わたくし法介が、徒然なるままにとりとめもない文章を適当に書き綴っていくトピックです。
適当にお付き合い頂けんますと適度に嬉しいです。
取り合えず、今回の『大乗起信論』絡みの話だが、
わたしの意見は、
ここで述べておきます。
でおーが紹介している桜嵐坊さんの動画の中で、ゲストの藤村 潔氏が次のような図で『大乗起信論』を紹介しされております。
https://youtu.be/HCT-0sljdaU
説明されておられます通り『大乗起信論』は馬鳴(アシュヴァゴーシャ)が書いたとされていますが法蔵によるところが一般的な注釈です。
ではその法蔵を日蓮さんはどのように見ておられたか、『撰時抄』から紹介します。
まず原文です。
像法の後五百歳は唐の始・太宗皇帝の御宇に玄奘三蔵・月支に入つて十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて八万聖教・十二部経の淵底を習いきわめしに其の中に二宗あり所謂法相宗・三論宗なり、此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著近くは戒賢論師に伝えて漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給う、此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経等此れなり、天台智者等は此の旨を弁えず等云云、而も太宗は賢王なり当時名を一天にひびかすのみならず三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき漢土を手ににぎるのみならず高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし内外を極めたる王ときこへし賢王の第一の御帰依の僧なり、天台宗の学者の中にも頭をさしいだす人一人もなし、而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ、同じき太宗の太子高宗・高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師といふ者あり法相宗に天台宗のをそわるるところを見て前に天台の御時せめられし華厳経を取出して一代の中には華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てけり、太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども事相の印契と真言とはたえてみへず三密相応せざれば不了義経等云云、已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども天台大師程の智人・法華宗の中になかりけるかの間内内はゆはれなき由は存じけれども天台のごとく公場にして論ぜられざりければ上国王大臣・下一切の人民にいたるまで皆仏法に迷いて衆生の得道みなとどまりけり、此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり
次に現代語訳です。
像法時代の後半の五百年について述べよう。中国では唐の初めであり、太宗皇帝の時であった。このとき玄奘三蔵は貞観三年に出発してインドへの大旅行にたち、十九年(十七年とする説もあり)のあいだ百三十か国の寺塔を見聞して多くの論師に会いたてまつり、八万聖教・十二部経といわれる一代仏教の奥底を習いきわめたところ、そのなかに法相宗と三論宗という大乗の二宗があった。この二宗のなかで法相大乗宗というのは、遠くは弥勒菩薩が降臨して説いた法を無著菩薩がひろめたといわれ、当時は戒賢論師にまで伝えられていた。玄奘三蔵は戒賢論師からこの法相宗を習い伝えて中国へ帰り太宗皇帝に授けたのである。
この法相宗の精神は、仏教は衆生の機根に従うべきであるという。ゆえにすぐ成仏のできる一乗の機根の衆生には、三乗の説法が方便であって、一乗の説法が真実である。これは法華経等である。これとは逆に三乗の機根の衆生のためには、三乗の説法が真実であり、一乗の説法は方便である。これは深密経・勝鬘経等である。天台智者大師はこの旨をわきまえないで、法華経のみが即身成仏・真実得道の経典であるといっているが、天台は誤りである等の論議を立てているのが法相宗である。
しかも太宗皇帝は賢王である。当時はその名を天下にひびかすのみならず、古代の伝説にある三皇・五帝よりも勝れているとたたえられて、その名は四海に鳴り響いていた。中国全土を平定したのみか、西はインドとの国境である高昌まで、東の方は高麗までの一千八百余国をなびかし、その勢威は国の内外にまで仰がれた賢王であった。玄奘は実にこの賢王の帰依を受けていたのである。ゆえに、天台宗の学者の中にも頭をさしだす人は一人もいない。そして法華経の実義は、すでに一国に隠没してしまった。
同じく、この太宗の太子の高宗および高宗の継母たる則天皇后の時代に、法蔵法師という者があった。天台宗が法相宗に襲われているのを見て、前に天台の時に破られた華厳経をとり出し、華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てた。太宗の第四代・玄宗皇帝の御代、開元四年、同八年に、西の方インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のいわゆる三三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ってきて真言宗を立てた。この宗の立義によれば、教に二種類あって一には釈尊の顕教であり、いわゆる華厳や法華である。二には大日如来の密教で、いわゆる大日経等である。法華経は顕教の中では第一であるが、大日の密教に対すれば、極理は少し同じであるけれども、事相の印契と真言とは法華経にまったく説かれてない。ゆえに法華は身・口・意の三密が相応しないから不了義経である。
以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。これらの事件は、像法の後の五百年の中で初めの二百年――仏滅後千六、七百年のころであった。
五つの分段に分かれておりますが、最後の分段で日蓮さんは次のように申されております。
以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。
日蓮さんは、法蔵注釈の『起信論』など用いてはおられません。
でおーやJBL、夕などが「日蓮は本覚思想」だなどと良く言っておりますが、日蓮仏法を実践しておりますわたしは「本覚思想」など聞いたこともなかったというのが実際のところでもあります。
「本覚と始覚」と聞いて私が思う事は、「久遠実成と始成正覚」の話では?
