中学社会の勉強部屋

歴史 中国文明

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ふと気がついたら、タイトルがミスマッチでした。今回から、シンプルにしました。

中国文明のおこり
 中国文明は、紀元前1600年(紀元前16世紀)ころ、黄河流域に殷(いん)という国ができ、このころから、中国文明はおこりました。この黄河流域は、土地が肥沃で早くから農業が行われていました。やがて都市ができはじめ、王が現れたのです。

殷(いん)(紀元前1600年~紀元前1100年頃)
 この殷(いん)は、自らの王朝を「商」として、邑(むら、都市)の連合国家で、祭政一致の神権政治がおこなれていました。この殷(いん)は、紀元前11世紀に、周(しゅう)によって滅ぼされます。

殷の王の墓
 このお墓の状況は、死後も生前と同じように生活ができるような生活用具や武具などとともに、家来らも埋葬されたのです。そして、墓を守るために犬が王の棺(ひつぎ)の下におかれました。殉死者は、数百人だったといわれています。

青銅器
 この時期、すぐれた青銅器がつくられていました。この青銅は人類初の合金です。銅は柔らかいので、錫(すず)を混ぜ合わせることで、強度を高めることに成功したのです。錫(すず)の産地が限定されていたので、「青銅」は貴重だったのです。したがって、「青銅」は、祭祀(さいし)や饗宴(きょうえん)用のものに使われ、日常生活に青銅器が使われることは少なかったのです。

周(しゅう)(紀元前1100年頃~紀元前256年)
 この周(しゅう)は殷(いん)を滅ぼしたもののその支配力は弱まり、多くの国が争うようになり、紀元前8世紀から春秋・戦国時代に突入し紀元前3世紀頃まで続きました。そのため、諸国は国力を高めようと鉄製の兵器や農具が広まったのです。そのことによって農業や商業も発達していきました。

孔子と儒学(儒教)
 紀元前6世紀ころに孔子が説いた儒学(儒教)という新しい思想が生まれました。この儒教は、この孔子(紀元前551年頃から紀元前479年頃の人)で、役人を辞めてから諸国を巡り思いやりの心(仁:じん)と正しい行い(礼)が国を治めるもとであると説いたのです。この考えは日本にも伝わり、大きな影響を与えました。このころ、戦乱の世だったので、勝ち抜くためにも各地の王は、有能な人材を集めました。

 ちなみに、孔子の考えをまとめた「論語」の一説には次のようなものがあります。

学びて時(とき)に之(これ)を習(なら)ふ、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
 勉強したことを繰り返し考えて、繰り返し行っているうちにその道理がわかり、すらすら実行できるようになることは、喜ばしいことだ。

巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すくな)し仁(じん)。
 巧(たく)みな言葉を使って、人に気に入られようと表情を取り繕う者は、仁(じん)という思いやりの心が欠けているということである。

秦(しん)(紀元前221から紀元前206年)
 紀元前3世紀には、秦(しん)の王が中国を統一する帝国を作り上げたのです。そして、はじめて「皇帝」を名乗ったのです。それを「秦の始皇帝」といいます。この秦(しん)は、北方の遊牧民の侵入を防ぐために万里の長城を完成させたのです。この万里の長城は、全長が約2,400km。天然壁を含めれば、8900km。高さ6-9m、幅約4.5m。長いのです。中国各地で作られていた防壁を秦の始皇帝がつなぎ合わせて完成させたのが万里の長城なのです。そして、現存の万里の長城の多くは、明(みん)の時代に作られたものなのです。(1368~1644)北方の遊牧民は、馬を使っていたので、その馬が飛び越せない高さにしたといわれています。

 厳しい政治に対し反乱が起きて、各地に広がり、統一したのち15年で滅びてしまいます。

漢(かん)(前漢:紀元前202~紀元8年 後漢:25~220年)
 中国を統一した漢(かん)は、紀元前2世紀の武帝(ぶてい)のとき、朝鮮半島に楽浪郡などを設けました。そして、中央アジアも支配下に入れて大帝国になったのです。漢(かん)の初代皇帝となったのが、劉邦(りゅうほう:紀元前247~紀元前195)です。彼は、農家出身で、国内で反乱が起きると、秦(しん)を打倒するために挙兵しました。そして、項羽(こうう)と協力して秦(しん)を滅ぼしたのです。ところが、その後、項羽(こうう)を倒したのが、先ほどの劉邦(りゅうほう)なのです。人生、何が起こるかわかりませんね。

司馬遷(しばせん)について:紀元前145年頃~紀元前86年頃
 30歳頃から「史記(しき)」を書き始めました。彼が48歳のとき、匈奴(きょうど)に敗れた将軍である李陵(りりょう)を弁護したため、武帝の憤怒を買い、宮刑(去勢の刑罰)に処せられてしまいました。彼は、その後も執筆に全力を注いだそうです。

