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法介の『徒然なるままに』 New トピック !!

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わたくし法介が、徒然なるままにとりとめもない文章を適当に書き綴っていくトピックです。

適当にお付き合い頂けんますと適度に嬉しいです。

法介
作成: 2023/12/25 (月) 05:15:05
最終更新: 2023/12/25 (月) 06:21:16
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67
法介 2023/12/29 (金) 06:22:50

天台密教は智顗が説いたものではありません。

平安時代初期の日本の僧侶、最澄(767年-822年)が唐へ渡り天台教学を中心に学んだが、当時の中国では念仏や禅、また戒律、そして密教が流行していた。最澄は天台教学とともに、密教(中期密教)・禅(北方禅)・念仏(浄土教)を日本に持ち帰った。さらに最澄の弟子で第3代天台座主になる円仁(慈覚大師)や、第5代天台座主となる円珍(智証大師)等が唐に渡って中国密教を本格的に学んだことから、日本の天台宗は密教を包含する。

しかし、その密教はヒンズー教の真我説の影響を受けた如来蔵思想だった。

68
法介 2023/12/29 (金) 06:28:57

「如来蔵思想は仏教にあらず」という論文を1986年に学界に発表した松本 史朗 仏教学博士が「如来蔵思想と本覚思想」という論文の中で次のように述べられております。

「如来蔵思想と本覚思想」
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17592/jfb063-07.pdf

高崎直道博士は、『如来蔵思想の形成』(1974)において、作業仮説的に、『宝性論』の教理内容を如来蔵思想と規定し、『宝性論』に引用された諸経典を根拠にして、如来蔵思想の形成過程を明らかにし、それによって、如来蔵思想をインド仏教研究の一分野として確立したと思われるが、その際、如来蔵思想という用語の典拠とされたのが、『楞伽経』の「如来蔵説」(tatha-gatagarbha-va-da)と法蔵起信論義記』の「如来蔵縁起宗」という言葉であったことは、注意されるべきであろう(14)。

69
法介 2023/12/29 (金) 06:30:49 修正

その高崎直道博士の『如来蔵思想の形成』について述べられた論文です。
https://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/065/takasaki.pdf

70
法介 2023/12/29 (金) 06:38:19

高崎博士は、

如来蔵思想とは「一切衆生 悉有仏性」という一文によって表明されている如きの大乗仏教における主要な思想の随一である。

と言い、一切衆生に如来たるべき因(如来蔵)が有るという説を「如来蔵思想」だと述べておられます。

71
法介 2023/12/29 (金) 07:03:45

高崎博士は、如来蔵思想は『宝性論』によって体系化されるとも言っておられますが、これは堅慧菩薩が漢訳した四巻からなる「究竟一乗 宝性論」の事です。(弥勒が説いたとも言われる)

内容としては一切衆生に仏性があるとして二乗、一闡提も成仏することができると主張している。

堅慧菩薩は、生没年不明で六世紀ころの中インドの僧侶。

その『宝性論』に関する著書を高崎博士が執筆されておられます。

『宝性論』 高崎 直道 (著)
https://www.amazon.co.jp/宝性論-インド古典叢書-高崎-直道/dp/4061437852

その高崎博士の『宝性論』↑について
述べている論文↓です。

『宝性論』における法身と智 柴田寛敬
https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2018/03/Vol63_2_asian-philosophy_smt.pdf

72
法介 2023/12/29 (金) 07:11:36

↑柴田論文より引用↓

続いて法身の三種のあり方と智の関係をみてみると、如来において、無分別智後得智の二智は悟りの因であり、さらにその二智は自利・利他の働きをなす。この利他の働き、即ち如来の智の光明が衆生に照射されて、衆生の中に仏智と等しい智が見出される。この所観の仏智(8)としての衆生が、如来によってもたらされた教説を聴聞し、如来に対する信解を起こして、浄化の因としての菩薩の修習を具える。ここに、如来菩薩凡夫という法身の三種の顕現に応じたそれぞれ異なる智との関係が存在する

