お気に入りの一枚を、貼ってください😜
『イメージの大海原』に船を出しましょう!
心のおもむくままに、帆を張り風を繋いでいきます。
ここは、妄想美術館です。
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ライカ M3
戦場写真
誰もが知る戦場カメラマンといえばロバート・キャパでしょう。
「ギャラリー・フェイク」11話は、戦場カメラマンと彼の愛機ライカM3の物語です。
戦場という絶望的状況の中で 人の心がひと時通い合う瞬間、幸せのかけら
それが心折れたカメラマンにシャッターを押させたのです。
「不思議の国のアリス」とルイス・キャロル
「不思議の国のアリス」
アリスのモデルとなったアリス・リデル嬢
「ルイス・キャロル」 ウィキペディアより
ルイス・キャロル(Lewis Carroll [ˈluːɪs ˈkæɹəł], 1832年1月27日 - 1898年1月14日)は、イギリスの数学者、論理学者、写真家、作家、詩人である。
本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson [ˈt͡ʃɑːłz ˈlʌtwɪd͡ʒ ˈdɒdsən]) で、作家として活動する時にルイス・キャロルのペンネームを用いた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をこれに対応するラテン語名 "Carolus Ludovicus" に直し、再び英語名に戻して順序を入れ替えたものである。なお、 "Dodgson" の実際の発音は「ドジソン」ではなく「ドッドソン」に近いという説もあるが[1]、この記事では慣例に従い「ドジソン」と表記する。
作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常に良く知られている。「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。
キャロルの作品は出版以来人気を博し続けており、その影響は児童文学の域に止まらず、ジェイムズ・ジョイスやホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀の作家らにも及んでいる。
ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは写真家であり、芸術写真史にもその名を残している。ドジソンはアマチュアながらも写真湿板という写真撮影で優れた腕前を持っていた。
天才数学者
数学講師のR・B・メイヤーは「ラグビー校に赴任して以来、彼の年齢で彼ほど有望な少年を見たことがない」と述べている
コスプレの父?
「チャールズのお気に入りの被写体はエクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンであった。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。1880年にチャールズは16歳のエクシーの水着写真を撮影する許可を取り付けようとしたが、これは許されなかった。ほぼすべての少女写真では、被写体の名前が写真の角に色付きインクで記されている。
チャールズの作品の中には、少女たちに中国人風やギリシャ人風、物乞い風など様々な衣装を着せて撮影された、今日でいうところのコスチューム・プレイの写真が多数含まれている。」
「チャールズが少女ヌードを撮影していた理由としては、チャールズがロマン主義の影響を強く受けており、神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかとの指摘がある[5]。一方で、彼の少女ヌードの撮影やスケッチは、後の章で述べるように、長らくチャールズを小児性愛者であるとの推測に結び付けてきた。」
天才数学者・小説家・詩人にして、ロリコン、コスプレの父!
これって・・・『現代社会』だと危ない人っぽくないですか?
この写真って、たぶんモノクロ写真の上に彩色してますよね。
【 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ 】 ウィキペディアより
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(伊: Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571年9月28日 - 1610年7月18日)は、バロック期のイタリア人画家。
ルネサンス期の後に登場し、カラヴァッジョ(Caravaggio)という通称で広く知られ、1593年から1610年にかけて、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現は、バロック絵画の形成に大きな影響を与えた。
「若者たちの合奏」 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
「マタイの殉教」
( 注 意 )
彫刻家・画家・建築家である ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ さんと間違えないこと。
間違えられると怒ります。(たぶん)
【 ファン・ゴッホ 】
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは、オランダのポスト印象派の画家。 主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代とサン=レミでの療養時代に制作された。感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。 ウィキペディア
生年月日: 1853年3月30日
生まれ: オランダ ズンデルト
死亡: 1890年7月29日, フランス オーヴェル=シュル=オワーズ
本名: Vincent Willem van Gogh
連作: ひまわり、 ファンゴッホの寝室、 自画像、 医師ガシェの肖像、 さらに表示
「ゴッホっぽい」
【 ポール・ゴーギャン 】
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(フランス語: Eugène Henri Paul Gauguin フランス語発音: [øʒɛn ãʁi pol ɡoɡɛ̃] 発音例, 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の画家。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。
『ポール・ゴーギャン(赤いベレー帽の男)』ファン・ゴッホ
『3人のタヒチ人』
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
ゴッホとゴーギャンは、仲良しでした。
ゴッホは寂しがり屋で同年代の友達に共同生活しようという手紙を、書きまくりました。
しかし誰も相手にしてくれません。
ただ一人 かわいそうに思ったゴーギャンだけが、アルルまでやって来てくれたのです。
ゴッホは喜びました。
寝ても醒めてもゴーギャンの事が、頭を離れません。
やがてゴッホの暴走はひどくなり、何かというと自分の耳を切り落とそうとします。
さすがのゴーギャンも2ヶ月ほどでうんざりして帰ってしまいました。
その後、ゴッホは一人 アルルで泣き濡れて暮らしましたとさ。
「ひまわり」はアルルにやってくるゴーギャンを歓迎する為に描いた作品だそうです。
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。
『オフィーリア』は、1851年から1852年にかけて制作されたジョン・エヴァレット・ミレーによる絵画である。ロンドンにあるテート・ブリテン美術館に所蔵されている。 ウィキペディア
アーティスト: ジョン・エヴァレット・ミレー
寸法: 76 cm x 1.12 m
展示場所: テート・ブリテン
時代・様式: ラファエル前派
個の素材: 油絵具
題材: オフィーリア、 エリザベス・シダル
「オフィーリア (Ophelia)」
オフィーリア(英語: Ophelia)は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の登場人物である。デンマークの若い貴婦人で、ポローニアスの娘、レアティーズの妹、ハムレット王子の妃候補でもある。王妃ガートルードとならんで、この戯曲に登場する2人の主な女性キャラクターのうちの一人である。日本語ではオフェリア、オフェリヤなどと表記することもある。
オフィーリアはしばしば美術作品の主題となっており、古典主義、ロマン主義、ラファエル前派などの画家たちに画題とされた。
第4幕第7場で王妃ガートルードは「小川を斜めに横切ってはえるヤナギが…」で始まる台詞で、オフィーリアがヤナギの木に登り、小枝が折れたせいで小川に落ちて溺死してしまったことを報告する。ガートルードは、オフィーリアは「自身の災難もわからぬまま」のように見えたと述べる。ガートルードがオフィーリアの死を説明する場面は、文学における最も詩的な死の知らせの一つとして賞賛を集めている。
ハムレットがオフィーリアに言い放つ有名な台詞と言えば、「尼寺へ行け」ですね。
当時の尼寺は陰で売春を行っていたという説があり、「ハムレットとの結婚に固執せず、世俗を捨てろ。(俺のことは、忘れてくれ。)」という意味だという解釈があるそうです。