お前も言っているように考えたいからだ
今のお前は最弱に何を求めている?
わかりました、その答えに近づけるようにがんばります。
私は「私」をわからないし、その「私」が「考える」ということについては、もっとわかりません。
だから他者のことや、宇宙があること、なんてもっともっとわからない。
そもそもとして、わからないということが何なのかすら、わかっていないのです。
だって、わからないの主語ですら「私」なのですから。
大体、「私が考える」ことなんて後からしかわからない。
考えていたと感じられるから、主語に私が付くのであって、
考えている自分など、どこにいましょうか。
走るという行為を一つとっても同じこと。
走りたいと思って、走らないこともできるし、走ることもできる。
結局、どうにかして走っている。
走るを思うことと、実際に走るのには大きな壁がある。
私を走らせているのは誰か?
人は時に、「考える」という行為をシナプス信号のやり取りだと表現します。
しかし本当にそんなことを意識して、行動あるいは考える人などいるのでしょうか?
考える主体はどこか。
行動する主体は誰か。
私という存在は、何か。
結局、走ろうとして走っている。考えようとして考えている。
そこに矛盾がないから、主語が当たり前に思えている。
だとしても、考えるのも、走ろうと思うのも、行動の要因がある。
最近太ってきたな、走ろう。
問題が山積みだ、考えよう。
そうです。認識の問題になってくる。
何を認識するか。
どこかの民族は、私たちが一色だと思っている色を何色にも分けて考える。
確か、その色の細かい判断によって自分たちの生活が左右されるからだと聞く。
私たちは認識を元に、行動を決める。
しかしながら、その認識は果たして「私」のものなのか。
社会が形成したものではないのか?私はどこからが私なのか。
私、その存在の脆弱性、曖昧さ
ゆえに弱い。自らを疑いたくて仕方がない衝動、よって最弱を目指しているつもりです。
まぁ長くなりましたが、
誰でもよかったらご意見寄せてください。ではでは。