シルクロード(絹の道)
 ドイツの地理学者であるリヒトホーフェンが使った「絹街道(Seodenstrassen)」がシルクロードとなりました。
タクラマカン砂漠を「飛ぶ鳥もなく、地に走る獣もいない。ただ、白骨をたよりに歩くのである。」玄奘(げんじょう)法師はその過酷さを表現しています。直線距離で9000km。

ローマ帝国 → 中央アジア ぶどうが運ばれました。
ローマ帝国 ← 中央アジア 絹や絹織物が運ばれました。
中央アジア → 漢(かん) ぶどう、馬が運ばれ、仏教が伝わりました。
中央アジア ← 漢(かん) 絹や絹織物が運ばれました。

そのほかに、西方から漢(かん)に伝わったもののなかには、胡瓜(きゅうり)、胡麻(ごま)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)があります。

漢(かん)は、西方の外国を「胡(ふー)」と呼んでいました。だからなのか知りませんが、「胡(ふー)」のつく言葉が多いのです。

汗血馬(かんけつば)
 現在のキルギスあたりの名馬。飛ぶツバメを踏んで走っていくよう。武帝(ぶてい)が手に入れて喜んだ馬。
一日に千里を走りぬけたといいます。約500km、実際は、400km。血のような汗を流すことから、「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれたそうです。

中国の紙作り
 前漢(ぜんかん)の時代に世界で初めて発明された紙。このころ、日本は弥生時代でした。
後漢(ごかん)の時代に改良され、質もよくなったそうです。現在もこのときに開発された技術は受け継がれているのです。

中華思想について
 中国は文明の進んだ世界の中心だとする思想です。したがって、周辺諸国は、中国に「朝貢(ちょうこう)」をするのが慣習となったわけです。この周辺諸国は、野蛮なという意味の「蛮(ばん)」「夷(い)」という言葉で呼ばれていました。

中国から見て
東側諸国を「東夷(とうい)」
西側諸国を「西戎(せいじゅう)」
北側諸国を「北狄(ほくてき)」
南側諸国を「南蛮(なんばん)」
と呼んでいたそうです。

甲骨(こうこつ)文字
 中国は19世紀末、「竜骨(りゅうこつ)」が売られていました。この「竜骨(りゅうこつ)」は古い動物の骨のことでした。あるとき、学者がこの骨にさまざまな形が刻まれていることに気づいたのです。それが、「甲骨(こうこつ)文字」の発見だったのです。1899年のことといわれています。
 殷(いん)では、亀の甲(こう)や牛の骨を火であぶり、できたヒビで占われてその結果を記すのに「甲骨(こうこつ)文字」が使われていたそうです。

この時代の年表
紀元前6000年 農耕、土器を使う文化があらわれました。
紀元前1600年 殷(いん)がおこりました。甲骨文字や青銅器が使い始められました。
紀元前1100年 周(しゅう)がおこりました。
紀元前770年 周(しゅう)が乱れ、春秋時代に突入です。
紀元前551年 孔子(こうし)が誕生し、その後、儒学(儒教)を広めます。このころ鉄製の兵器、農具の使用がはじまりました。
紀元前403年 戦国時代に突入です。
紀元前221年 秦(しん)の始皇帝が中国を統一しました。万里の長城を築きました。文字・貨幣・単位が統一されました。
紀元前202年 今度は、劉邦(りゅうほう)が中国を統一しました。
紀元前136年 儒学(儒教)が国の正統な学問となりました。
紀元前108年 武帝(ぶてい)が朝鮮半島に楽浪郡(らくろうぐん)を設置しました。
紀元前97年 司馬遷(しばせん)の「史記」が成立します。

ここからは、紀元後のお話です。
8年 前漢が滅びます。
25年 光武帝が中国を統一します。
57年 倭に金印を与えます。
105年 製紙法が改良されていきます。
107年 倭が生口(せいこう:いわゆる奴隷)を献上します。このころから、シルクロードによる東西交流が盛んになりました。
220年 後漢が滅びました。

ちなみに紙の使用は、前漢にはあったとするのが通説になっています。

とりとめもなく書いてしまいましたが、ゆっくり読んでくださいね。

今日は、この辺でおしまいにしましょう。次回まで、さようなら。

 

TakeTea_44
作成: 2021/05/26 (水) 21:33:02
最終更新: 2021/05/26 (水) 21:55:28
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1
TakeTea_44 2021/05/26 (水) 21:33:53

次回は、いよいよ日本列島が誕生します。

2
TakeTea_44 2021/06/16 (水) 20:18:44

中国文明の特徴を三つあげてみましょう。