以上のように十界互具・一念三千は信じられないことから考えてみるのに、法華経は誤りであって、爾前の諸経が実事であり、仏の実語である。ゆえに華厳経にいわく「初住の悟りの相は究竟して煩悩の虚妄を離れ、染がなくて清らかなこと虚空の如し」と。仁王経にいわく「大覚涅槃にいたれば無明の本源を窮めつくし、無明の本性をことごとく尽くし除いて、妙智のみが存している」と。金剛般若経にいわく「悟りにいたれば清浄の善のみがあり」と。(質問者の考えです)
また仏滅後においても馬鳴菩薩の起信論にいわく「如来蔵の中には清浄の功徳のみがあり」と。天親菩薩の唯識論にいわく「煩悩障と所知障を棄捨してなおあますところの有漏と・劣れる無漏の種とは、菩薩の最高位たる第十法雲地に、金剛のごとき堅固な禅定が現前すれば、極円明純浄の本識に入ることができる。かの余の有漏・劣の無漏を種とするものでないから、本識を所依として煩悩生死を永く棄捨するのである」と。
これらの経論には、仏の生命にはただ清浄の善のみがあって、十界互具がない。
さて爾前の経々と法華経と比較してみるのに、爾前経は無数であり、法華はただ一経である。また説く期間も爾前経は四十余年にわたり、法華経はただ八年である。ゆえに爾前と法華の所説に相違があるならば、爾前につくべきである。また馬鳴菩薩は付法蔵の第十一で仏の予言にあり、天親菩薩(世親)は、千部の論師で四依の大菩薩である。どうして馬鳴・天親の説くところに誤りがあろうか。それに比較して天台大師は仏教発祥の中心たるインドからはるかに離れた辺鄙の中国に生まれた小僧であっていまだ一論をも述べていない。どうして天台を信ずることができようか。(質問者の意見です)
その上にまたあるいは大部の爾前経を捨てて、少ない法華経につくことがありうるとしても、法華経の文に十界互具がはっきり説かれているなら、少しはよりどころとなるけれども、法華経の中のどこに十界互具、百界千如、一念三千を説いた明らかな証文があるか。そのような文はないのである。(質問者の意見です)
したがって法華経を開いて見るのに、方便品では「諸法の中の悪を断じ給えり」と説いて、仏界の善には九界の悪が具わっていないことを明らかにしている。ゆえに天親菩薩の法華論にも、堅慧菩薩の宝性論にも、十界互具は説かれていない。
さらに中国においても、天台以前の南三北七の十派におよぶ諸人師も、日本における七宗の末師の中にも、十界互具を述べたものがない。
ただ天台一人の間違った見解であり、伝教一人の誤り伝えたものである。(質問者の見解です)
ゆえに清涼国師は「華厳経を下して法華経を尊重するのは天台の謬りである」と説き、慧苑法師は「天台が小乗教を三蔵教と名づけているが、三蔵は小乗教に限らず、大乗にも経・律・論があるから、天台の説く所は大小を謬乱している」と説き、了洪は「天台の判教などは相当なものであるが、しかし天台はいまだ華厳の深意を解しておらない」といい、得一は「咄いかな智公(天台)よ、汝はいったい誰の弟子か、三寸にも足りない舌根をもって面を覆うほどの舌を持つ仏が説法した教時を謗り、法相の説く真実の三時教判を誹謗し、自己流の五時八教を立てている」といい、日本の弘法大師(真言密教の空海)は「中国の人師たちはみな諍って六波羅蜜経に説く第五陀羅尼蔵の醍醐味を盗んでおのおの自宗に取り入れている。天台が法華を醍醐味にたとえるのも、実はこのようにして盗み入れたに過ぎない」といっている。(質問者の意見です)
このように一念三千の法門は、釈尊一代の権教にも実教にも説かれていないし、釈尊滅後の四依の諸論師も、その義を載せていないし、中国・日本の人師もだれ一人これを用いておらない。どうしてこれを信ずることができようか。(質問者の意見です)