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ナチュラル
作成: 2024/10/26 (土) 21:21:53
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1
ナチュラル 2024/10/26 (土) 23:02:44

ぱぴ子:10/19(土) 午後6時18分

シュタイン君来たね!今からスタートでいいかな?

楽な道を選んだ:10/19(土) 午後6時19分

いいよー

ぱぴ子:10/19(土) 午後6時26分

いっぱい来たね^_^

ぱぴ子:10/19(土) 午後6時27分

簡単に自己紹介しときますね。
福岡住み44歳。趣味は映画、小説、観葉植物。好きな言葉は「武士は食わねど高楊枝」
「盃がないけえ、これで、互いの腕切って血ィすすろうや」
などですね。
シュタイン君も簡単にお願いします^_^

2
ナチュラル 2024/10/26 (土) 23:09:15 修正

>> 1
楽な道を選んだ:10/20(日) 午前12時08分

@ぱぴ子

試合開始まで先導していただきありがとうございます。礼儀には礼儀で応えたいのが私の性分ですので、まずは自己紹介を。しかし、私の名前や出自などには大して興味はおありでないでしょう。もし私の熱心なファンであれば話は別ですが、そうでなければ省略させていただきます。ここで語るべきは、私そのものではなく、私の思想、信条、そして言動です。それが私の本質であり、この場でいう“私”です。なので自己紹介の代わりに、私の主義を明示するところから始めさせていただきます。

まず、私が最近読んだ本の中で見かけた共感する言葉をお伝えします。ニーチェがかつて「音楽のない人生など誤謬にすぎない」と言ったのをご存知でしょうか? 私もまた音楽をこよなく愛し、文章に向き合うだけでは得られない感情の深みを音楽によって実感しています。ということで、今回は私の主義を音楽に絡めて説明していこうかと思います。音楽理論に詳しくない方にはやや退屈かもしれませんが、どうかその場合は遠慮なく読み飛ばしていただければ幸いです。

さて、音楽には「機能和声論」という理論があります。これは、複数の音(=コード)がどのような役割を果たすかを示す考え方です。トニック(安心感を与えるコード)、ドミナント(緊張感を生むコード)、サブドミナント(その中間に位置するコード)の三つに役割が分けられています。コードを簡易化するためにローマ数字で表記する「ディグリーネーム」では、ⅠとⅥmはトニック、Ⅴはドミナント、ⅡとⅣはサブドミナントとされています。ところで、Ⅲmの役割についてはご存じですか?

実は、Ⅲmは聴く人によってトニックともドミナントとも捉えられる、非常に曖昧なコードなんです。音楽の調性や背景によって解釈が変わり、さらに言えば、聴く側の感受性や認識によってもその印象が左右されます。クラシックの世界では、こうした曖昧さを嫌い、普遍的なルールに固執する向きもありますが、私はむしろ自由な音楽理論(これを自由派音楽理論と呼びます)を支持しており、こういった多様な解釈を尊重しています。

楽な道を選んだ:10/20(日) 午前12時08分

さて、ディベートにおいて数字や統計といった確固たる根拠に基づく意見は、多くの人が安心できる「トニック」な主張と言えるでしょう。いわば、「誰もが納得する安全策」とも言い換えられます。
一方で、哲学者たちが時折とるような、理解が難しくても鋭い問題提起を重視する姿勢は「ドミナント」に相当するものです。こちらは緊張感と挑戦に満ちており、多くの人が共感しにくいがゆえに、深く内省させられるタイプの主張です。

ところで私は、そのどちらにも偏らず、あえて「Ⅲm」的な立場を取るのが好きなんです。つまり、聞く人次第でどう捉えられるかが変わるような、多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです。客観性や数字に重きを置くディベートは、私の主義とは少々異なるため、今回はフリートークを選んだ次第です。私は数字やデータのみではなく、個々人が内省し、世界と向き合い、肌で触れた倫理などに重きを置いています。

最後に、私の好きな言葉をひとつ。「君を知ったその日から僕の地獄に音楽は絶えない」(『創聖のアクエリオン』より)。どうぞよろしくお願いいたします。

ぱぴ子:10/20(日) 午前10時13分

おはようございます。傾聴に値する自己紹介ありがとうございます。音楽の専門用語も勉強になりました^_^

特に興味を持った部分をピックアップします。

・ディベート
客観性や数字に重きを置く。

・フリートーク
個々人が内省し、世界と向き合い、肌で触れた倫理などに重きを置く。

↑ここです。面白いですね。シュタイン君自身が「聞く人次第でどう捉えられるかが変わるような、多義的で尖った意見を表明するスタイル」であるからこそフリートークを選んだと。なるほど。

フリートークにおいては客観性よりも個人の内面や主観が重要である。シュタイン君はこのような持論をお持ちである。合ってますか?

