中学社会の勉強部屋

歴史 国のはじまり

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 紀元前4~5世紀ころに稲作が日本に伝わったことは、前回の弥生文化のところで述べました。
そして、稲作が盛んになってくると、急速な社会の仕組みの変化がみられました。
用水や食料をめぐる争いが増え、強い集団が弱い集団を従えるようになったのです。

 その強い集団は、小さな国となり、各地に人々を支配する豪族(ごうぞく)といわれる有力者や王(おう)が出現したのです。これが、国のはじまりなのです。

「漢書」地理志(かんじょ ちりし) (紀元前1世紀)
 中国の歴史書です。
紀元前後、倭(わ、いまでいう日本)には100あまりの国があって、楽浪郡(らくろうぐん)を通じて漢に使いを送る国もあったことが記されています。

「後漢書」東夷伝(ごかんじょ とういでん) (建武中元(けんむちゅうげん)2年 57年)
 1世紀の半ば、現在の福岡平野(ふくおかへいや)にあった倭の奴国(わのなこく)の王(おう)が、後漢に使いを出し、皇帝から金印を授けられたと記されています。江戸時代に福岡県志賀島(しがのしま)で発見された「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印は、そのときのものだと考えられています。

 107年 倭(わ)の国王である帥升(すいしょう)らが、生口(せいこう、つまり、奴隷のこと)を160人を献上したそうです。これは皇帝に拝謁(はいえつ)することを願いでたのです。この帥升(すいしょう)は、福岡県前原市を中心とした伊都国(いとのくに)の王(おう)だったそうです。

 そして、光武帝(こうぶてい)は、印綬(いんじゅ:印とそれを結びとめるひものこと)を送ったといいます。
2世紀後半、桓帝(かんてい)と霊帝(れいてい)のころ、倭(わ)は非常に乱れ、争いが絶えず、長い間代表者が定まらなかったと記されています。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2021/06/10 (木) 21:14:28
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TakeTea_44 2021/06/10 (木) 21:15:32

次回は、邪馬台国(やまたいこく)についてです。