つまり、まとめるならば、羞恥から僕は逃げられないという事です。全てが敵ということです。誰かに殺されたくなくて逃げに逃げた先に待つのは、結局のところ僕なのです。裏切り者は僕でした。恥ずかしいですね。
ポイズンまさよしさんの言っていることはいささか傲慢な気がするな。
化粧した自分はありのままの自分じゃないのか?そうと結論付けてしまうのか??
化粧を施したのは自分自身だから、「何か」によって生まれる発想、「何かによって生まれる」行為、「何か」によって繰り返される筆舌に尽くし難き神列伝やクズ列伝…。これら全ては、ポイズンまさよしさんのありのままの行いなのではないか?
化粧することそのものが、ポイズンまさよしさんのありのままの行いであるから、それによって付随する行動も全てポイズンまさよしさんのありのままの行いじゃないかな。
新しい人格を作り出し、自分とは別の存在として「何か」を独立させ、俯瞰的な立ち位置となったありのままの自分が「何か」を指揮している…いや…むしろ、
その「何か」すら自分とは異なる自我を持っていると信じているのではないか…??と、さえ見えてくる。
すごく危険で、傲慢で、人間らしい考え方だと思う。
たとえば。
人は人が自然破壊を嘆いているだろう。
しかし、人とて自然の一部なのであるから、自然である人がいかに「人工物と呼ばれる物」を作って豊かな生活をしながら「自然破壊と呼ばれる行為」を嘆き続けたところで、それもまた自然の一部である…と。
なぜ、鳥の巣は自然の産物なのに、家は人工物として分けて考えるのか。
人間の傲慢さ故だ。
ポイズンまさよしさんの思考はまさに、それに似ている。
ここでいうところの、自然が「ありのままの自分」で、自然破壊が「何か」に相当すると思ってくれるとわかりやすい。
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