国境と言えばアゼルバイジャンがコロナ禍以降も外国人に対し陸路国境を閉ざし続けている。理由はパンデミック防止のためとされているが、実状は強権体制維持の一環か。しかし空路から入れば日本人なら無料のアライバルビザが支給されて自由旅行が可能と、トルクメニスタンに比べれば状況は緩く何のためなのかよくわからない。要は貧乏人は来るなという事か。
あまり知られていないが、隣国のイランには本国アゼルバイジャンの人口を上回る2000万人以上のアゼルバイジャン系がマイノリティーとして暮らしている。この人達は本国との自由な往来ができない。またアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバンはトルコと国境を接しており、アゼルバイジャン語と方言程度の言語の違いと言われるトルコ人の往来ができない。
この結果、シルクロード旅行者の旅程にも弊害をもたらすというなんとも不条理な話である。
それがEuropaとアメリカの違い。
アメリカの国境線は、メキシコ国境は、テキトーだったので、問題になっている。また、フロリダは、現在は減ったかもしれないが、かつてはキューバから舟で渡ってくる人もそれなりにいた。 したがって、メキシコ国境に近くなるとヒスパニックが多く、フロリダ南部はキューバ移民が多い。 もっとも、バイデン政権の時代は、不法移民を取り締まらないバイデン政権に業を煮やしたテキサス州知事が、不法移民をハリス副大統領の公邸の前までバスで連れて行って降ろしていったり、移民に寛容な姿勢を示すサンクチュアリーシティと言われるシカゴ、New York、サンフランシスコと言った地域向けを中心に、そこまで運んで降ろした。その結果、それらの都市でも反移民を掲げるトランプ大統領支持派が増えたと言われている。
アメリカが国境をあまり厳しく管理してこなかったのは、アメリカが移民の国であり、移民に開かれた国でなければならないという理念と、移民を安い労働力でこき使う悪徳資本家の要望だったと思う。 ただ、次から次と不法移民が押し寄せると、合法的に移民となった人達の賃金の下降圧力となるので、トランプ大統領の主張が支持される。 エウロパの国境管理の厳しさは、一般の日本人も殆どのアメリカ人も想像しがたいと言う点で共通すると思う。
>> 9230 この前読んだ『異国の旅から』を読んだときも、同じソ連影響下の東欧でありながら、国境警備の緊張感を感じた。 ところで、主権国家による国際秩序と国境の明確化と言うのは、1648年のウエストファリア条約以降のこと。 それまでは、現在のような国境はなかったと思うので、少子化が起これば、多産の民族が移り住んでくるだけで、少子化が国家の問題になると言うことはない時代だったと思う。また、現在の国境線を超えて自由に民族が出入りしていたはずなので、この地図のような分布になっていると言うことは、ウエストファリア条約以降に、血みどろの紛争が絶えなかったと言うことだろう。
普通、場所が異動するにつれて、徐々に宗教や民族構成が薄まったり、変化していくものだと思っていたが、 バルカン半島は、そうでもない。
それがEuropaとアメリカの違い。隣国と陸路でつながっているとは言え、言語と国境の壁は大きい。例えばこの地域では隣国の首都間を結ぶ国際列車は一日一往復あればいいほう。飛行機も飛んでいない事が多い。
とは言え旧ユーゴ諸国のように、ついこの間まで国境がなかったにも関わらず平準化されていないのは、各民族のアイデンティティーの強さ故か。
またまたまたバルカン半島の資料。 タイトルは、Percentage of Islam in the Balkansと言うものだが、この数値が合っているとしたら これだけでも民族構成や文化が入り乱れていることが推察できる。 普通、場所が異動するにつれて、徐々に宗教や民族構成が薄まったり、変化していくものだと思っていたが、 バルカン半島は、そうでもない。