楽な道を選んだ:10/20(日) 午後12時42分

東京の雨は昨日の夜に止みました。

さて、「自由」とは何でしょうか。この問いこそ、私たちがここで向き合うべき最も重要なテーマの一つです。フリートークという言葉をそのまま解釈すれば、「自由な談話」という意味になるでしょう。すなわち、流れに従い、自然に生じた話題を手に取りながら、柔らかに身を委ねる行為です。唇の触れた沈書を撫で、そこから自らに最も馴染む思索を引き出し、研ぎ澄ました言葉で表現する。それは、渉猟した知識を濾過した後に残る、きらめく砂金のようなものであり、まさに「自」らに「由」来する。

───自由とは何か。

この問いに正面から向き合うならば、私は実存主義の哲学者サルトルを持ち出したいと思います。彼の思想に基づけば、自由がどのようにして個々人の主観と結びつき、存在を形成するかを説明できます。しかし、ここでハイコンテクストな哲学的議論に踏み込むことは避けましょう。退屈な論説を展開することで、読者があくびをしてしまうのは本意ではありませんので、ここではあえて控えさせていただきます。

私がこのフリートーク形式を選んだ理由は単純です。ディベートのように、客観性という枠組みに縛られた論戦よりも、少しだけ息をしやすいからです。ただし、これが主観を無条件に優先することを意味するわけではありません。むしろ、主観に固執しすぎることは一種の不自由です。私たちが自由に言葉を紡ぐように、審査員の方々もまた、どのように判断するかは自由です。彼らが客観性を重視するか、それとも私のような柔軟なアプローチを評価するかは、全く彼ら次第。ただそれだけのことです。その上で私はそうする、ただそれだけのことです。

最後に、少々私的な話をさせていただきます。先ほど、私は静かに自慰行為を済ませました。乱雑に転がるウイスキーボトル、鈍く響く二日酔い、雑然とした部屋の中、そこでまた一つの言葉を好きになりました。それが何を意味するかは重要ではありません。ただ、その言葉が私の中に刻まれたという事実があるのみです。どうぞ、この一節をお納めください。

「森日向子の凄○クを我慢できれば生★○出しS○X!」

これにて、私の言葉を終わらせていただきます。

ぱぴ子:10/20(日) 午後2時11分

主観を無条件に優先することを意味するわけではありません。むしろ、主観に固執しすぎることは一種の不自由です。

新たな言説が出てきてややこしくなってきたね。苦しくなったらたまには客観も使わせてねということでしょうか。

単純な質問です。

フリーに置いて重きを置くのは

・客観性
・個人の内面や主観

どちらですか?

楽な道を選んだ:10/20(日) 午後3時27分

「フリートークにおいては、客観性よりも個人の内面や主観が重要である。シュタイン君はこのような持論をお持ちだと伺いましたが、合っておりますか?」

───この質問自体は一見単純に見えるかもしれませんが、実はその表現の簡素さゆえに、「重要」という価値観が非常に広範囲に拡大されている現状があります。もし私個人のスタイルについて問われているのであれば、先述の通り、「私はそうする」と明言したように、確かに私は個人の内面に重点を置いています。しかし、Ⅲmの話をした際にも述べた通り、私は必ずしも個人の内面だけを重んじるわけではありません。むしろ、読者や審査員が私の言論をどう受け取るかによって、客観的だと評価される可能性もある。したがって、私の意見は主観と客観の双方の性質を兼ね備えているのです。

ただし、より広く「フリートークにおいて主観と客観のどちらが重視されるべきか」を考える場合、当然ながら審査員や聴衆の視点を考慮に入れなければなりません。これは私個人の性向にとどまる問題ではなくなります。高レベルの数学の問題が、短いほど解法が困難であるように、前提条件が曖昧な質問は逆に複雑さを増すものです。この質問もまた、そのような性質を帯びているのです。ここで思い起こすのは、サルトルが語った「自由の刑に処されている」という状態です。

したがって、「苦しくなったら客観的意見に逃げる」という解釈は誤りです。私は最初から客観性の枠組みを超えるかどうかの、いわばチキンレースをしているつもりです。主観と客観は相反するものではありません。主観的な視点が共有され、他者に認められたとき、それは客観的な意見となります。スイッチのように「主観」と「客観」を切り替える必要はないでしょう。客観的意見として受け取られる可能性は、最初から既にあるということです。

3
ナチュラル 2024/10/27 (日) 00:46:46 修正

>> 2
@ぱぴ子:10/20(日) 午後10時35分

シュタイン君は最初

「客観性や数字に重きを置くディベートは、私の主義とは少々異なるため、今回はフリートークを選んだ」

このように明言しています。

文面を字義に即して解釈すれば「フリーでは客観性に重きを置く必要はない」と言う結論が導けます。

さらには「多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです」とも言ってますよね。

多義的な主張は解釈の幅が大きい為、客観的ではありませんし、先述した内容を否定するものではありません。

そこまでは良かったのですが…
何故か

「私の意見は主観と客観の双方の性質を兼ね備えている」

「客観性の枠組みを超えるかどうかのチキンレースをしている」

などと、あたかも自身の主張に客観性が担保されてるかのような主張が散見されはじめましたよね。その主張を支えている根拠は以下の言説です。

「読者や審査員が私の言論をどう受け取るかによって、客観的だと評価される可能性もある」
「主観的な視点が共有され、他者に認められたとき、それは客観的な意見となる」

残念ながらこれは完全に誤った論理展開です。

まず、今話してるのはフリーにおける客観性と主観性の重要度の比較であって、シュタイン君の主張が審査員らにどう解釈されるかの推論ではありません。その上で、シュタイン君の多義的な主張とやらが結果として如何様にも解釈される可能性があったとしても、発言そのものに客観性が備わっているかどうかの根拠にはなり得ませんよね。色黒の日本人が街を歩いて黒人と勘違いされたとしても日本人が黒人になるわけではありませんからね。

