいましたが、貴族と豪族について、わかりましたか。今後、学習を進めていくうちに、何回となくでてくる「豪族」、そして、「貴族」。ちょこっと説明をしておきました。ちょこっとでは、ないですね、これじゃ。

さてさて、話をも戻して、どこまでいったでしょうか。そうそう…日本列島は、地方の豪族が度重(たびかさ)なる反乱を起こしていたのです。大和政権の蘇我氏(そがし)、物部氏(もののべし)などの豪族は、それぞれが支持する皇子(おうじ)を大王(だいおう)にしようと争いを起こしていました。このような混乱した世の中を治めるために女性の天皇が誕生するのです。そうです。推古天皇(すいこてんのう)が即位しました。ただ、女性の天皇でもあることから、摂政が置かれ、その地位には、甥(おい)であるかの有名な聖徳太子がつきました。

大王は、のちに天皇と呼ばれるようになりましたが、いつから天皇と呼ばれるようになったのかは、諸説があります。
この推古天皇からという説、天武天皇や持統天皇のころという説の二つの説があるのです。推古天皇は、遣隋使を派遣し、天武天皇や持統天皇のころは、大王(だいおう)の地位が高まった時期なのです。さて、どちらが正しいのでしょうか。

 そして、聖徳太子は、曽我馬子(そがのうまこ)と協力をして、おとなりの国、中国や朝鮮とおなじような大王(だいおう:天皇)を中心とする政治制度を整備しようとしました。これが、今回のテーマの主眼になることです。ここまで書いてやっと主題に触れることができたのです。

その政治制度を整備する一つの制度に、

冠位十二階の制度(603年)があります。

制定以前は、家柄によって大和政権(王権)の地位や役職が決められていましたが、制定後は、能力を重んじ、才能や功績があれば役人に抜擢(ばってき)されたのです。中国では、科挙(かきょ)が実施されていましたね。
この地位は冠の色で区別され、低い地位からいうと…

黒:小智(しょうち)、大智(だいち)
白:小義(しょうぎ)、大義(だいぎ)
黄:小信(しょうしん)、大信(だいしん)
赤:小礼(しょうらい)、大礼(だいらい)
青(とはいってもちょっと、紫にちかい色だそうです):小仁(しょうにん)、大仁(だいにん)
紫:小徳(しょうとく)、大徳(だいとく)

だそうです。また、この地位は、儒教の五つの徳目「五常」から作られているようです。

仁(にん)人を思いやること。
義(ぎ) 欲にとらわれずなすべきことをする正義のこと。
礼(らい)人を思いやって具体的に行動すること。
智(ち) 知識が豊富な人のこと。
信(しん)友情に厚く、誠実であること。

そして、「仁(にん)・礼(らい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)」の五つを合わせたものの最も上にあるものが「徳」だそうです。

十七条の憲法(604年)では、仏教や儒教の考え方を取り入れ、天皇の命令に従うことをはじめ、役人の心構えが決められていました。その内容を簡単に書くと以下のとおりです。

1 一(いち)に曰(いわ)く、和(わ)をもって貴(たっと)しとなし、さからうことなきを宗(むね)とせよ。
その意味は、和を大切して、人と争いをしないように!

2 あつく仏教を信仰しなさい!
3 天皇の命令を受けたら、必ずそれに従え!
4 役人はみな礼儀をものごとの基本とせよ!
5 私利私欲を捨てて、公平な裁判を行いなさい!
6 善をすすめ、悪をこらすことをたてまえとせよ!
7 人はそれぞれ任務があるから、その役目を守りなさい!
8 役人は朝早く出勤し、遅く退庁(たいちょう)しなさい!
9 うそをつかず、約束をまもりなさい!
10 人が自分と違ったことをしても怒ってはいけません!
11 人を評価するときは、功績と過失をしっかりと見極め、賞罰を与えなさい!
12 天皇の命令に従いなさい!
13 仕事を任せらたら、仕事の内容自体を熟知する必要があるし、病欠してもできるように引継ぎはちゃんとしなさい!
14 嫉妬してはダメ!
15 私心を捨てて公務に向き合いなさい!
16 人に物事を頼む時は、タイミングが大切だ!す・て・き・な・タイミング♪を見極めて!
17 ひとりで物事を判断すると間違いやすいので、大事なことを決めるときは、みんなできめなさい!

これを難しく書くと… 

第一条:和を以て貴しとなし
第二条:篤く三宝を敬へ
第三条:詔を承りては必ず謹め
第四条:礼を以て本とせよ
第五条:饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁めよ
第六条:悪しきを懲らし善を勧むる
第七条:人各任有り
第八条:早朝晏退でよ
第九条:信は是義の本なり
第十条:忿を絶ちて、瞋を棄て、人の違うことを怒らざれ。(中略)我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。ともに是れ凡夫第十一条:功と過を明らかに察て、賞罰を必ず当てよ
第十二条:国に二君非く、民に両主無し
第十三条:諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ
第十四条:群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ
第十五条:私を背きて公に向くは、是臣が道なり
第十六条:民を使うに時を以てするは、古の良き典なり
第十七条:夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし

ってなります。どうです。けっこう、いまでもためになる十七条の憲法ではありませんか。もちろん天皇中心に…というのは、いろいろな意見があるところですが。604年に制定された憲法、いまから約1400年前のきまり、いまでも通用するものもあるような気がします。

よく聖徳太子が真ん中に大きく描かれ、左に息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、右に聖徳太子の同母弟の殖栗王(えぐりおう)の絵がありますが、この手法は中国の皇帝の像や仏画と同じで、大きく描くことでその偉大さを強調しているそうです。

それから、この聖徳太子という呼び名は、実は、彼の死後、100年以上たった751年の漢詩(懐風藻:かいふうそう)で初めて登場します。いまとなっては、有名な名前ですが。本当の聖徳太子の呼び名は、

厩戸王 (うまどおう)、正式名称は「厩戸皇子(うまやどのみこ・おうじ)なんです。

ほかにも呼ばれていた名前はありますが…調べてみてください。教科書では、きっと、聖徳太子って統一するんじゃないでしょうか。どうなんでしょうね。

~ ちょっと、聖徳太子の年表 ~

西暦できごと
574聖徳太子 生まれる
593推古天皇の摂政になる 蘇我馬子(そがのうまこ)と協力
603冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度 ​彼がなんと29歳のとき
604十七条の憲法 彼がなんと30歳のとき ​
607遣隋使(けんずいし)の派遣 ​
607法隆寺(ほうりゅうじ)の建立(こんりゅう) ​
62248歳で亡くなりました ​

聖徳太子は、若くして亡くなりましたが、若き日にたくさんの輝かしい仕事をしていたのです。

今回は、だいぶ長くなってしまいました。ごめんなさい。
書いているうちに、どんどん増えちゃいました。覚えることは少ないかも知れませんが、わからないことはたくさんありますよね。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2021/06/29 (火) 22:46:30
最終更新: 2021/07/01 (木) 11:48:41
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TakeTea_44 2021/06/30 (水) 20:24:11

次回は、飛鳥文化です。