いよいよプロ野球のキャンプインだが、今年は、気持ちテレビでの取り上げが少なかった気がした。大谷選手の取材に人員を割いているためなのか、気のせいか。新人監督で饒舌な藤川監督がテレビでは結構、喋っていた。 ところで、先日、上原浩治氏のYouTubeで三浦監督を見た。監督曰く、日本シリーズ優勝から、殆ど休みがないとのこと。個人的にテレビで時々見たり、イベントに参加している記事を読んだりするだけなのだが、そんなに忙しいのか、と思ってしまった。 ところで、バウアーはいつ来るのか。日ハムのレイエスは、母国ドミニカ共和国で練習しているのをSNSに載せているようで、暖かい地で独自調整をアピールしているが、バウアーはどこで調整しているのか。
AIによると次の理由らしい。野菜に着目していなかった。AIにはないが、日本のような清流が少ないのかもしれない。
イギリス料理がまずいと言われる理由には、次のようなものがあります。味付けが薄い、野菜が限られている、 過剰に調理されている。 イギリス料理は、シンプルで薄めの味付けが特徴です。食べる人が自分の好みの味に塩や胡椒、ソースをかけて食べるのが一般的です。 イギリス料理がまずいと言われる理由には、次のような歴史的な背景や気候的な要因があります。 産業革命の時代、効率が重視され、おいしい味付けよりも短時間で料理が作れることが優先された 農村が減ったため食糧が不足したり、労働時間が増えて料理をする時間が減ったりした 冬が長く、冬の日照時間が短い国のため、日光が必要な野菜は育ちづらい イギリス料理は、フィッシュ&チップスやシェパーズパイなどが代表的です。
漁業の事はよくわからないけど、いろいろな種類の魚介類の漁場として向いてないんじゃない。緯度と気候とか海底の地形とか海流の関係で。それでFish&Chips用のヒラメやタラくらいしか獲れない。イギリスに限らずノルウェーを除くスカンジナビア、バルト三国、ポーランド、ドイツあたりで地元の魚介類の名物料理はほとんどみかけない。 せいぜいオランダのニシンの酢漬け、ベルギーのムール貝と生牡蠣くらい。
イギリスっていうのは海に囲まれているのに何で食事がまずいって言われるんだろうね。海の幸が豊富なはずなのに。
イギリスのサンドイッチと言うのは、日本のサンドイッチみたいに食パンの耳を切り取った白い部分にオカズを挟んだもの?
そうそう。サンドウィッチ屋でパンの種類と具を選んで作ってもらうのと、日本みたいに出来合いがパックになったのがある。食べたのはもっぱら前者。当時£2(400円)以下だった。ダブリン出張の際食べてみたらロンドンのより具が多くておいしかった。後者は当時見ただけで食傷気味となり食べれなかった。
イギリスのサンドイッチと言うのは、日本のサンドイッチみたいに食パンの耳を切り取った白い部分にオカズを挟んだもの?サンドイッチ伯爵が、カードゲームをしながら食べられるものを考案したと言うのが起源らしいから、そうじゃないかな。日本では大船駅で最初に売り出したらしいので、駅弁としてデビューしたのであろう。 アメリカでサンドイッチと言うと、ハンバーガーに近い。それもかなり大きめ。(もっともアメリカの食事は何でも大きめだが。)
夕食を Tea と呼ぶのは聞いた事がない。Teaと一緒に cold meal を食べる事なのか afternoon tea で夕飯を抜きにする事なのか。Supperも聞かなかった(と思う)。
イギリスには不思議な食べ物が多い。クロテッドクリーム、ヨークシャプディングやパイ類、グレイビーソース、ベイクドビーンズなど。外国人はこれらを食べ慣れないが故に、一概にまずいと評すように思う。個人的にはFish&Chips以外はおいしいと思った。サンドウィッチは見るのも嫌になる程食べたが、今はコンビニでたまに買ってしまう。