それにしても今のシュタイン君の主張はあまり多義的には感じませんね。破綻してはいますが発言の解釈に迷う部分はさほどありません。

ことほど左様に論理破綻や一貫性の欠如が目立つ論理展開をしてまで「客観性」の担保にこだわるのは何故でしょうか?

当初の主張の通りに「フリーでは客観性に重きを置く必要はない」と言う立場で良かったのでは?

そしてもう一つ聞きたいのはシュタイン君の多義的な主張が共感を獲得して客観的だと解釈されたと仮定します。それは君にとって望ましいことなんですか?

楽な道を選んだ:10/22(火) 午後6時2分

ようやく論争の「ドミナント」が訪れましたか。しかし悲しいかな、いくら私が美しく演奏できても、連弾のパートナーが音を踏み外してばかりでは、素晴らしいセッションを奏でることは難しい。これまでのやりとりから推察するに、私の文章を十分に読み込んでいないようですね。もう少し繊細に文章を取り扱っていただければと思ったのですが、それも期待できないようです。ではここから、私の反撃を始めさせていただきます。

まず、あなたが私の主張を「客観性の担保」だと捉えている点についてですが、それは大きな誤解です。私は、自分が主観と客観の微妙な境界線上で踊っていることを明言しており、その姿勢を「チキンレース」と表しました。Ⅲmの役割のように、私は主観的すぎると切り捨てられることもあれば、逆に客観的だと認められることもある。その不安定さを受け入れ、双方の性質を兼ね備えていることを強調したに過ぎません。決して、私が常に客観的で中庸な立場にいると言いたかったわけではありませんし、客観性の保証に固執しているわけでもありません。あくまで「客観的だと受け取られる可能性がある」程度の表現に留めておいたのは、その胎動のようなダイナミズムを楽しんでいるからです。

さて、他者の認識と客観性は切っても切り離せないものです。あなたの例で言う「黒人だと思ったら、実は色黒の日本人だった」という仮説も、その背後には前提が潜んでいるわけです。真に客観的な認識とは、色黒の日本人という事実が、客体に共有されている点にあるわけです。たとえば、「肌の黒い人物を街で見かけ、80%の日本人が黒人だと認識した」という状況を考えれば、彼らの認識が客観性の土台になります。日本人なのか黒人なのか究明する場合、有効な根拠として機能します。これこそ、ディベートで頻繁に用いられる「客観的な根拠」ではないでしょうか。

このように、客観性が重要な要素となる以上、私が審査員や読者の目を意識するのは自然なことです。賞金がかかっているわけですから、ディベートはもちろん、フリートークでも客観性を度外視することはできません。あなたにわかりやすく言い換えれば、「審査員や読者に認めてもらうため、フリートークでも客観性は重要だ」といったところでしょうか。文脈を読み解けば、私の立場が誤っておらず、一貫していることをご理解いただけるかと思います。

4
ナチュラル 2024/10/28 (月) 23:25:40

>> 4
@ぱぴ子:10/22(火) 午後10時39分

驚かないで聞いてくださいよ。シュタイン君、変なものが憑いてるかもしれません。落ちついて聞いて下さいね。

今話題に上がっている二つの言葉を考えてみましょう。

【多義的】
多様な解釈の余地がある曖昧な性質。多くの意味にとれる様。

【客観的】
主観から独立していて、事実や数字など誰もが等しく認知可能な絶対的、普遍的な性質。

これらは相反する性質です。つまり「多義的」である以上「客観的」はありえないのです。

これを踏まえて次は数学の授業を思い出してください。習いましたね?命題が真であればその対偶も必ず真になります。

 
P→客観的
Q→誰もが等しく認知可能

としましょう。

P⇒Qが真
であれば
¬ Q⇒¬Pも真
となります。

つまり

「誰もが等しく認知可能でないならば、客観的ではない」

これは「真」です。

さて、ここでもまた君の自己紹介を思い出してみましょう。以下のように言っています。

「聞く人次第でどう捉えられるかが変わるような、多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです」

そうなんです。君は最初から自分で言ってるんですよ。

「自分の意見は客観的ではない」

と。ね?おかしいでしょう?