という事です。
法華経を正しく読み取れず、勘違いしたのでは?
というのが動画解説を観てわたしが思った率直な感想です。
また、JBLが次のサイトの文献を紹介しておりますが、
https://ihatov.cc/blog/archives/2020/05/post_963.htm#:~:text=インド大乗仏教の説,すると説かれている。
大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
↑これは学者の見解でしょう。
仏教は文献学でひも解けるような学問では御座いません。
なにか大きな勘違いをなされておられませんか?
仏教は『涅槃経』で示された法四依に基づいて法がひも解かれていきます。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ) 依智不依識(智に依りて識に依らざれ) 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) 依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
学者のそれは文献学としての研究であって、大事な法理・法門といった「義に依りて語に依らざれ」という角度から論じられたものではありません。
その法理・法門といった角度から論じておられるのが日蓮大聖人です。
Talk宗教板の
ゆゆしき法界 パート30 https://talk.jp/boards/psy/1703383185
の以下のレスの続きをこちらで述べて行きます。
>> 758 から >> 872 まで
仏教は仏が説かれた教えです。その仏教を正しく理解し実践していく為にお釈迦さまは亡くなる直前、『涅槃経』の中で遺言的に仏亡き後の世において、修行者が拠りどころとすべく「法四依」と「人四依」を示されておられます。
ここから外れてしまいますと、仏教はあらぬ方向へと向かって行きます。
<法四依>
①依義不依語(義に依りて語に依らざれ) ②依智不依識(智に依りて識に依らざれ) ③依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ) ④依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
以上の内容の意味は次のようになります。
①意味に依拠して、文辞に依拠しない ②智慧に依拠して、知識に依拠しない ③完結した経典に依拠して、未完結の教説に依拠しない ④真理(法理・法門)に依拠して、人間の見解に依拠しない
人四依に関しては、諸説ありますが法四依に順じて考えるならば次の説を取るべきかと私は考えます。
<人四依> ①歓喜地(初地)の前にある菩薩 ②初地から五地にある菩薩 ③六地あるいは七地にある菩薩 ④八地から十地にある菩薩
『法華経』で説かれております「開三顕一の法門」で人四依をひも説けば次のような内容になるからです。
①声聞の智慧(蔵教の菩薩) ②縁覚の智慧(通教の菩薩) ③菩薩の智慧(別教の菩薩) ④仏の智慧 (円教の菩薩)
今回取り上げております馬鳴が書いたとされる『起信論』ですが、④の円教の菩薩にあたる天台智顗や日蓮大聖人はそれを用いてはおられません。
また、馬鳴は「80年~150年」の人で龍樹は「150年~250年」、世親は「300年~400年」の人物です。龍樹や世親がその存在を知っていて当然でしょうが『起信論』の言葉を引用されている文献が果たしてあるのでしょうか。
ちなみに馬鳴は、①の蔵教の菩薩で、龍樹は②の通教の菩薩、世親は③の別教の菩薩にあたります。
では『起信論』とは何を語った論書かと言えば、本覚思想と如来蔵思想を語った論書になります。
「本覚思想」とは本来凡夫は仏であると説く「凡夫=仏」という考えです。これは真言宗や禅宗系に多く見られる教理です。それに対し日蓮や智顗は「凡夫+仏=即身成仏」で凡夫が阿頼耶識に眠る仏の心を因として、末那識のクリヤー化された自我意識で縁起を起こすとで「生身の凡夫」が仏の智慧を授り仏と同等の智慧を得ると説きます。
ですから日蓮や智顗は「凡夫がそのまま仏」という解釈ではありません。
「凡夫がそのまま仏」と考える真言宗や禅宗系の仏教観を「本覚思想」と言います。日本の天台宗にあっては最澄(伝教大師)以後、真我を説くヒンズー教の教えが混入したチベット密教が入り込んでこの「本覚思想」に染まっていきます。
天台智顗や日蓮大聖人は、「本覚思想」や「如来蔵思想」を説いてはおられません。日蓮さんにあっては、天台宗のそういったチベット密教化を批判されて天台宗を去って行かれた方ですので。
日蓮宗の妙覚寺のサイト記事からです。 http://myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index69.htm
