一心三観について
天台智顗は『維摩經玄疏』の中で、
今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。
「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」
と述べら、一心三観は「所観の不思議の境」と「能観の三観(能観の智)」と「証成」の三つの意味があると申されております。
次に、
一明不思議之觀境者即是一念無明心因縁所生十法界以爲境也。問曰。一人具十法界。次第經無量劫。云何
「一に不思議の観境を明かすとは、即ち是れ一念の無明心の因縁もて生ずる所の十法界、以て境と為すなり。」
所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。
我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となる訳です。
真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だとこの『維摩經玄疏』の中では述べられております。
私達が朝夕に勤行の中で十如是を三遍繰り返し読んでいるのは、凡夫の無明の一念が因となって立ち上がっている仮在の世界観(凡夫の仮)を打ち払い、真理を悟った仏の心を因として真実の実相(仏の仮)を観じとっていく修行を実は行じているのです。
その十如是の「相」を中心にした仮諦読みは、「一仮一切仮」の即仮を体現している訳ですが、その因となる対象(境)の「相」が仏の十法界の相を顕された十界曼荼羅御本尊にあたります。