@ぱぴ子:10/22(火) 午後10時39分

つまり、シュタイン君が度々呟いていた

「自分が主観と客観の微妙な境界線上で踊っている…」
「私の意見は主観と客観の双方の性質を兼ね備えている…」
「客観性の枠組みを超えるかどうかのチキンレースをしている…」

↑これ全部オカルトなんです。
踊っているのではなく、踊らされていたのかもしれませんね。シュタイン君、見えないはずのものを見てるんですよ。何やら言動もずっとヘンテコだし、一回視てもらった方がいいかもしれませんね。

ヘンテコと言えばシュタイン君の出した例えの話です。

「肌の黒い人物を街で見かけ、80%の日本人が黒人だと認識した」という状況を考えれば、彼らの認識が客観性の土台になります。

これも残念ながら誤りです。

客観性は「事実」多義性は「曖昧」です。双方の概念を過不足なく例えるなら以下のようなります。

客観性

黒い日本人が「私は黒いですが日本人です」というフリップを持って歩いてる状態。

多義性

黒い日本人がデカいラジカセを肩に担いでヒップホップかなんかをかけながら歩いている状態。

つまり見る人によって黒人なのか日本人なのか答えが割れる時点で、もうそれは客観的ではないんですよ。

5
ナチュラル 2024/10/28 (月) 23:37:14

>> 4
@ぱぴ子:10/22(火) 午後10時40分

「審査員や読者に認めてもらうため、フリートークでも客観性は重要だ」

これもおかしな話です。

前回のレスでも話しましたが、シュタイン君は自己紹介で

「客観性や数字に重きを置くディベートは、私の主義とは少々異なるため、今回はフリートークを選んだ」

このように明言しました。

文面を字義に即して解釈すれば「フリーでは客観性に重きを置く必要はない」と言う結論が導けます。これ言うの2回目です。

今頃になって
「審査員や読者の目を意識するのは自然なこと〜賞金がかかっているわけですから〜」
などとエクスキューズを前置きしながら、しれっと意見を変えてきましたね。あまりに可愛くて騙されるところでした。

自家撞着の違和感を掻き消すようなキュートなキュートなエクスキューズでした🥰

もう一つ言わせて頂けば今のテーマは

「主観と客観、重きを置くのはどちらか?」

です。文脈を考えれば比重のことだと容易にわかります。主観と比べて、客観は重いか否かで答えて頂かないと意味がありません。

誤った方向に誘導しようとする狡猾な詭弁が忍ばされてます。ワルですね😎

可愛いのかワルなのか意見が別れそうですね。これがⅢmなんですね。

さて、もう一度お尋ねします。単純な質問です。

フリーに置いて重きを置くのは

・客観性
・個人の内面や主観

どちらですか?

@楽な道を選んだ:10/24(木) 午後9時39分

ふふ、実に素晴らしい挑発ですね。私の文章を正しく読めば簡単に終わる議論なので、筆を進めるまでもないんですが、せっかく賞金五万円がかかっていますし、楽しんで続けさせていただきますね。あなたの年齢を踏まえると、論破するのが少し申し訳なく感じますが…まあ、結果として踏みにじることになっても恨まないでください。終わったらいっそ友達にでもなりましょう。

「それにしても今のシュタイン君の主張はあまり多義的には感じませんね。破綻してはいますが発言の解釈に迷う部分はさほどありません」

この発言からもわかるように、どうやらあなたは私が使った「多義的」という表現をこれでもかというくらいに広く捉えていらっしゃるんでしょう。そうでなければ「破綻しているが解釈には迷わない」なんて奇妙なコメントはしないでしょう。

私が「多義的」と表現したのは、客観的と捉える人と主観的と捉える人、両者をメタ的に認識した場合のことにすぎません。つまり、「意味がどうとでも解釈できる」ということではなく、「客観的な評価と主観的な評価が人によって極端に分かれる賛否両論の意見」という意味で述べたのです。あなたがここまで違う解釈をしていると、そのような意味合いでも多義的なのかな、と思ってしまいますが(笑)

機能和声論の話に戻りましょう。誰もが「主観的でもあり客観的でもある」と感じる中庸な立場は、ⅡとⅣというサブドミナントに対応します。これこそ、誰もが「中途半端」と感じる絶妙な位置であり、裏を返せば「客観的でも主観的でもない」という立場です。

一方、「トニック(客観的)」とも「ドミナント(主観的)」とも受け取れる両極端な立場がⅢmです。その両極端な構造を「多義的」という表現に対応させているのは、文脈を読めばおわかりでしょう。「客観的という意見は統計的には50%だが、その数字のみを見た場合には客観的とは思えない」「しかし、その50%の人は非常に強く信じており、その立場からは客観的と見える」。この2つの言説は視点が違うだけで、矛盾しません。

そういえば、椎名林檎の『長く短い祭』って曲ありましたよね。あなたからすると「長い」と「短い」が同時に存在するなんて矛盾でしかないんでしょうね。普通の人なら「両方の性質がある」ってわかりそうですが、辞書には「矛盾する」って書いてあるんですかね?

