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@ぱぴ子:10/25(金) 午後11時42分
- 月の誕生は諸説ある
「客観的なものに普遍性が伴わない」ことを例示したつもりですか?
様々な説がある。裏を返せばどれも立証できるだけのデータやファクトが足りていないということ。現段階で仮説の域を出ません。仮説は事実ではありません。つまり客観的とは言えません。
- 満場一致のパラドックス
全ての意見が一致すると逆にそのデータの信頼性が下がるという説ですよね。認知バイアスによって客観的判断が阻害された状態のこと。
で、これは何の反証ですか?
客観性を多数派をにすりかえて大コケしただけですよ?確かに「多数派だから真である」は誤謬です。客観と多数は全く違います。多数が認めることは客観性の必要条件ですが、十分条件ではありません。多数派が絶対的に正しいわけではありません。
「キリスト教信者は世界で最も多い。だからその教義は真実だ」これは絶対的ですか?
- 「客観性は主観の集合では?」
違います。客観的視点とは、個人の経験、感情、主義、信条などの主観を排除し、事実的側面に焦点を当てた見地です。
「客観性に重きを置く必要はない」はフリートークでも客観性が重要でないという意味ではなく、あくまでディベートに比べればという話だった。
もっともらしいようで、前提を考えると矛盾が見えてきます。
以下は君の発言の抜粋です。
①「聞く人次第でどう捉えられるかが変わるような、多義的で尖った意見を表明するのが私のスタイルです」
②「多義的と表現した理由は、主観的に受け取られるか、客観的に受け取られるかの個人差が大きいから」
「この言葉は〇〇の意図で使った」と正当化ができるのは、〇〇をその言葉の概念から導くことが可能な場合のみです。
前回、数学の命題理論を用いてこちらが主張した
【誰もが等しく認知可能でないならば、客観的ではない。故に多義的な意見は客観的には成り得ない】
を崩せない限り②は失当です。ひいては「多義的な意見を表明するスタイルは客観性に重きを置くディベートと異なるためフリートークを選んだ」という当初の発言と、「フリートークであっても客観性は重要視する」という後の発言は論理的不一致となります。
@ぱぴ子:10/25(金) 午後11時42分
- 色黒日本人の比喩は論点先取
論点先取とは立証すべき真偽不明な事象をその立証の根拠として用いる誤謬です。この例示で立証したいのは「多義性と客観性の差分」です。
この比喩は、とある色黒日本人が、一見して人種不明な風貌にも関わらず、フリップという客観的要因により判別可能となる様を「客観性」に例えたもの。論点先取とは構造が異なります。
論点先取とは「黒い日本人は日本人だ、何故なら日本人だからだ」このような小泉構文的トートロジーのことです。主張をする前に前提や推論に誤りがないか慎重に精査することをおすすめしますよ。
- 椎名林檎の「長く短い夏」
一見矛盾してるように見えますが、時間的尺度と心理的尺度という二つの軸が忍ばされている為にレトリックとして成立しています。いわゆる撞着語法です。残念ながら今回の「客観、主観」はそれぞれ「視点」という共通軸にある為成立しません。シュタイン君の出す例示はどれも残念で嬉しいです。あ!これも撞着語法でした🤭
最後の「あらすじ?笑」はなかなかエグいね。
試合当初使っていた「多義的な意見」という文言が「主観を切り捨てない賛否両論の意見」という表現に変わってます。
既成事実であるかのように。
君は開始当初「多義的な意見」と言ってました。誰が見てもね。客観的にね笑
「私の意見は客観と主観双方の性質を兼ね揃えている」(10/20 15:37)などとも言ってます。
僕は一貫して「誰もが等しく認知可能でなければ客観的とは言えない。故に多義的である以上、それは客観的には成り得ない」と繰り返し主張しました。
これをを崩せないと悟って逃げを打ったんですね。
それが苦し紛れの「主観を切り捨てない賛否両論の意見」などと説明くさく「多義的」とは似ても似つかない意味不明な表現になってしまったんでしょう。
さあ文字数も残り少なくなりました。タイムリミットを考えるとこれが僕のラストヴァースとなる可能性は高いですね。
「主観」と「客観」のどちらが重要かを幾度か尋ねたのは、「客観」について色々喋ってもらう為でした。ごめんなさいね。「多義的」は君のアキレス腱だったのでね。これを切る為の布石です。
それでは。健闘を祈っています。
@楽な道を選んだ:10/26(土) 午後5時26分
───詩とは何かを答えるのは難しいが、何が詩であるかは答えやすい。
最近読んだメルロ=ポンティの本に書かれていた言葉です。美しい箴言ですね。概念的なものほど、その本質を説明するのは困難ですが、何がその本質に当たるかを示すのは簡単です。しかし、ある本質が明確に示されたからといって、それ以外のものがその概念に相応しくなくなるわけではありません。
「100人見て100人が認めるものじゃないので客観的じゃない!」
実に短絡的な主張です。95人が認めた場合は?90人だったら?一般的な感覚からすれば、それでも十分に客観的な根拠です。少数の異論が存在することは客観性を否定する理由にはなりません。
アメリカでは、陰謀論者が25%以上を占めることで知られていますが、未だに地球平面説を信じる人々が存在します(1%未満ではありますが、人口規模的に無視できない数です)。科学的な証拠を提示しても、彼らは「疑う余地がある」と反論します。温度計のように「見ればわかる」という基準で客観性を測るならば、地球もまた「見れば客観的だ」と言えますかね?しかし我々は宇宙飛行士ではないので、地球を直接「見た」ことがないのが現実です。では、あなたの世界では地球が球体であるという事実は客観的ではないのでしょうか?月の起源に関する様々な説と同じように、「どれも立証できるだけのデータが不足している」という見解に過ぎないのでしょうか?
念のために申し上げますが、「地球平面説は科学的に否定されている」だなんて言わないでくださいね。根拠が揃っているのは月も同様です。哲学者カール・ポパーが唱えた「反証可能性」によれば、理論が科学的であるためには「反証可能」でなければなりません。可能性が低くとも、完全に否定できない限り、反論は成り立ちます。疑おうと思えば何でも疑うことができるという構造から逃れられません。
また、すべてを疑った哲学者デカルトは、「現実世界で確かだとされるものでも、夢でないとは言い切れない(=胡蝶の夢)」と考えました。誰もが等しく認識できる「真理」を追求する西洋的な歴史の産物です。その結果、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」というコギトに到達しました。これこそが彼の真理でした。
私はこう思います。温度計ごときが「客観的の本質を示す」というのであれば、なぜ哲学者はこれほどまでに議論を続けるのでしょうか?バカみたいじゃないですか。