どうも、アベル(元名)です。諸事情(リアルが多忙になった為)遅レスとなってしまった。
大変申し訳無い・・・これでは、まるで俺が“敢えて詠み人知らずとだけ対話を嗜み、他者との交流/会話を控えた”やらしい人物みたいではないか。
一月が経過しそうになった所で、見るに絶えない“下手くそ”な文章でお返ししたいと思います。
論争が趣旨では無いので、敢えて“考え”に触れず、翠さんの感じた疑問点を中心に答えたいと思います。
「知識」はどこからやって来たものなのか、という疑問が生じる。
んーと、持論だけど、その“知識”ってのは元は“認識”を元にして辿り着いた「最終地点」だと思うんですよ。
具体化すると、「大陸の移動(認識)」⇒「世界は元々ひとつの大陸だった(知識/最終地点)」って感じ、超大陸パンゲアも、飽く迄は〈認識〉から辿り着いた《知識》の形でしか無い。
世界五分前創造説含め、超越的原理全て含め、『例えば「我々人類を圧倒的に超越した不可知(神)の存在が超越的な能力を用い、我々に認識をさせた。」という形である』と釘刺しすれば別に変に疑問で覚える事でもない、何故なら“有り得ないと確証付けれる事が無い”から。
というか、我々人類って“水槽の脳”や“仮想現実説”を完全に論破する事が未だに出来てないから、尚更何とも演繹する事も出来ない為結局何とも言えなくなってしまう、更に吟味すればそれ以前に“確証的に在る物”すらも未だに突破出来てないんだから。
私の想像の域を出ないはずなのに“実際に”五分前に世界が創造され、想像の域を超えていることになる。
そら我々人類を想像の域を遥かに超越するでしょうねw
想定した相手ってのが超越的存在か訳ですから、「出ない“はず”」今の我々が認識できてる“世界”という鳥籠の中に於ける“一般論”に基づくならば、確かに「は?」ってなっちゃう話。
ただ「私が『世界五分前創造説』を唱えている」というだけの無駄に壮大な話どまりになる
無駄に壮大話しとは言えど、「我々は『“世界五分前創造説”という哲学』を思考し、嗜んでる。
また、世界五分前創造説に依る人的被害食らった」訳では無いのだから、別に全然良いと思いますがね。
あと、「だけが本物」ってのは、一体どういう意味なの?“5分という時間数だけが”ってニュアンスに感じたけど、あってる?とすれば、別にバートランド・ラッセルが適当に“五分”という数字に選んだから、特に特別的な理由とかは無いよ。
時間数が“1分”であろうと“10分”であろうと“1時間”であっても、思考の内容は「条件の時間数」が変更されるだけであり、特に構造自体に変化はないとおもわれる。