@楽な道を選んだ:10/24(木) 午後9時39分

強く信じる立場から見れば客観的、残りの50%から見れば主観的。各々の立場を考慮して性質を強調した。それだけの話です。にもかかわらず、メタ的視点を混ぜた上で、皮相的に「詭弁」「矛盾」だと言うのはいただけませんね。どのタイミングでどの側面を強調するかは嵐の河のように流動的です。その流動性を理解できず、静止画のように捉えるから、あなたは私の立場を見誤るのでしょう。

この「多義的」という表現を、比喩表現や対応関係の観点を度外視し、あたかも定義されたもののように扱い、表面的な辞書的知識に頼っているだけでは、私の主張を見逃すことになります。もう一度言いますが、「主観的」と「客観的」の二元的構造を「多義的」と表現した理由は、主観的に受け取られるか、客観的に受け取られるかの個人差が大きいからです。「文章の解釈が複数ある」という意味ではありません。

また、仮に「50%ほどの人が反対する」としても、それで直ちに客観性が失われるかは疑問が残ります。辞書に書かれている定義だけでは、物事の深さに触れることはできません。辞書の定義は薄っぺらいものでしかありませんので。「繊細に扱ってほしい」という私の言葉は、あなたには響かなかったようですね。

例えば、月の誕生を説明する「ジャイアントインパクト説」ですが、これに代わる他の説があることもご存じですか? 兄弟説、他人説、親子説など、さまざまな説がありますが、だからといってジャイアントインパクト説に客観性がないとは誰も言いませんよね。なぜならばしっかりとした科学的根拠に基づくから。そう、これがポイントです。賛否両論があるからといって、客観性が直ちに失われるわけではないのです。他にも「満場一致のパラドックス」という話があります。興味があれば調べてみてください。

つまり、あなたが持ち出した「普遍的な性質」という定義の一部を引っ張り出しただけでは、どこまで普遍的であるべきか、一人でも反対すれば普遍的ではなくなるのか、統計的に数値が高ければそれは普遍的なのか、といった点で議論の余地があります。さらに「主観から独立していて」という文言についても、客観性は主観の集合ではないのか、どのようにして独立しているのか、主観を離れて事実認識ができるのか、といった点も議論の余地が多分にあるわけです。

6
ナチュラル 2024/10/28 (月) 23:41:35 修正

>> 5
楽な道を選んだ:10/24(木) 午後9時39分

ここで、かの伝説的な試合「Selcia VS ひよこ餅」からの引用を使わせていただきます。

「それは…何なんです? この場での了解事項だったか。あるいは巷間信憑される『常識』か。定義だったり定説だったり事実だったりするのか。べつに当方はそのテーゼに反駁するつもりはありません。しかし本が一冊書けてしまうようなテーマ(客観と主観)に関して、その結論めいたことを唐突に言い出し、しかしそれに関して一切説明も無く、更にはそれを自明のこととして論を進めてゆく。論理的とは言えません。」

次に、「文面を字義に即して解釈すれば『フリーでは客観性に重きを置く必要はない』と言う結論が導けます」との指摘ですが、この解釈自体は間違いではありません。しかし、文脈を踏まえれば、これはディベートと比較した場合の話です。フリートークでも客観性が重要でないという意味ではなく、あくまでディベートに比べればという話でした。私が「客観性を度外視していない」と述べたのは、この誤解を避けるためです。

また、フリートークにおいて主観と客観のどちらに重きを置いているかについては既に回答済みですので、過去の発言をご確認ください。

最後に、あなたの黒人の比喩について触れておきましょう。前提として「黒い日本人」という事実を設定してしまっているため「論点先取」に陥っています。ラジカセ…?ヒップホップ…?よく分からない例えで奇を衒うより、まずは正しく例えましょう。もしかして過去に黒人と勘違いされた経験があるんですか? そのトラウマで固執しているのでしょうか。お気の毒に…。

【これまでのあらすじ】

私「主観を切り捨てない賛否両論の意見を出したいのでフリートークを選んだ」

ぱぴ子「てことはフリートークなら客観より主観の方が重要?」

私「どの観点での重要性な分からないが、私は主観の方を重要視しているよ。でも客観性も切り捨てたわけじゃないよ」

ぱぴ子「どっちがより重要?(二回目)」

私「だから主観だって。けど客観も一応意識するよ。切り捨てるつもりはないよ」

ぱぴ子「意見変えた!最初は賛否両論って言ってたのに客観意識してるとか!」

私「変えてないよ。極端に万人受けを狙っていないだけで、ある程度の票は集めるってことだよ」

ぱぴ子「誰もが認めなければ客観的じゃないんだ!ヘンテコ!で、客観と主観どっちがより重要?(ドヤ顔で三回目)」

私「キッザニア」

@ぱぴ子:10/25(金) 午後11時41分

涼しい秋風に、高く澄んだ空。秋冷の折、風邪など召されませぬようくれぐれもご自愛くださいね😉

さて、秋といえば街を歩く人達の格好って様々ですよね。まだ半袖もいます。ジャケットや長袖のシャツを羽織る人もいます。「今日は肌寒いな」「涼しいな」「丁度いいな」といった感じに人の体感は千差万別。これが主観です。

