こんばんは。
トピ立てありがとうございます。
1ヶ月以上前の話になると思いますが、正直あまり覚えていません。
ねもさんと絡んだときにつぶやいていたのを拝見して、適当に突っ込んだような気がします。
ねもさんにはどういう経緯であのような話をしていたか説明していただきたいところですね。
さて。記憶を呼び戻してみたところ、僕はあのとき、「事実判断」よりも「価値判断」が先立つと主張したように思います。
その根拠として「ゲーデルの不完全性定理」を例にあげました。
事実判断とは、調べたところによると
事実判断とは論理的に導かれたものであり、客観的なものを言います。 価値判断とは人それぞれの価値観であり主観的なものを言います。
ということらしいです。
そこで、たとえば、論理的に導かれた、客観的なものとして「三角形の内角の和が180°」というユークリッド幾何学があります。
これは論理的かつ客観的な真理でしょう。
ところが、後に「モノサシを使わずに書いた三角形の内角の和が180°ではない」ことが、非ユークリッド幾何学によって証明されることになります。
それからしばらくして論理や数学が絶対ではないことを発見したのがゲーデルさんですね。
その具体的な内容について、僕には難しすぎてよくわからないのですが、いろんな学者さんが言うには世紀の大発見らしいです。
何がそんなに騒ぐことなのかと言うと、たとえば先程の例で説明するなら、「三角形の内角の和」について、別々の論理的かつ客観的な真理が存在しているという点でしょう。
しかも、これらは片方の真理を否定するものではありません。
真理1「三角形の内角の和は、180°である」
真理2「三角形の内角の和は、180°ではない」
両者が同時に成立するということは、論理的な真理が一つではない(絶対ではない)ことを意味し、また「論理的に導かれたものが客観的なものになるわけではない」ことを意味しています。
そこには自覚の有無に関係なく、「特定の論理の選択」という主観が介在していたということになります。
というか、事実判断が絶対的なものではない以上、価値判断にならざるを得ません。
この話は喧嘩界の他のみなさんも過去に言っていた方が何人かいらっしゃると思いますが、今更そんな話するなとか言わないでもらえると助かります…。
ヒュームさんは18世紀の哲学者ですよね。
20世紀の大発見であるゲーデルさんの「不完全性定理」より前の思想なので、「論理的なものは正しい」という前提で「事実判断」を定義付けており、その上で「事実判断に価値判断を与える過程で論理飛躍している」というような主張をしているかと思いますので、問題として扱っている領域がまったく違うと思います。
双方の考え方は能動的に対立しているわけではないので、タイトルにお二方の原理と定理を並べることはちょっと不自然に感じますね。
トピックは編集ボタンから書き換えることもできるのでよかったらお使いください。
ヒュームさんの前提に則ると、その考え方自体は特におかしいとは思いません。
三段論法を使って形式的に正しい記述をしましょうということだと思います。
強いて言うなら、ある推論によって導き出された道徳判断において、形式的に正しかったとしても、「論理的に正しい」とは限らないということでしょう。
そして、真として前提に置いている「事実判断」ですら「絶対的に正しい」とは言えず、何かを言語化する過程では主観的な判断を避けては通れないということです。
事実判断「赫子は男である」
- 論理的に
- 生物学的に
- 科学的に
- 定義的に
- 解剖学的に
上に箇条書きにしたような、この判断を下すための準拠枠が真であることを証明するものがありませんからね。
あくまで暫定的な言明にしかすぎません。
どの準拠枠を採用し、どう判断するか。
この過程に価値判断が存在していると考えます。