中学社会の勉強部屋

歴史 弥生文化

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紀元前4世紀ころから弥生文化が起こりました。
(一説には、紀元前10世紀頃から始まったとしています。)

朝鮮半島から移り住んだ人々が稲作を手がけました。ちょうど、九州北部にむらをつくったのです。

たて穴住居で寝起きをして、その近くには、高床倉庫がありました。
この高床倉庫は、ねずみや湿気を防ぐために工夫されていました。必殺「ねずみ返し!」、その工夫を写真で確かめるとよいでしょう。
収穫した米を貯蔵していたこの高床倉庫。安定した食料には欠かせない建物だったことでしょう。

 水を確保して稲作を行い、木製の農具(すきやくわ)で田をつくり、田植えをして夏には、草取り、秋には石包丁で稲を刈りました。先にも書きましたが、収穫した稲は、高床倉庫にしまいました。木製の農具である杵(きね)や臼(うす)を利用して脱穀(だっこく 稲穂から籾をはなす)作業もしていました。

 日本に稲作が伝わると…
縄文時代のように獲物や木の実などの食料を追い求めててんてんとする生活から、定住していくようになりましたが、用水や食料をめぐる争いが絶えませんでした。人々は集団(グループ)を作るようになりましたから、強い集団に弱い集団がとりこまれ、しだいに国(くに)ができるようになったのです。そして、この国(くに)には、人々を支配する王(おう)が出現するのです。

 稲作が日本に伝わったのは、紀元前5~紀元前4世紀とされていましたが、近年、土器についていた炭化物を分析したところ、紀元前10世紀頃だったという説が浮上してきています。

 縄文時代は、獲物や木の実などに頼って生活をしていましたが、この弥生時代になると稲作を中心にした農耕が発達したため、定住、食料を安定して供給できるようになりました。

こうやって現在の日本といわれる地域に稲作が伝わると同時に、
青銅器や鉄器などの金属器も伝わったのです。

銅剣(どうけん)や銅鉾(どうほこ)も武器として使われていましたが、
日本では、銅鏡(どうきょう)や銅鐸(どうたく)と同じように、祭祀(さいし、お祭り)のための宝物(ほうもつ)として使われました。

鉄器は、武器として使われたほか、木製の農具や船などを作る工具として活用されました。

 この時代に、弥生土器という、やや高温で焼かれたために赤褐色をした、薄手でかための土器が作られるようになりました。縄文土器にくらべ、模様も少ないことが特徴です。

 復習になりますが、縄文土器は、600~800度で焼かれた素焼き厚手で黒褐色で文様がついたものが多いのが特徴でした。それに比べ、弥生土器は、約1000度の高温で焼かれ、薄手で固く、縄文土器に比べ赤みが強いのが特徴です。形も均整がとれていて、文様が簡単なものが多いことも特徴の一つです。

1884年の当時、東京府本郷区(ほんごうく)向ヶ丘(むこうがおか)弥生町(やよいちょう)で、この土器が見つかったことから、弥生土器と呼ばれるようになりました。現在の東京都文京区弥生です。

この頃の文化を弥生文化、この時代を弥生時代と呼びます。

代表的な弥生時代のむらの遺跡(いせき)を紹介しましよう。

登呂遺跡(とろいせき 静岡県)
 登呂式とよばれる土器を中心に、木製農耕具・狩猟具などが大量に出土し、石器はほとんど出土していませんが、弥生後期の集落遺跡で、杭(くい)や矢板(やいた)をならべて区画したたくさんの水田跡、住居跡、高床倉庫跡などがあり、弥生農村の実態がわかります。

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき 佐賀県)
 工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査により、小さなムラが弥生時代約700年を通して、クニの中心となる40haを超える大環壕集落へと発展する過程が分かる遺跡です。

河姆渡遺跡(かぼといせき)(中国浙江省 せっこうしょう)
 新石器時代の遺跡で、1973年の夏,土木工事中に発見されました。同年秋に発掘調査が行われて約7000年前にすでにこの地に稲作農耕が行われていたことが実証されたのです。

砂沢遺跡(すなざわいせき 青森県)
 世界史的に見ても最も北に位置する水田跡だそうです。水田灌漑用のため池の中にあるため、春などには遺跡は水中に没しているそうです。明治時代の頃から、たくさんの土器や石器が出土する場所として知られています。水田跡は6枚発見されていますが、時期がはっきり特定でき、形もわかるのは2枚です。1枚の面積が70~80平方メートルだそうです。かなり大きなものです。この遺跡から、本州の北端でも、西日本にさほど遅れることなく、コメ作りが行われていたことを実証したことになります。

板付遺跡(いたづけいせき 福岡県)
 弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡です。
縄文晩期と弥生早期のはざまの遺跡です。

菜畑遺跡(なばたけいせき 佐賀県)
日本最古の水稲耕作遺跡だそうです。大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰(せき)、排水口、木の杭(くい)や矢板(やいた)を用いた畦(あぜ)の仕切りなどが発掘されました。これは縄文時代後期に日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられています。

ちなみに、矢板(やいた)とは、土砂の崩壊や水の浸入を防ぐため、地盤に打ち込む板状の杭 (くい)のことです。.

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

TakeTea_44
作成: 2021/06/03 (木) 20:59:47
最終更新: 2021/06/03 (木) 21:21:46
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TakeTea_44 2021/06/03 (木) 21:08:19

次は、国の誕生です。