一方で、温度計の数値が25℃を表示したとしましょう。

それを見た人達が「20℃と表示されたぞ」「いや僕は30℃と表示されたと思う!」なんて意見がわれることはないよね笑

「25℃」は誰が見ても「25℃」。

100人中100人が見て「25℃」ですよ。この温度計の数値が「客観」です。

何度も同じことを言わされてアホらしいですが再度言います。

主観から独立して誰もが等しく認知可能な性質が客観性です。

シュタイン君の主張はこの事実的言明に矛盾している点において破綻しているというのが前のレスで私が主張した内容です。

もし君がこの主張に反論したいなら

【客観性とは、主観から独立しており、誰もが等しく認知可能な性質である】

↑これを否定すべきなのです。
「違う!解釈が間違ってる!」声を大にして繰り返しても意味がありません。主張を崩すなら根拠に反論する。基本ですよ。

だけどできる訳がないのです。これは根拠であると同時に事実だからです。語義そのものだからです。語義とは不変の真理。動かしようのないものだからですよ。

「客観的だという人は50%」なんて発想そのものが完全にナンセンスです。

なんですか?その「半分客観で半分主観」って笑

「温度計の数値は25℃を示していますが、25℃と読む人は50%です。残りの人は数字を無視して主観で読みます」

???
何?この世界。

「その50%の人は非常に強く信じており、その立場からは客観的と見える」

???笑わせないでよ

「やだやだ!客観は半分で残りは主観だい!これが多義的で比喩表現なんだい!」

可愛いのはもうわかったからあんまり困らせないでよ🥰

7
ナチュラル 2024/10/29 (火) 00:05:39 修正

>> 6
@ぱぴ子:10/25(金) 午後11時42分

  • 月の誕生は諸説ある

「客観的なものに普遍性が伴わない」ことを例示したつもりですか?

様々な説がある。裏を返せばどれも立証できるだけのデータやファクトが足りていないということ。現段階で仮説の域を出ません。仮説は事実ではありません。つまり客観的とは言えません。

  • 満場一致のパラドックス

全ての意見が一致すると逆にそのデータの信頼性が下がるという説ですよね。認知バイアスによって客観的判断が阻害された状態のこと。

で、これは何の反証ですか?
客観性を多数派をにすりかえて大コケしただけですよ?

確かに「多数派だから真である」は誤謬です。客観と多数は全く違います。多数が認めることは客観性の必要条件ですが、十分条件ではありません。多数派が絶対的に正しいわけではありません。

「キリスト教信者は世界で最も多い。だからその教義は真実だ」これは絶対的ですか?

  • 「客観性は主観の集合では?」

違います。客観的視点とは、個人の経験、感情、主義、信条などの主観を排除し、事実的側面に焦点を当てた見地です。

「客観性に重きを置く必要はない」はフリートークでも客観性が重要でないという意味ではなく、あくまでディベートに比べればという話だった。

もっともらしいようで、前提を考えると矛盾が見えてきます。

以下は君の発言の抜粋です。

①「聞く人次第でどう捉えられるかが変わるような、多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです」

②「多義的と表現した理由は、主観的に受け取られるか、客観的に受け取られるかの個人差が大きいから」

「この言葉は〇〇の意図で使った」と正当化ができるのは、〇〇をその言葉の概念から導くことが可能な場合のみです。

前回、数学の命題理論を用いてこちらが主張した

【誰もが等しく認知可能でないならば、客観的ではない。故に多義的な意見は客観的には成り得ない】

を崩せない限り②は失当です。ひいては「多義的な意見を表明するスタイルは客観性に重きを置くディベートと異なるためフリートークを選んだ」という当初の発言と、「フリートークであっても客観性は重要視する」という後の発言は論理的不一致となります。

@ぱぴ子:10/25(金) 午後11時42分

  • 色黒日本人の比喩は論点先取

論点先取とは立証すべき真偽不明な事象をその立証の根拠として用いる誤謬です。この例示で立証したいのは「多義性と客観性の差分」です。

この比喩は、とある色黒日本人が、一見して人種不明な風貌にも関わらず、フリップという客観的要因により判別可能となる様を「客観性」に例えたもの。論点先取とは構造が異なります。

論点先取とは「黒い日本人は日本人だ、何故なら日本人だからだ」このような小泉構文的トートロジーのことです。主張をする前に前提や推論に誤りがないか慎重に精査することをおすすめしますよ。

  • 椎名林檎の「長く短い夏」

一見矛盾してるように見えますが、時間的尺度と心理的尺度という二つの軸が忍ばされている為にレトリックとして成立しています。いわゆる撞着語法です。残念ながら今回の「客観、主観」はそれぞれ「視点」という共通軸にある為成立しません。シュタイン君の出す例示はどれも残念で嬉しいです。あ!これも撞着語法でした🤭