また、日蓮聖人は61代座主顕真(1131~1192年)を、「一向謗法の法然が弟子」『神国王御書』(同889頁)となったとみています。顕真は承安3年(1173年)に比叡山より大原別所に隠棲し、文治2年(1186年)に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされます。翌年勝林院で不断念仏をはじめ建久元年(1190年)に天台座主に就任しています。日蓮聖人は浄土信仰に傾斜した顕真を法然の弟子とみられ、この顕真が座主になったことを謗法とされたのです。
日蓮聖人の日本仏教史観の特徴は、正法である法華経の伝来と発展に注意が注がれていました。聖徳太子の仏教興隆の徳を称え、南都仏教の伝来も鑑真を法華仏教の先駆者として位置づけ、それを最澄の天台法華宗の前提とみなします。最澄は南都仏教界と対決し、比叡山を建立して法華経を宣揚してきましたが、日蓮聖人の感心は、その後の天台宗の座主が、最澄の意思通りに法華一乗を伝えているのか、という懐疑から謗法へと視野が移ります。
日蓮聖人は最澄が受け継いだ、天台大師の純粋な法華教学に、密教を混入させたことを、比叡山は濁れる山と批判しました。では、日蓮聖人はいつころ密教化したとみていたかというと、さきにのべたように、円仁・円珍の密教受容が叡山を真言宗に近づけたと指摘されたのです。
佐渡配流以前は、安然の『普通広釈』などを真言批判に引用していますが、身延期には比叡山を密教化させ、最澄に背反した円仁に源信をくわえて、正統天台の獅子身中の三虫と批判するようになります。円仁は天台宗を密教化し、安然は禅宗化し、慧心僧都源信は念仏化して最澄の法華思想から離れることになったのです。
「如来蔵思想」は言葉を代えればヒンズー教の「真我説」になるのではないでしょうか。
日本における密教と言えば、空海による東密の真言密教と最澄による台密の天台密教の二つの密教があります。
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取り合えず、今回の『大乗起信論』絡みの話だが、
わたしの意見は、
ここで述べておきます。
でおーが紹介している桜嵐坊さんの動画の中で、ゲストの藤村 潔氏が次のような図で『大乗起信論』を紹介しされております。
https://youtu.be/HCT-0sljdaU
説明されておられます通り『大乗起信論』は馬鳴(アシュヴァゴーシャ)が書いたとされていますが法蔵によるところが一般的な注釈です。
ではその法蔵を日蓮さんはどのように見ておられたか、『撰時抄』から紹介します。
まず原文です。
像法の後五百歳は唐の始・太宗皇帝の御宇に玄奘三蔵・月支に入つて十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて八万聖教・十二部経の淵底を習いきわめしに其の中に二宗あり所謂法相宗・三論宗なり、此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著近くは戒賢論師に伝えて漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給う、此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経等此れなり、天台智者等は此の旨を弁えず等云云、而も太宗は賢王なり当時名を一天にひびかすのみならず三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき漢土を手ににぎるのみならず高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし内外を極めたる王ときこへし賢王の第一の御帰依の僧なり、天台宗の学者の中にも頭をさしいだす人一人もなし、而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ、同じき太宗の太子高宗・高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師といふ者あり法相宗に天台宗のをそわるるところを見て前に天台の御時せめられし華厳経を取出して一代の中には華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てけり、太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども事相の印契と真言とはたえてみへず三密相応せざれば不了義経等云云、已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども天台大師程の智人・法華宗の中になかりけるかの間内内はゆはれなき由は存じけれども天台のごとく公場にして論ぜられざりければ上国王大臣・下一切の人民にいたるまで皆仏法に迷いて衆生の得道みなとどまりけり、此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり
次に現代語訳です。
像法時代の後半の五百年について述べよう。中国では唐の初めであり、太宗皇帝の時であった。このとき玄奘三蔵は貞観三年に出発してインドへの大旅行にたち、十九年(十七年とする説もあり)のあいだ百三十か国の寺塔を見聞して多くの論師に会いたてまつり、八万聖教・十二部経といわれる一代仏教の奥底を習いきわめたところ、そのなかに法相宗と三論宗という大乗の二宗があった。この二宗のなかで法相大乗宗というのは、遠くは弥勒菩薩が降臨して説いた法を無著菩薩がひろめたといわれ、当時は戒賢論師にまで伝えられていた。玄奘三蔵は戒賢論師からこの法相宗を習い伝えて中国へ帰り太宗皇帝に授けたのである。
この法相宗の精神は、仏教は衆生の機根に従うべきであるという。ゆえにすぐ成仏のできる一乗の機根の衆生には、三乗の説法が方便であって、一乗の説法が真実である。これは法華経等である。これとは逆に三乗の機根の衆生のためには、三乗の説法が真実であり、一乗の説法は方便である。これは深密経・勝鬘経等である。天台智者大師はこの旨をわきまえないで、法華経のみが即身成仏・真実得道の経典であるといっているが、天台は誤りである等の論議を立てているのが法相宗である。
しかも太宗皇帝は賢王である。当時はその名を天下にひびかすのみならず、古代の伝説にある三皇・五帝よりも勝れているとたたえられて、その名は四海に鳴り響いていた。中国全土を平定したのみか、西はインドとの国境である高昌まで、東の方は高麗までの一千八百余国をなびかし、その勢威は国の内外にまで仰がれた賢王であった。玄奘は実にこの賢王の帰依を受けていたのである。ゆえに、天台宗の学者の中にも頭をさしだす人は一人もいない。そして法華経の実義は、すでに一国に隠没してしまった。
同じく、この太宗の太子の高宗および高宗の継母たる則天皇后の時代に、法蔵法師という者があった。天台宗が法相宗に襲われているのを見て、前に天台の時に破られた華厳経をとり出し、華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てた。太宗の第四代・玄宗皇帝の御代、開元四年、同八年に、西の方インドから善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のいわゆる三三蔵が、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ってきて真言宗を立てた。この宗の立義によれば、教に二種類あって一には釈尊の顕教であり、いわゆる華厳や法華である。二には大日如来の密教で、いわゆる大日経等である。法華経は顕教の中では第一であるが、大日の密教に対すれば、極理は少し同じであるけれども、事相の印契と真言とは法華経にまったく説かれてない。ゆえに法華は身・口・意の三密が相応しないから不了義経である。
以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。これらの事件は、像法の後の五百年の中で初めの二百年――仏滅後千六、七百年のころであった。
五つの分段に分かれておりますが、最後の分段で日蓮さんは次のように申されております。
以上のように、法相・華厳・真言の三宗は、一同に天台法華宗を破って各自の邪義を立てたけれども、天台大師ほどの智人が法華宗の中にはなかった。内々はこれらの邪宗はいわれのないものだと知っていたけれども、天台のように公場で論じなかったので、上は国王大臣より下はいっさいの人民にいたるまで、みな仏法に迷い、衆生の得道は、みなとどまってしまった。
日蓮さんは、法蔵注釈の『起信論』など用いてはおられません。
でおーやJBL、夕などが「日蓮は本覚思想」だなどと良く言っておりますが、日蓮仏法を実践しておりますわたしは「本覚思想」など聞いたこともなかったというのが実際のところでもあります。
「本覚と始覚」と聞いて私が思う事は、「久遠実成と始成正覚」の話では?
という事です。
法華経を正しく読み取れず、勘違いしたのでは?
というのが動画解説を観てわたしが思った率直な感想です。
また、JBLが次のサイトの文献を紹介しておりますが、
https://ihatov.cc/blog/archives/2020/05/post_963.htm#:~:text=インド大乗仏教の説,すると説かれている。
大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク
↑これは学者の見解でしょう。
仏教は文献学でひも解けるような学問では御座いません。
なにか大きな勘違いをなされておられませんか?