73
法介 2023/12/29 (金) 07:14:56

如来としての法身には、因としての二智と、徳性としての智が結合し、菩薩には仏智成就の因としての般若の修習が結合し、凡夫を含む一切衆生には、如来によって見出された所観の仏智が普く滲透している。このうち、如来と菩薩の智は顕在的な智であるが、凡夫の智は、煩悩の殻に覆われ、潜在的で仏によってのみ見出されるものである。

74
法介 2023/12/29 (金) 07:20:10 修正

この論文で言う「所観の仏智」を天台智顗が『維摩經玄疏』の中で、所観の不思議の境として詳しく解き明かしております

今明此一心三觀亦爲三意。一明所觀不思議之境。二明能觀三觀。三明證成。

(T1777_.38.0528c22~24行目まで)

「今、此の一心三観を明かすに、亦た三意と為す。一に所観の不思議の境を明かし、二に能観の三観を明かし、三に証成を明かす。」

75
法介 2023/12/29 (金) 09:10:54

智顗の説明によると、所観の境とは、一念無明の因縁より生じるところの十法界を対境とするとあります。そして、十法界についての質問に答える形で「十二因縁所成の十法界」には、即空・即仮・即中の三観・三諦の理を含む無量の法がおさまっているものの、三惑によって心が覆われている凡夫は、真実を見て取れないでいるという説明がなされています。

76
法介 2023/12/29 (金) 09:12:44

我々人間が認識している現実の世界は、凡夫の無明の一念(真理に暗い迷い心)が因となって十二因縁が生じて立ち上がった仮在の世界観です。

実相(実体)を縁起(空)の角度から説き明かし、ありのままを受け入れる事が苦を滅する第一歩となることが説かれています。

真理に疎(うと)い凡夫の一念(凡夫の空・仮・中)を境(対象)とするのではなく、真理を悟った仏の一念(仏の空・仮・中)を境として三観・三諦の理を起こすことが所観の境だと智顗は述べられています。

77
法介 2023/12/29 (金) 09:18:00

智顗が説くそれは、天台密教や真言密教で説く「如来蔵思想」とは全く異なる「法華経思想」によるところの所観の境です。

 天台密教・真言密教=如来蔵思想(チベット密教の影響を受けた)
 天台智顗・日蓮聖人=法華経思想にもとづく真如の世界観(中観)

78
法介 2023/12/29 (金) 09:22:26

このあたりの話を日蓮さんが『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の中で語っておられますのでご紹介します。

79
法介 2023/12/29 (金) 09:28:02

(現代語訳で紹介します)

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/cat_52523.html

爾前迹門における仏としての果位をもってこれを論ずれば、教主釈尊は、過去世における因行によってインドに出現し三十歳で成道した仏である。しかして成道の時より華厳・阿含・方等・般若と説き進め、四十余年の間、蔵・通・別・円の四教を説くごとにそれぞれ四種の仏身を示現し、爾前経・法華迹門・涅槃経等を演説して、一切衆生を利益し給うたのである。

いわゆる華厳経を説法の時は、十方に化作した諸仏の中央蓮華台上に、盧舎那仏と現われ、阿含経の時には、三十四の智慧心をもって見思の惑を断じ尽くして成仏の姿を示し、方等の時には、来集した諸仏の中において説法し、般若の時には千仏とともに現じて説法し、大日経・金剛頂経の時には胎蔵界の七百余尊・金剛界の五百余尊の威儀を現じ、法華経迹門では、宝塔品第十一の時、三変土田して、凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土の仏身を示現し、涅槃経の時には、一会の大衆があるいは丈六の仏と見、あるいは小身・大身と現われ、あるいは盧舎那報身の仏と見、あるいはその身が虚空と等しい法身仏と見た。

すなわちこのように四種の身を現じたのである。乃至御年八十歳でご入滅あそばされた後までも、正法・像法・末法の三時にわたって一切衆生を利益し給うたのである。このような仏が凡夫の己身に住するとは考えられない。(質問者の考え)

