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法介
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「52位」と「六即」の関係が示されております。
「六即」の内容は以下の通りです。
1.理即とは、理の上では衆生はことごとく仏性を備えてはいるものの、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。
2.名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位をいいます。
3.観行即とは、名字を知ってその教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位をいいます。
4.相似即とは、修行の結果、仏の覚りに相似した智慧が得られる位をいいます。
5.分真即とは、分証即とも言って、真理の一部分を体現している位をいいます。
6.究竟即とは、完全なる覚りに到達している位をいいます。
一心三観について
天台智顗は『維摩經玄疏』の中で、
今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。
大正蔵テキストデータベース
「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」
と述べら、一心三観は「所観の不思議の境」と「能観の三観(能観の智)」と「証成」の三つの意味があると申されております。
次に、
一明不思議之觀境者即是一念無明心因縁所生十法界以爲境也。問曰。一人具十法界。次第經無量劫。云何
大正蔵テキストデータベース
「一に不思議の観境を明かすとは、即ち是れ一念の無明心の因縁もて生ずる所の十法界、以て境と為すなり。」
所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。
我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となる訳です。
真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だとこの『維摩經玄疏』の中では述べられております。
私達が朝夕に勤行の中で十如是を三遍繰り返し読んでいるのは、凡夫の無明の一念が因となって立ち上がっている仮在の世界観(凡夫の仮)を打ち払い、真理を悟った仏の心を因として真実の実相(仏の仮)を観じとっていく修行を実は行じているのです。
その十如是の「相」を中心にした仮諦読みは、「一仮一切仮」の即仮を体現している訳ですが、その因となる対象(境)の「相」が仏の十法界の相を顕された十界曼荼羅御本尊にあたります。
能観の三観について
一心三観に含まれる三つの意味の二番目の「能観の三観」について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
ここでいう「観行即」とは最初に紹介しました六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の中の観行即です。能観はこの六即の中の三番目の観行即にあたるということで、己心に仏性を観じとる階位にあたります。
仏性を観じとるとは具体的にどういうことかと言いますと、仏性は仏の「性」で、十如是で言うところの「性」にあたります。我々凡夫は凡夫の空・仮・中の「空」、即ち無明の一念の心を起点として判断し、そして行動を起こします。ですから自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものなのです。(心から生ずると書いて性)
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」というのですが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話でした。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相を「仮諦」といいます。
【一仮一切仮】(通相三観の仮)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)亦有非空の従仮(仮観)
※ 全てが仮の即仮
それに対し「空」は、仏性を心で観じとっていく心を中心にした観法で、具体的に言えば、その仏性、即ち仏の心とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
仏は実在の「有」から解脱した「空」の天上界を住処としています。その空を破して「非空」で有の実在の世界に出現するわけですが、これは仏が用いる「方便」の姿です。非空という方便を使ってかりに「有」の世界に現れるわけで、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有」の「空」の世界に戻ります。しかしなぜ仏の事を「空」ではなく「非有」と表現するかと言いますと、方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれているのです。我々が朝夕に唱える『自我偈』の中に、
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
というくだりがありますが、その意味は次のようになります。
「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
『自我偈』の前に読む『方便品』では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が述べられています。この『方便品』を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。そしてここ『自我偈』の読誦は、我々凡夫が仏の「空」を自らの心に観じとっていくところなのです。十如是で言えば「性」を中心にして読む番の空諦読みの十如是です。
仏は方便を用いて「有」の実体の世界に現れ(従空入仮観)、方便を取り払って(非有)空の住処へ戻ります。凡夫はその逆で、有(実体)を完全に寂滅して「空」に入ります(従仮入空観)。
【一空一切空】
空(凡夫の空観)亦空 従仮入空
空(仏の空観) 非有 従空入仮
空(悟りの空観)非有非空
空を方便として滅して有の世界に「非空」で顕れる仏の空観(従空入仮観)を観じることで、凡夫が「有」を滅することなく有(実体)を空(縁起=因果)へと転換することが出来ます。
『摩訶止観』卷第三上には次のようにあります。
從空入假名平等觀者。若是入空尚無空可有何假可入。當知此觀爲化衆生。知眞非眞方便出假故言從空①。分別藥病而無差謬故言入假。 平等者望前稱平等也。前觀破假病不用假法但用眞法②。破一不破一未爲平等。後觀破空病還用假法③。破用既均異時相望故言平等也。
大正蔵テキストデータベース
「此の観は衆生を化せんが為なることを。眞は眞には非ずと知りて、方便として仮に出づ、故に従空と言う。」①
(仏は非空から仮に入るから従空入空観という。)
「前観は仮を破して仮法を用いず、但だ眞法を用いるのみ。」②
(凡夫の空・仮・中は俗諦を破してただ真諦を用いるだけ)
「後観は空を破して還た仮法(非空)を用う。」③
(仏の空・仮・中は非空(有)から非有(空)へ入空観する。)
この意味するところが先に紹介しました『維摩經玄疏』の中の「能観の三観」についての説明文にあたります。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心(凡夫の従仮入空観)を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず(仏の従空入仮観に入る)。而して能く心の空・仮(真実の仏の空・仮)を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす(悟りの空・仮の非有・非空)。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理(一空一切空観)を照らす。此れは即ち観行即(己心に仏性を観ずる位)なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)