最後の「あらすじ?笑」はなかなかエグいね。

試合当初使っていた「多義的な意見」という文言が「主観を切り捨てない賛否両論の意見」という表現に変わってます。

既成事実であるかのように。

君は開始当初「多義的な意見」と言ってました。誰が見てもね。客観的にね笑

「私の意見は客観と主観双方の性質を兼ね揃えている」(10/20 15:37)などとも言ってます。

僕は一貫して「誰もが等しく認知可能でなければ客観的とは言えない。故に多義的である以上、それは客観的には成り得ない」と繰り返し主張しました。

これをを崩せないと悟って逃げを打ったんですね。

それが苦し紛れの「主観を切り捨てない賛否両論の意見」などと説明くさく「多義的」とは似ても似つかない意味不明な表現になってしまったんでしょう。

さあ文字数も残り少なくなりました。タイムリミットを考えるとこれが僕のラストヴァースとなる可能性は高いですね。

「主観」と「客観」のどちらが重要かを幾度か尋ねたのは、「客観」について色々喋ってもらう為でした。ごめんなさいね。「多義的」は君のアキレス腱だったのでね。これを切る為の布石です。

それでは。健闘を祈っています。

@楽な道を選んだ:10/26(土) 午後5時26分

───詩とは何かを答えるのは難しいが、何が詩であるかは答えやすい。

最近読んだメルロ=ポンティの本に書かれていた言葉です。美しい箴言ですね。概念的なものほど、その本質を説明するのは困難ですが、何がその本質に当たるかを示すのは簡単です。しかし、ある本質が明確に示されたからといって、それ以外のものがその概念に相応しくなくなるわけではありません。

「100人見て100人が認めるものじゃないので客観的じゃない!」

実に短絡的な主張です。95人が認めた場合は?90人だったら?一般的な感覚からすれば、それでも十分に客観的な根拠です。少数の異論が存在することは客観性を否定する理由にはなりません。

アメリカでは、陰謀論者が25%以上を占めることで知られていますが、未だに地球平面説を信じる人々が存在します(1%未満ではありますが、人口規模的に無視できない数です)。科学的な証拠を提示しても、彼らは「疑う余地がある」と反論します。温度計のように「見ればわかる」という基準で客観性を測るならば、地球もまた「見れば客観的だ」と言えますかね?しかし我々は宇宙飛行士ではないので、地球を直接「見た」ことがないのが現実です。では、あなたの世界では地球が球体であるという事実は客観的ではないのでしょうか?月の起源に関する様々な説と同じように、「どれも立証できるだけのデータが不足している」という見解に過ぎないのでしょうか?

念のために申し上げますが、「地球平面説は科学的に否定されている」だなんて言わないでくださいね。根拠が揃っているのは月も同様です。哲学者カール・ポパーが唱えた「反証可能性」によれば、理論が科学的であるためには「反証可能」でなければなりません。可能性が低くとも、完全に否定できない限り、反論は成り立ちます。疑おうと思えば何でも疑うことができるという構造から逃れられません。

また、すべてを疑った哲学者デカルトは、「現実世界で確かだとされるものでも、夢でないとは言い切れない(=胡蝶の夢)」と考えました。誰もが等しく認識できる「真理」を追求する西洋的な歴史の産物です。その結果、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」というコギトに到達しました。これこそが彼の真理でした。

私はこう思います。温度計ごときが「客観的の本質を示す」というのであれば、なぜ哲学者はこれほどまでに議論を続けるのでしょうか?バカみたいじゃないですか。

8
ナチュラル 2024/10/29 (火) 00:20:10 修正

>> 7
@楽な道を選んだ:10/26(土) 午後5時26分

私は原理的な部分に焦点を当てます。例えば「世界五分前仮説」のように、私たちが当然と思っていることも、深く掘り下げていくとその基盤は脆い。そうした文脈を踏まえれば、「誰もが等しく認識できる」ものが何か、「主観を独立した立場」とは何か、議論の余地は残ります。これを無視して「温度は誰でもわかるから客観的だ!」と簡単に片付けるのは学問への冒涜です。

また、「温度計」という形而下の物で「客観性」という形而上の概念を例えるのは誤りです。本質が互換できていません。極めてナンセンスです。

さらに、「論点先取」は「証明すべき命題を前提として用いる」というものです。たとえば、「日本人かどうか」が論点であれば、それが証明すべき命題であり、事実かどうかもわからないのに、それを前提に話を進めることは誤りです。統計が根拠として効力がある状態は、結論が不明瞭な状態でしょう。それを理解せずに、統計を基にした大衆の判断をレトリックで不当に貶めることは、客観性における他者の視点から目を逸らしていますね。

椎名林檎の「長く短い祭」が、心理的な時間と物理的な時間を恣意的に分けて解釈されていることも疑問です。勝手に解釈しないでください。心理的な時間と物理的な時間は密接な関係にあり、哲学者ベルクソンは「主観的に認識される時間が、時間の本質だ」と主張しています。心理的な時間の波を示しているなど、色んな解釈があるかと思われますよ。視野を広げましょ。

さらに、「多義的な意見」は音楽理論の比喩を通じて、主観と客観の両方を意味していることが理解できます。繰り返しますが、言葉を部分的に静的に捉えるのではなく、文脈を動的に読み解いてください。文章は生きてるんです。あなたの目や思考がその命を殺しているだけで、実際には文章はとても生き生きとしているのです。エクリチュールだからこそ呼吸を意識することが重要です。