また法華経本門の内容からこれを疑うならば、教主釈尊は久遠五百塵点劫已前に成仏し、因位もまた五百塵点復倍上数の長遠である。それより已来娑婆世界はいうまでもなく、十方世界に分身の諸仏を遣わし、一代聖教を演説して、大地微塵のごとき無数の衆生を教化してきた。

本門における所化の衆生を、迹門の所化に比べるならば、一渧と大海の水を比べるごとく、一塵と大山のごとき相違がある。本門の一菩薩(地涌の菩薩のこと)を迹門の十方世界から来集した文殊・観音等の菩薩に相対するならば、猿と帝釈天を比較するよりさらに大きな相違がある。このように無量無辺の大菩薩たちを教化してきた大徳の釈迦仏がわれらの己心に住するとは、なおいっそう信じ難いことである。

そのほかにまた十方世界にいて、惑を断じ果を証した二乗や、梵天・帝釈・日月・四天・四輪王等の天界や、また無間大城の大火炎等々、これらはみなわが一念の十界であるのか。わが己身の三千世間であるというのか。たとえ仏の説であるからといってもこれを信ずることはできないではないか。

80
法介 2023/12/29 (金) 09:40:20 修正

以上のように十界互具・一念三千は信じられないことから考えてみるのに、法華経は誤りであって、爾前の諸経が実事であり、仏の実語である。ゆえに華厳経にいわく「初住の悟りの相は究竟して煩悩の虚妄を離れ、染がなくて清らかなこと虚空の如し」と。仁王経にいわく「大覚涅槃にいたれば無明の本源を窮めつくし、無明の本性をことごとく尽くし除いて、妙智のみが存している」と。金剛般若経にいわく「悟りにいたれば清浄の善のみがあり」と。(質問者の考えです)

また仏滅後においても馬鳴菩薩の起信論にいわく「如来蔵の中には清浄の功徳のみがあり」と。天親菩薩の唯識論にいわく「煩悩障と所知障を棄捨してなおあますところの有漏と・劣れる無漏の種とは、菩薩の最高位たる第十法雲地に、金剛のごとき堅固な禅定が現前すれば、極円明純浄の本識に入ることができる。かの余の有漏・劣の無漏を種とするものでないから、本識を所依として煩悩生死を永く棄捨するのである」と。

これらの経論には、仏の生命にはただ清浄の善のみがあって、十界互具がない

さて爾前の経々と法華経と比較してみるのに、爾前経は無数であり、法華はただ一経である。また説く期間も爾前経は四十余年にわたり、法華経はただ八年である。ゆえに爾前と法華の所説に相違があるならば、爾前につくべきである。また馬鳴菩薩は付法蔵の第十一で仏の予言にあり、天親菩薩(世親)は、千部の論師で四依の大菩薩である。どうして馬鳴・天親の説くところに誤りがあろうか。それに比較して天台大師は仏教発祥の中心たるインドからはるかに離れた辺鄙の中国に生まれた小僧であっていまだ一論をも述べていない。どうして天台を信ずることができようか。(質問者の意見です)

その上にまたあるいは大部の爾前経を捨てて、少ない法華経につくことがありうるとしても、法華経の文に十界互具がはっきり説かれているなら、少しはよりどころとなるけれども、法華経の中のどこに十界互具、百界千如、一念三千を説いた明らかな証文があるか。そのような文はないのである。(質問者の意見です)

したがって法華経を開いて見るのに、方便品では「諸法の中の悪を断じ給えり」と説いて、仏界の善には九界の悪が具わっていないことを明らかにしている。ゆえに天親菩薩法華論にも、堅慧菩薩宝性論にも、十界互具は説かれていない

さらに中国においても、天台以前の南三北七の十派におよぶ諸人師も、日本における七宗の末師の中にも、十界互具を述べたものがない。

ただ天台一人の間違った見解であり、伝教一人の誤り伝えたものである。(質問者の見解です)