仏教は『涅槃経』で示された法四依に基づいて法がひも解かれていきます。
依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
学者のそれは文献学としての研究であって、大事な法理・法門といった「義に依りて語に依らざれ」という角度から論じられたものではありません。
その法理・法門といった角度から論じておられるのが日蓮大聖人です。
Talk宗教板の
ゆゆしき法界 パート30
https://talk.jp/boards/psy/1703383185
の以下のレスの続きをこちらで述べて行きます。
>> 758 から >> 872 まで
仏教は仏が説かれた教えです。その仏教を正しく理解し実践していく為にお釈迦さまは亡くなる直前、『涅槃経』の中で遺言的に仏亡き後の世において、修行者が拠りどころとすべく「法四依」と「人四依」を示されておられます。
ここから外れてしまいますと、仏教はあらぬ方向へと向かって行きます。
<法四依>
①依義不依語(義に依りて語に依らざれ)
②依智不依識(智に依りて識に依らざれ)
③依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)
④依法不依人(法に依りて人に依らざれ)
以上の内容の意味は次のようになります。
①意味に依拠して、文辞に依拠しない
②智慧に依拠して、知識に依拠しない
③完結した経典に依拠して、未完結の教説に依拠しない
④真理(法理・法門)に依拠して、人間の見解に依拠しない
人四依に関しては、諸説ありますが法四依に順じて考えるならば次の説を取るべきかと私は考えます。
<人四依>
①歓喜地(初地)の前にある菩薩
②初地から五地にある菩薩
③六地あるいは七地にある菩薩
④八地から十地にある菩薩
『法華経』で説かれております「開三顕一の法門」で人四依をひも説けば次のような内容になるからです。
①声聞の智慧(蔵教の菩薩)
②縁覚の智慧(通教の菩薩)
③菩薩の智慧(別教の菩薩)
④仏の智慧 (円教の菩薩)
今回取り上げております馬鳴が書いたとされる『起信論』ですが、④の円教の菩薩にあたる天台智顗や日蓮大聖人はそれを用いてはおられません。
また、馬鳴は「80年~150年」の人で龍樹は「150年~250年」、世親は「300年~400年」の人物です。龍樹や世親がその存在を知っていて当然でしょうが『起信論』の言葉を引用されている文献が果たしてあるのでしょうか。
ちなみに馬鳴は、①の蔵教の菩薩で、龍樹は②の通教の菩薩、世親は③の別教の菩薩にあたります。
では『起信論』とは何を語った論書かと言えば、本覚思想と如来蔵思想を語った論書になります。
「本覚思想」とは本来凡夫は仏であると説く「凡夫=仏」という考えです。これは真言宗や禅宗系に多く見られる教理です。それに対し日蓮や智顗は「凡夫+仏=即身成仏」で凡夫が阿頼耶識に眠る仏の心を因として、末那識のクリヤー化された自我意識で縁起を起こすとで「生身の凡夫」が仏の智慧を授り仏と同等の智慧を得ると説きます。
ですから日蓮や智顗は「凡夫がそのまま仏」という解釈ではありません。
「凡夫がそのまま仏」と考える真言宗や禅宗系の仏教観を「本覚思想」と言います。日本の天台宗にあっては最澄(伝教大師)以後、真我を説くヒンズー教の教えが混入したチベット密教が入り込んでこの「本覚思想」に染まっていきます。
天台智顗や日蓮大聖人は、「本覚思想」や「如来蔵思想」を説いてはおられません。日蓮さんにあっては、天台宗のそういったチベット密教化を批判されて天台宗を去って行かれた方ですので。
日蓮宗の妙覚寺のサイト記事からです。
http://myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index69.htm
また、日蓮聖人は61代座主顕真(1131~1192年)を、「一向謗法の法然が弟子」『神国王御書』(同889頁)となったとみています。顕真は承安3年(1173年)に比叡山より大原別所に隠棲し、文治2年(1186年)に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされます。翌年勝林院で不断念仏をはじめ建久元年(1190年)に天台座主に就任しています。日蓮聖人は浄土信仰に傾斜した顕真を法然の弟子とみられ、この顕真が座主になったことを謗法とされたのです。
日蓮聖人の日本仏教史観の特徴は、正法である法華経の伝来と発展に注意が注がれていました。聖徳太子の仏教興隆の徳を称え、南都仏教の伝来も鑑真を法華仏教の先駆者として位置づけ、それを最澄の天台法華宗の前提とみなします。最澄は南都仏教界と対決し、比叡山を建立して法華経を宣揚してきましたが、日蓮聖人の感心は、その後の天台宗の座主が、最澄の意思通りに法華一乗を伝えているのか、という懐疑から謗法へと視野が移ります。
日蓮聖人は最澄が受け継いだ、天台大師の純粋な法華教学に、密教を混入させたことを、比叡山は濁れる山と批判しました。では、日蓮聖人はいつころ密教化したとみていたかというと、さきにのべたように、円仁・円珍の密教受容が叡山を真言宗に近づけたと指摘されたのです。
佐渡配流以前は、安然の『普通広釈』などを真言批判に引用していますが、身延期には比叡山を密教化させ、最澄に背反した円仁に源信をくわえて、正統天台の獅子身中の三虫と批判するようになります。円仁は天台宗を密教化し、安然は禅宗化し、慧心僧都源信は念仏化して最澄の法華思想から離れることになったのです。
「如来蔵思想」は言葉を代えればヒンズー教の「真我説」になるのではないでしょうか。
日本における密教と言えば、空海による東密の真言密教と最澄による台密の天台密教の二つの密教があります。