満場一致のパラドックスに関しても、多数決が客観性の条件ではないと理解されているはずですが、なぜ100人全員の同意を求めるのでしょうか?あなたが言いたいのはその先にある「真理」では?ならば100人全員の同意を求めるのはよくない。なぜなら、異なるルールのもとで生活する人々にとって、その「真理」自体が無意味になることもあるからです。万人に共通の認識が定義だなんて現実的ではないですね?クワス算を参考にどうぞ。

@楽な道を選んだ:10/26(土) 午後5時26分

さて、あなたは繰り返すのが好きなようなので、私もあなたのスタイルに倣って繰り返しますが、「普遍の真理」として引用された語義はどこから来たものでしょうか?辞書によって定義が異なることは、学問を少しでも学んだ人なら理解できることです。特に「客観性」なんて言葉は時代や文脈によって多様に解釈されてきました。

コトバンクでは次のように定義されています。

「1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。」

ここに「誰もが等しく認知可能であること」といった条件は含まれません。私の当初の意見に照らし合わせると、「周りからは特定の立場(主観)にとらわれているようにも、そうでないようにも見える」となりますね。矛盾なんて存在しなかったわけです。おっと、反論しないでくださいね。何しろ「語義とは不変の真理。動かしようのないもの」なのですから。

仮にあなたが引用している辞書が立派でも、他の辞書でそのような条件が見つからない限り、それを真理だと断言するのは、真理に失礼です。

それでもなお、あなたが「客観性」に「普遍的な認知」を求めるのなら、それは辞書ではなく、あなた自身の信念や哲学に根ざしているのでしょう。なんだ、あなたも持っているじゃないですか。皆が認めなくても真理だと信じる何かを。

余談なんですが、辞書を持ち出してくる人って嫌いなんですよね。辞書で何か解決したことあります?ペラい定義を引っ張り出して、そこから自分の価値観や深い洞察を展開してくれる人なんて、まあおでん以外見たことないですね。辞書を振りかざして「これで正しい」と主張するだけ。手元のピースだけでパズルを無理やり完成させようとする。それで出来上がるのが穴だらけでスカスカのパネル。もう少し考えるということをしていただければと思いますがね。辞書は議論の出発点であり、片付けるための必殺兵器ではありません。

さて、不死の体を持つ最強の英雄アキレスは、他の戦士たちよりも劣るパリスに弓で打ち負かされました。パリスは正面から挑むのではなく、アキレスの唯一の弱点、アキレス腱を狙ったのです。今回の議論の構図に似てますね。真正面からではなく唯一の弱点を探し、そこに狙いを定めて攻撃しようとしたあなた。しかし残念ながら、その逸話と異なる点がひとつだけあります。私には隙がなかった。それだけのことです。

ぱぴ子:10/26(土) 午後6時25分

  • 100人が認めるもの云々

多数派と客観性は違うと先述したのに何を言ってるんですか?まだ多数派論証に陥ってるんですか?先に進みましょうよ。温度計のくだりの表現は「誰が見てもそうなる」という意味で使ったのはわかりそうなもんですが。

  • 陰謀論者云々

客観的事実を前にして信じようとしない人はその人が目に見えるものを信じたくないだけでしょう。受けての問題と主張の問題を分けて考えて下さい。

  • 宇宙飛行士云々

直視したものだけが客観的だなんて一言も言ってません。架空の主張に反論するのやめましょう。藁人形幾こさえてそれと喧嘩でもしてるんですか?

  • 学問への冒涜

正しい前提を見誤れば未知の領域から真理など追求できませんよ。普遍的なことから新しい何かを生み出す。これを否定することこそ学問の本質を理解できてないと言えます。

  • 形而下云々

事実やデータが客観的だってのは君も認めていたよね?それって形而下なのでは?

  • 論点先取

先述した通り、その例示の論点は日本人かではありません。論点は「客観性」と「多義性」の差分です。こちらの主張を無視して結論を根拠にもちいる今のあなたの言説こそ論点先取です。

  • 長く短い祭

この歌詞に対するあなたの解釈はどうか知りません。そこが本質ではありません。

どのような見地で見るかによって「長い」「短い」の意味が何を指しているのかが変わるという根拠を提示したまでです。まずはこれに反論しましょう。

-多義的な意見

文脈を通して見ろ?文脈や音楽の比喩が言葉の概念と整合しない。それだけのことです。理由は先述してる通り。

  • 満場一致のパラドックス

100人の同意を求める?また藁人形持ち出してるね。そんなことどこでも言ってません

  • 語義

あら。辞書お嫌いでは?辞書に囚われてはいけないと言っていたのはあなたですよ。それにそこに書いてある「特定の立場にとらわれず」は視点の偏りから離れるという意味では?あなたの意味不明な賛否両論説を否定しているように見えますよ。

お疲れ様でした。

タイムリミットに間に合わせようと思ったがむりでしたね。楽しかったです。ありがとうございました。

楽な道を選んだ:10/26(土) 午後6時27分

お疲れ様でした。試合とは関係なしに感謝を。これが勝ちでも負けでも、なかなか楽しい試合でした。最後までやり遂げたあなたに敬意を。