ゆえに清涼国師は「華厳経を下して法華経を尊重するのは天台の謬りである」と説き、慧苑法師は「天台が小乗教を三蔵教と名づけているが、三蔵は小乗教に限らず、大乗にも経・律・論があるから、天台の説く所は大小を謬乱している」と説き、了洪は「天台の判教などは相当なものであるが、しかし天台はいまだ華厳の深意を解しておらない」といい、得一は「咄いかな智公(天台)よ、汝はいったい誰の弟子か、三寸にも足りない舌根をもって面を覆うほどの舌を持つ仏が説法した教時を謗り、法相の説く真実の三時教判を誹謗し、自己流の五時八教を立てている」といい、日本の弘法大師(真言密教の空海)は「中国の人師たちはみな諍って六波羅蜜経に説く第五陀羅尼蔵の醍醐味を盗んでおのおの自宗に取り入れている。天台が法華を醍醐味にたとえるのも、実はこのようにして盗み入れたに過ぎない」といっている。(質問者の意見です)

このように一念三千の法門は、釈尊一代の権教にも実教にも説かれていないし、釈尊滅後の四依の諸論師も、その義を載せていないし、中国・日本の人師もだれ一人これを用いておらない。どうしてこれを信ずることができようか。(質問者の意見です)

81
法介 2023/12/31 (日) 05:58:15

このような質問者の問いに対し日蓮大聖人は次のように答えられます。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1998742.html

答えていう、今述べたところの難問は最も甚だしい非難である。これに答うるにまず教論の難を説明しよう。ただし爾前の諸経と法華経との相違は経文に説き示された事実によって明らかである。爾前は未顕真実で法華は正直捨方便・但説無上道、法華には多宝如来・十方分身諸仏の証明と梵天にまでとどく舌相の証明があるのに、爾前の諸経にはこのような証明がない。阿弥陀仏の舌相も問題にならない。爾前では二乗が永久に不成仏であるが法華では一切皆が仏道を成ずる。爾前の諸経は釈尊がこの世で修行し成道したと説く始成正覚、法華は久遠実成を説き顕わしている。このように比較してみると、爾前は劣小の教であり、法華経こそ最勝真実の教であることが経文によって明らかではないか。

次に諸論師が非難している点について説明しよう。天台大師いわく「天親や竜樹は一念三千の法門を心の中では知っていた。しかし外に対しては正法時代に適した法門を立て、権大乗教を弘めてそれぞれ権に拠る所があった。しかるにその後の人師は偏見に執着し、仏教学者も我見を立てて、ついに論争に論争を重ね衆生済度を忘れて闘争し合い、各宗各派は仏教のわずか一辺を保って我見を立て大いに釈尊の真意に背反してしまった」と。章安大師いわく「仏教の発祥地たるインドの大論師さえなお天台大師とは比較にならない。中国の仏教学者など、どうして一々に論ずる必要があろうか。これは誇って自慢して言っているのではない。天台の説く法門自体がこのように勝れているのである」と。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等の諸菩薩は、内心で一念三千を知っていたが、未だ正法時代で法華経流布の時でなかったからこれを弘通しなかったのである。その他、正法時代の人師および像法時代の人師たちは、天台以前の人々はあるいは一念三千の宝珠を内心に含み、あるいは一向にこれを知らなかった。天台以後の人師たちはあるいは初めに一念三千の法門を破りながら後に帰伏した者もあり、あるいは一向にこれを用いない者もあった。

82
法介 2023/12/31 (日) 06:11:58

最初に法理面で反論し、次に論師面で反論なされております。この二つの側面の詳しい内容はこれ以後に展開されますが、その要点をかい摘んで言いますと、法理面においては、法華経以前の教えでは、「十界互具の法門」と「三五の法門」が説き明かされていないこと、論師面では「時」に随って論師は法を説くという事で、これは『大集経』で説かれる「後の五百歳」が深く関係してきます。

