喧嘩の勝ち負けを判断する際の基準というものは長らく喧嘩界隈で議論されてきたことだ、というのは読者の方々の間では共通認識されている事だろう。それは喧嘩に勝ち負けを付ける必要がある、という根本的な価値観があるからかもしれない。勝ち負けのない喧嘩ほど虚しいものは無いためだ。しかし、過疎化した現在の喧嘩界隈は、喧嘩の勝ち負けの基準を決めることの必要性が、別の理由で増しているように見える。
元来、喧嘩という文化は小さいコミュニティ内(当然、ニコ生など、何千人ものリスナーを巻き込む形も存在しているが、喧嘩界隈というにはコアではない為、省く)で行われており、そのコミュニティの中で優劣を付けることを選手─────俗に言う「喧嘩師」は楽しみとしていた(それは今でもそうだろう)。当然、古参の中にはユーモアや喧嘩そのものの面白さに惹かれ、勝ち負け等どうでもいい輩が居る。しかし、大抵の人々は勝ちたいという気持ちでやっているのは事実だろう。そして勝ちたいという人々の中の、特に承認欲求が強い輩は、客観的な勝ち負けの基準を求め、争う。客観的な基準を作り、勝ちの基準を満たせば、相手がいくら吠えたところで、大衆が味方してくれるため、ダメージが無いからだ。
しかし現在の喧嘩はどうだろう。過疎化した界隈での喧嘩を、わざわざ文章に起こしてレフェリーをする人など居ない。過疎化した界隈で喧嘩したところで、勝ち負けを判断するのが喧嘩をしている二人だけならば、大衆的な価値観などゴミ同然にも等しい。そして両者の勝ち負けの価値観を述べあったところで優劣を付けるのは難しく、結局勝ち負けがつかない、なんて事は日常茶飯事であろう。最初にも述べたとおり、勝ち負けがつかない喧嘩というのは虚しいものだ。過疎化することにより喧嘩がつまらないものとなり、それに呆れて更に過疎化する…というサイクルが、まさに今起きているのだ。
このサイクルを止めるためには「普遍的な喧嘩の基準」を制定するべきである。何故なら普遍的であれば、両者間での勝ち負けの認識齟齬は先ず解消されるだろうからだ。そして私は、その基準の正当性はある程度欠けていても問題は無いと考える。仮に正確に結果が出なかったとしても、喧嘩の勝ち負けを出した、という事が大切であり、それを受け入れるという界隈の姿勢を作るのが大切であるからだ。例えば、Twitterでの投票で勝ち負けを決める際、匿名性のため正確に反映されにくいが、Twitterの投票を、人々が受け入れている普遍的な勝ち負けの基準にしてしまえば、勝ち負けは必ず決まり、人々は投票で勝つためにあらゆる策を考え、勝敗のつかない喧嘩による悪循環は止まるだろう。よって正当性はある程度かけても良いが、何かしらの基準を制定し、それを浸透させるべきだ。
あのぉ。
どうしてそんなに問題視したがるんすかね。
勝ち負けが実感できない不確定要素の多さは頭の悪い人特有の感覚だと思ってるんですよ。
一定の客観能力を持っていれば勝ったかどうかなんてすぐわかる。
ランキングなんてものに頼らなくてもね。
はいこれでもうその内容の半分は解決したね。
不安になったり呆れたりつまらないと感じる人は消えていいと思うんだよ。
だって合ってないでしょどう考えても。
俺は不満とかないよ。
暇なときに覗くとお前みたいなのがトピック立ててくれてるわけだろ?
十分じゃんw
このサイクルを止めるためには〜って止めなくていいから…。
すげーいい感じで回ってるから。
変な心配しなくていいよ。
それより客観的評価をろくに与えられない自分を心配すべき。
崩れ掛けのジェンガみたいな腰を丁寧に上げたところ悪いんだけど、このスレッドはもう消費期限切れなんだよね〜😭😭また喧嘩する機会があるといいねクソ雑魚
腐ってたら食わないけど廃棄処分されるちょっと前のコンビニ弁当くらい別に食っても腹壊さないでしょ。
はい論破。