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@ぱぴ子:10/20(日) 午後10時35分
シュタイン君は最初
「客観性や数字に重きを置くディベートは、私の主義とは少々異なるため、今回はフリートークを選んだ」
このように明言しています。
文面を字義に即して解釈すれば「フリーでは客観性に重きを置く必要はない」と言う結論が導けます。
さらには「多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです」とも言ってますよね。
多義的な主張は解釈の幅が大きい為、客観的ではありませんし、先述した内容を否定するものではありません。
そこまでは良かったのですが…
何故か「私の意見は主観と客観の双方の性質を兼ね備えている」
「客観性の枠組みを超えるかどうかのチキンレースをしている」
などと、あたかも自身の主張に客観性が担保されてるかのような主張が散見されはじめましたよね。その主張を支えている根拠は以下の言説です。
「読者や審査員が私の言論をどう受け取るかによって、客観的だと評価される可能性もある」
「主観的な視点が共有され、他者に認められたとき、それは客観的な意見となる」残念ながらこれは完全に誤った論理展開です。
まず、今話してるのはフリーにおける客観性と主観性の重要度の比較であって、シュタイン君の主張が審査員らにどう解釈されるかの推論ではありません。その上で、シュタイン君の多義的な主張とやらが結果として如何様にも解釈される可能性があったとしても、発言そのものに客観性が備わっているかどうかの根拠にはなり得ませんよね。色黒の日本人が街を歩いて黒人と勘違いされたとしても日本人が黒人になるわけではありませんからね。
それにしても今のシュタイン君の主張はあまり多義的には感じませんね。破綻してはいますが発言の解釈に迷う部分はさほどありません。
ことほど左様に論理破綻や一貫性の欠如が目立つ論理展開をしてまで「客観性」の担保にこだわるのは何故でしょうか?
当初の主張の通りに「フリーでは客観性に重きを置く必要はない」と言う立場で良かったのでは?
そしてもう一つ聞きたいのはシュタイン君の多義的な主張が共感を獲得して客観的だと解釈されたと仮定します。それは君にとって望ましいことなんですか?
楽な道を選んだ:10/22(火) 午後6時2分
ようやく論争の「ドミナント」が訪れましたか。しかし悲しいかな、いくら私が美しく演奏できても、連弾のパートナーが音を踏み外してばかりでは、素晴らしいセッションを奏でることは難しい。これまでのやりとりから推察するに、私の文章を十分に読み込んでいないようですね。もう少し繊細に文章を取り扱っていただければと思ったのですが、それも期待できないようです。ではここから、私の反撃を始めさせていただきます。
まず、あなたが私の主張を「客観性の担保」だと捉えている点についてですが、それは大きな誤解です。私は、自分が主観と客観の微妙な境界線上で踊っていることを明言しており、その姿勢を「チキンレース」と表しました。Ⅲmの役割のように、私は主観的すぎると切り捨てられることもあれば、逆に客観的だと認められることもある。その不安定さを受け入れ、双方の性質を兼ね備えていることを強調したに過ぎません。決して、私が常に客観的で中庸な立場にいると言いたかったわけではありませんし、客観性の保証に固執しているわけでもありません。あくまで「客観的だと受け取られる可能性がある」程度の表現に留めておいたのは、その胎動のようなダイナミズムを楽しんでいるからです。
さて、他者の認識と客観性は切っても切り離せないものです。あなたの例で言う「黒人だと思ったら、実は色黒の日本人だった」という仮説も、その背後には前提が潜んでいるわけです。真に客観的な認識とは、色黒の日本人という事実が、客体に共有されている点にあるわけです。たとえば、「肌の黒い人物を街で見かけ、80%の日本人が黒人だと認識した」という状況を考えれば、彼らの認識が客観性の土台になります。日本人なのか黒人なのか究明する場合、有効な根拠として機能します。これこそ、ディベートで頻繁に用いられる「客観的な根拠」ではないでしょうか。
このように、客観性が重要な要素となる以上、私が審査員や読者の目を意識するのは自然なことです。賞金がかかっているわけですから、ディベートはもちろん、フリートークでも客観性を度外視することはできません。あなたにわかりやすく言い換えれば、「審査員や読者に認めてもらうため、フリートークでも客観性は重要だ」といったところでしょうか。文脈を読み解けば、私の立場が誤っておらず、一貫していることをご理解いただけるかと思います。