>> 4
実に自然な論理的操作だと思います。
以下は、僕が言及すべきことではないような気もしますが、
折角当トピックに遊びに来ていただいたのでちょっとしたゲーム程度に・・・。
〈安心〉⇔〈興奮〉
〈自分〉⇔〈他人〉
この二つの対比を二項対立とすることに特に異論はありません。
しかし、この二つの二項対立を無条件に重ね合わせることは、
論理的必然性に欠ける操作だと指摘される恐れがあります。
世の中にはこんな人がいるようです。
女装した自身の肉体を鏡で見て性的興奮を覚えるのだとか・・・。
この事例については、〈自分〉かつ〈興奮〉を満たす反例と見なすことが可能かと思います。
この事例を提示されたとき、、(あろく信者)さんから可能な反論は大きく分けて以下の二つでしょうかね。
〈興奮〉の対象となっているのは〈自分〉ではなく〈他人〉である
オナニー者は、鏡に映る〈自分〉を〈他人〉として認識しているため、〈興奮〉することが可能となっている。
したがって、当該事例は反例とはならない。
当理論には適用の対象範囲が存在し、あたおかは対象外である
「また精子をブッかけた場所に自分の顔が映るようにすると、顔射された感じに!」
プリクラのデコレーションみたいなノリでこんなことを平然と口にする人物は紛れもなく対象外であり、当理論で想定している一般的な人間には該当しない。
したがって、当理論に欠陥はない。
ちなみに・・・、(あろく信者)さんの理論に沿うと、
当該事例において〈興奮〉が生じていることは確定できるとして、〈自分〉or〈他人〉に議論の余地があると思い、反論①を考えました。
また、理論には〈対象内〉⇔〈対象外〉という二項対立が想定できるため、反論②を考えました。
そして、反論①も反論②も、どちらを提示しても議論は平行線になり得ると僕は考えています。
、(あろく信者)さんは「認識」という観点で〈興奮〉の対象が〈他人〉であると論じるわけですが、「物理(肉体)」という観点で考えたときは〈興奮〉の対象が〈自分〉であると言えてしまうわけです。
じゃあ、どちらの観点が妥当なのか?という論争に発展しかねませんね。
このとき、>> 4の説明では〈自分〉⇔〈他人〉という二項対立を「認識」という観点で定義しているのかどうかが分かりませんので、付け込まれる隙があるかと思います。
明示されていない前提を共有できなかったとき、どちらが悪いのか?
文章力不足 vs 読解力不足のありがちバトルになり、平行線になるかと。
オナニー者が本当にあたおかであるかどうかは断言できないかと思います。
なぜなら、女装オナニーの経験者が少ないだけで、一般人もやってみたら普通にハマっちゃう可能性があるからです。
その可能性を否定できない以上、オナニー者が実は一般的な人間である可能性を否定できないことになり、無批判に「対象外」とすることはできません。
ここでは、オナニー者を「対象外」とできるかどうかが論点となり、
決着にはデータ(例えば、オナニー者の100%が知的障害を有している等)が必要となるでしょう。
そんなデータは流石になさそうなので、こちらも平行線になるかと思います。
以上、こんな流れになるかな~と思いますが、異論(漏れはここでこう切り返すぜ!等)がありましたら是非聞かせてください。
ちなみに、僕は元ネタのトピックをちゃんと読んでいないので、内容重複・前提のズレ等ありましたら適宜読み飛ばしてください。