83
法介 2023/12/31 (日) 06:15:43

これより以下の三項についてそれぞれ詳しく説明して参ります。

 一、十界互具の法門
 二、三五の法門
 三、後の五百歳

84
法介 2024/01/01 (月) 00:15:02

新年あけましておめでとうございます。

本年も宜しくお願い申し上げます。

今年も互いに精進して参りましょう。

85
法介 2024/01/04 (木) 20:52:57

『大乗起信論』馬鳴作 眞諦訳 より

雖有正因熏習之力。若不値遇諸佛菩薩善知識等以之爲縁。
能自斷煩惱入涅槃者。則無是處。若雖有外縁之力。
而内淨法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦樂求涅槃。

https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1666_,32,0578b25&key=雖有正因熏習之力。&ktn=&mode2=2

正因熏習の力有と雖も、若し諸佛菩薩、善知識等に遇て、之を以て縁と為さざれば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入る者は、則ち是の処無し。若し外縁の力有と雖も、而も内の淨法未だ熏習の力有らざれば、亦た究竟じて生死の苦を厭い、涅槃を樂求すること能わじ。

日蓮聖人云わく、

「三世の諸仏は此れを一大事の因縁と思食して世間に出現し給えり一とは中道なり法華なり大とは空諦なり華厳なり事とは仮諦なり・阿含・方等・般若なり已上一代の総の三諦なり、之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐成仏の直道なり因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり『三世諸仏総勘文教相廃立』

86
法介 2024/01/04 (木) 21:24:04 修正

『大乗起信論』

眞如三昧者。不住見相不住得相。乃至出定亦無懈慢。
所有煩惱漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如來種性。
無有是處。以修世間諸禪三昧多起味著。依於我見繋屬三界。
與外道共。若離善知識所護。則起外道見故

https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1666_,32,0582b01&key=貪著世間名利恭敬故。眞如三昧者。不住&ktn=&mode2=2

眞如三昧なる者は、見相に住せず得相に住せず、乃至定を出でても亦た懈慢無く、所有る煩悩は漸漸に微薄なり。若し諸の凡夫、此の三昧の法を習わざれば、如來の種性に入るを得ること是の処有ること無し。世間の諸禪三昧を修して多く味著を起こし、我見に依りて三界に繋屬するを以て、外道と共なり。若し善知識の護る所を離れるば、則ち外道の見を起こすが故に

87
法介 2024/01/04 (木) 21:29:56 修正

『涅槃経』第七
力士見已心懷驚怪生奇特想善男子。一切衆生亦復如是。
不能親近善知識故。雖有佛性皆不能見。

https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0374_,12,0407c20&key=力士見已心懷驚怪&ktn=&mode2=2

力士は見已って、心に驚怪を懷き、奇特の想を生ぜり。善男子よ、一切衆生も亦復是の如し。善知識に親近すること能わざるが故に、佛性有りと雖も見る事こと能わず

88
法介 2024/01/05 (金) 07:54:59 修正

>> 85P.111>> 86P.222>> 87P.223 の内容は、古賀英彦 著書の『訳注 大乗起信論』の中で紹介されていた文句ですが、日蓮さんが、

「三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず」

と云われました根拠はこの辺にあるのでしょう。

89
法介 2024/01/05 (金) 07:59:58

『起信論』については、偽作説もありその真偽は、近代日本の仏教研究史における重要な研究課題となっておりますところです。

『大乗起信論』偽撰説と章炳麟   陳 継東
https://toyo.repo.nii.ac.jp/record/9414/files/higashiasiabukkyou4_143-170.pdf

90
法介 2024/01/05 (金) 08:03:40

論文に目を通されるとお解り頂けますでしょうが、馬鳴菩薩が龍樹菩薩より後の人物なのか先の人物なのかも、仏教学の世界にあっては未だ明確な答えを導き出せておりません。

91
法介 2024/01/05 (金) 08:08:15

仏が遺言として残された「法四依」に随ってひも解いて行かないとそうなります。

 依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
 依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)