中学社会の勉強部屋

歴史 大王時代の中国・朝鮮半島・日本

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4~5世紀頃の中国
 4世紀ごろから中国国内は分裂していて、5世紀ごろからは、南北に分かれて、南北朝時代が到来しました。国々の対立が続いたのです。

4世紀ごろの朝鮮半島
 高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)が勢力争いをしていました。
この百済(くだら)・新羅(しらぎ)は、4世紀ごろにおこった国々です。

一方、その頃の日本
 あったとされる大和政権は、百済(くだら)や伽耶(かや、または、任那(みまな))地域の国々と国交を結び、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)と戦っていたそうです。この伽耶(かや)地域である任那(みまな)は、(にんな)とも呼ぶことがあるそうです。

大和政権が当時行った外交関係については、好太王(こうたいおう または、広開土王(こうかいどおう))碑に記されているそうです。この好太王(こうたいおう または、広開土王(こうかいどおう))碑は、2003年にガラスで覆われ、2004年には、世界遺産に登録されています。

大和政権の勢力について

 埼玉県にある稲荷山古墳(いなりやまこふん)や熊本県にある江田船山古墳(えたふなやまこふん)から出土した鉄刀(てっとう)や前方後円墳の分布から、
5世紀には、大和政権の王は、九州地方から東北地方南部に至る各地の豪族を従えていました。そして、大王(おおきみ、または、だいおう)と呼ばれていたことがわかるそうです。

 また、当時の大和政権の勢力については、南朝(なんちょう)の宋(そう)の歴史書「宋書(そうじょ)」には、

・倭(わ)の王としての地位
・朝鮮半島南部の軍事的な指揮権

この二つを中国の皇帝に認めてもらおうと、たびたび使いを送ったことが記されています。(朝貢・ちょうこう)

 このころの大和政権はどんな目的で、朝鮮半島南部の軍事的な指揮権を獲得しようとしたのでしょうか。
6世紀ころ、日本では鉄の精錬が始まりました。この頃の鉄は富や権力の象徴でした。だからこそ、この当時、大和政権は、鉄を確保したいの一心で、朝鮮半島南部の伽耶地域(かやちいき)と密接な関係を保ちつつ、朝鮮半島南部の軍事的な指揮権を獲得しようとしていたのです。このあたりのことは、教科書には書いておらず、唐突に中国・朝鮮半島・日本の関係がでてきますが、「え、なぜ?」ここで、この三つの地域を勉強する必要があるの?って疑問がでてくるのは、当たり前のことなのです。脈絡のない事柄がたくさん教科書に書かれていますが、それは、実は密接な関係があるのです。そこの部分をわかりやすく書かれてあると、もう少し、興味の沸く教材になるのではないかと思います。

 さてさて、話は長くなってしまっていますが、じつは、倭(わ)である日本は、その銅よりも鉄を重視していたことはこれでわかると思います。ところが…鉄をつくる技術を持っていなかった当時の日本、倭(わ)~、大変!そこで、技術がないのならと、朝鮮半島から鉄の板を手に入れていたのです。この伽耶地域(かやちいき)は、鉄の産地で大和政権は、この地域から鉄を輸入していたのです。

歴史書「宋書(そうじょ)」には、

 百済(くだら)・新羅(しらぎ)はもともと高句麗(こうくり)に従っていました。
391年に倭が海を渡って、百済(くだら)を破り、新羅(しらぎ)も征服したのです。
その後、百済(くだら)は、倭(わ)と交流を深めました。そこで、高句麗の好太王(こうたいおう、広開土王・こうかいどおう)は平壌(ピョンヤン)におもむきました。そのとき倭(わ)に攻め込まれている新羅(しらぎ)が援軍を求めてきたので、好太王(こうたいおう、広開土王・こうかいどおう)は、歩兵(ほへい)・騎兵(きへい)5万人を派遣しました。その軍が新羅(しらぎ)につくと、倭(わ)の軍は退いたのです。

また、倭王武(わおうぶ)が宋(そう、南朝)に出した手紙(487年)には、

 わたしの祖先は、自らよろいやかぶとを身につけて、山や川をかけめぐって、東は55カ国、西は66カ国、さらに海を渡り、95国を平定(へいてい、従えるということ)しました。しかし、私の使いが皇帝へ貢物(みつぎもの)を持っていくのを高句麗(こうくり)が邪魔をしています。皇帝のお力で高句麗(こうくり)を退けられましたら、ますます一層、忠誠をつかわさせていただきます。(実は、ここの文面には、忠誠を誓うことと引き換えに高い地位がほしい意向もこめられていました。

と書かれています。

 つまり、5世紀に入ると、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五人の王(倭の五王)が中国の南朝に使いを送り、高い称号を求めていたのです。この武(ぶ)は、埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣や江田船山古墳(えたふなやまこふん)から出土した鉄刀(てっとう)に記されている

ワカタケル(獲加多支鹵)大王  ≒ 武(ぶ)?

と同一人物であると考えられています。

当時の大和政権が中国との交流を望んだのは、中国の皇帝に、日本の支配者としての地位を認めてもらって、倭(わ)国内での立場を強め、より一層の支配力を高めることも一つの目的としてあったのです。

当時の大和政権は、鉄ほしさ、国内の統制に野望を抱いていたのかもしれません。
朝鮮への野望を抱いていたのは、豊臣秀吉だけではなかったのです。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2021/06/25 (金) 11:27:52
最終更新: 2021/06/26 (土) 10:50:47
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TakeTea_44 2021/06/25 (金) 20:17:54

次回は、渡来人についてです。