能観の三観について
一心三観に含まれる三つの意味の二番目の「能観の三観」について『維摩經玄疏』では次のように説明がなされています。
「能観を明かすとは、若し此の一念無明の心を観ぜば、空に非ず仮に非ず。一切諸法も亦た空・仮に非ず。而して能く心の空・仮を知らば、即ち一切法の空・仮を照らす。是れ則ち一心三観もて円かに三諦の理を照らす。此れは即ち観行即なり。」
(維摩經玄疏 529a11-15)
ここでいう「観行即」とは最初に紹介しました六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の中の観行即です。能観はこの六即の中の三番目の観行即にあたるということで、己心に仏性を観じとる階位にあたります。
仏性を観じとるとは具体的にどういうことかと言いますと、仏性は仏の「性」で、十如是で言うところの「性」にあたります。我々凡夫は凡夫の空・仮・中の「空」、即ち無明の一念の心を起点として判断し、そして行動を起こします。ですから自身に競い起こる全ての事象は全て自身の心が因となって生じたものなのです。(心から生ずると書いて性)
人間が視覚的に認識するさま(色相)を「相」というのですが、先ほど説明しました「所観の境」は、その相を中心とした「仮諦」のお話でした。凡夫が凡夫の心で認識している仮在の相を「仮観」といい、仏の心に照らされて顕れる真実の相を「仮諦」といいます。
【一仮一切仮】(通相三観の仮)
仮(凡夫の仮観)亦有
仮(仏の仮諦) 非空(有)
仮(悟りの応身)亦有非空の従仮(仮観)
※ 全てが仮の即仮
それに対し「空」は、仏性を心で観じとっていく心を中心にした観法で、具体的に言えば、その仏性、即ち仏の心とは「衆生を迷いの暗闇から救いたい」という仏の深い慈悲の一念です。その慈悲の一念が「一大事の因縁」となって衆生の住む実在の世界に仏は出現します。それがお釈迦様です。
仏は実在の「有」から解脱した「空」の天上界を住処としています。その空を破して「非空」で有の実在の世界に出現するわけですが、これは仏が用いる「方便」の姿です。非空という方便を使ってかりに「有」の世界に現れるわけで、方便(非空)で用いた「有」を払えば再び「非有」の「空」の世界に戻ります。しかしなぜ仏の事を「空」ではなく「非有」と表現するかと言いますと、方便として「有」を滅しているという意味がそこには含まれているのです。我々が朝夕に唱える『自我偈』の中に、
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
というくだりがありますが、その意味は次のようになります。
「人々を救うために、一度は(釈迦として)死んだ姿をとりましたが、実際に死んだのではなく、常にこの世界にいて法を説いているのです。私は常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。」
『自我偈』の前に読む『方便品』では、先ほど説明しました「仮」の真理である「諸法実相」をお釈迦様が声聞の弟子である舎利弗に諭している様子が述べられています。この『方便品』を読誦している時は、仏の空・仮・中の仮諦を体現しています。そしてここ『自我偈』の読誦は、我々凡夫が仏の「空」を自らの心に観じとっていくところなのです。十如是で言えば「性」を中心にして読む番の空諦読みの十如是です。