縄文土器
1万2千年ほど前から、日本列島では、木の実など植物性の食料を煮炊きして食べるために考案された土器が作られ始めました。低温で焼かれた、厚手の黒褐色で表面に縄目(なわめ)のような文様(もんよう)がつけられているのが特徴です。食べ物の煮炊きや貯蔵にも使われた縄文土器です。縄文土器の底が焦げていないのは、土器を土に埋めて煮炊きしていたからだそうです。
この頃の文化を縄文文化といい、この時代を縄文時代といいます。
この縄文時代には、ひょうたん、そば、いもなどの栽培が始まりました。そのうちに海面が上昇することで、入り江ができ、魚、貝殻が豊富にとれるようになり、くり、どんぐりなどの木の実や、鳥、しか、いのししも豊富だっため、狩りや採集が簡単にできたため、農耕や牧畜は発達しませんでした。
春には、たらのめ、若草、ぜんまい、秋には、きのこやぶどう、くり、いも、くるみやどんぐりがとれました。
冬の間は、うさぎやいのしし、しか、かもを捕り、夏には、すずき、かつお、まぐろ、たい、さけ、ますが釣れました。
貝塚
おもに海岸や水辺に、食べ物の残りかすなどを捨ててつもった場所のこと。ここからは、骨や土器片もでてきました。いまでいうゴミ捨て場にあたります。
竪穴住居
集団生活を竪穴住居をつくり営んでいました。地面をほりくぼめ、柱を立て、その上に草葺(くさぶき)の屋根をかけた家のことです。
直径 約5m
地面をほった深さは、50cm~1m。
柱を立てて、草ぶきの木の枝で屋根をかけました。中央には、炉(ろ)があり、夏は涼しく冬は暖かかったらしいです。
床面積は、10~30㎡。収容面積は、7~8人と推定されています。
炉(ろ)の上部の棚には、かごに入れた木の実や干し魚。天井にはつるされた燻製(くんせい)のぶりやさけ、干し肉、農民の衣類など。
炉(ろ)では、縄文パンを焼いていたそうです。
三内丸山(さんないまるやま)遺跡
青森県に位置する遺跡。1992年に大規模な発掘が始まった縄文時代最大級の遺跡。
計画的なむらづくりの跡、くりの栽培の跡、大型建物の跡、縄文時代のイメージを変える発見があったのです。
集落の周辺にはナラ・コナラが広がっていました。それがクリを栽培するところに変化していきます。
この遺跡から土偶が国内でも最多の1800点以上が出土しています。
紀元前3500~紀元前2000頃 現在より暖かく、気候は穏やかでした。
1500年以上続いた集落です。
推定36ha(ヘクタール)サッカーコートの約50倍。
最大で500人は生活されていたといわれます。
すり石と石皿(いしざら)
打製石器だけでなく、磨製石器の使用もありました。
弓矢(矢の先)
棒にアスファルトを塗って鋭い石器をつけました。
骨角器(こっかくき)である銛(もり)は仙台湾岸から、釣針(つりばり)は、宮城県里浜(さとはま)貝塚から発見されています。
土偶
妊娠した女性をかたどったといわれています。この土偶はいのりなどに使われたといわれています。
抜歯
成人になる儀式で行われたそうです。そういう頭蓋骨が発見されています。
時代や地域によっても、どの歯を抜くのかは違っていたようです。
屈葬
手足の関節を曲げた埋葬の仕方です。この屈葬の目的は、
・災いを防ぐため。
・再生をいのるため。
・労力節約のため。
など考えられていますが、実際のところ、どれが正しいのかよくわかりません。
ここで、大切なことは、この時代の
・道具
・食べ物
・住居
を把握して、どのような生活をしていたのかが理解できるようにすることです。
さて、次回は、弥生文化についてです。