イギリスとアメリカでは、色んな違いがあるが、夕食、夜食、おやつの言い方が異なるらしい。 そして、どうやらイギリス国内でも地方により違いがあるらしい。 High tea partyと言うのに日本で参加したことがあるが、これもteaだからお茶飲んで終わりかと思ったら結構、食べるものが多かったりする。主催者はイギリスの大学院を出た人だった。 ようワカラン。
それは大きなエネルギーになるだろう。 恐らく、その人の行動様式や思考パターンが、周りの環境と相性が悪かったと言うことだと思う。 生活保護を受けることを親族に知られたくないと言う思考も、日本にいるとその人のコミュニティにおける見栄の意識が優先してしまうと言うことだろう。そういう時は、大きく環境を変えるのも手である。 相性と言うと抽象的な言い方だが、具体的に突き詰めることに時間を割くよりも、環境を大きく変えてしまったほうがいいと言うこともある。 プロ野球だと、トレード等の球団移籍がその例だが、もっと大きく、長嶋一茂のように、野球を離れて芸能界に入り、大成功と言うこともある。この前、テレビでやっていたが、ハワイの別荘を購入時のレートで2億1千万円で購入したそうである。還暦まで数年にもかかわらず、現在もおそらく軽く1億円以上の年収があるであろうことを考えると、環境を変えて成功した例である。 別に、長嶋一茂を例に取らなくても、そう言うことはある。一方で、というか、殆どの人は、長嶋一茂のような知名度と言う資産もなく、同じ失敗を繰り返しながら人生を終えていくので、自分の分をわきまえて、大失敗をしない程度の挑戦にとどめる、ということが大切なのであろう。 どうにも行き詰まって海外に行ってみると言うのはアリだと思うが、好きで言ったのだからと言う理由で苦労を納得できるだけの心意気は必要であろう。
遺産相続でもめたので、生活保護を受けるのを親族に知られたくないと言うこと?
簡単に言うとそんな感じ。実際親族に連絡が行くのを嫌がり生活保護を受給せず、ホームレスに転落する人も多いらしい。
この人の場合それに加え投資で詐欺にあったり借金を棒引きにされたり散々な目に合い、日本に愛想をつかして未練がないとの事。それらから得た反動をぶっつけ本番移住のエネルギーにした。
遺産相続でもめたので、生活保護を受けるのを親族に知られたくないと言うこと? やはり、東南アジアでホームレスになった日本人もいたか。オーストラリアのワーホリの人達も、あてが外れてsouo kitchenに群がる日本人も出てきているそうだから。
この人は遺産相続等で親族と大もめして決別しているので、日本で生活保護という選択肢は考えられないと思う。できる限り年金の範疇で生活して貯金の切り崩しを最小限にし、その貯金でブルで終活するという心積もりのようだ。
最近は東南アジアで放蕩にふけた挙句ホームレス状態に陥っている人も多いらしいので、この人は恵まれているほうというか計画実行力はある模様。
損得を普通に考えたら、生活保護制度のある日本に住んだ方がいいであろう。但し、生活保護をもらうにも多少の気概が必要らしいが。親族に連絡するとかそれ以前に、窓口の人がどうにかして追い払おうとする。彼らにしてみれば、余計な仕事が増えるだけという感覚なんだろう。しかも受け持ち量が変わっても、民間の営業マンと異なり、給与は上がらない。 生活保護の申請に同行する弁護士のボランティアと言うのがあり、録音機を持って窓口に行く活動がある。
ロンドンでそういう人を知っている。駐在時とほぼ同等の待遇だよんと言っていた。しかし数年後に現地法人が畳まれる事になり、その後音信不通になった。
あっ、この人は年金生活者ね。しかも国民年金のみ。それで円安と物価高はダブルパンチ。調べてみたらBGN/JPYはこの人が移住した2016年以降3割以上高くなっている。物価が50%上がったとすると、生活費の上昇率は倍近いだろう。多少の貯金はあるみたいだけど全額ブルの銀行に送金して退路を断っているので、凌ぐしかない。
しかし家があるので月6,7万円でもやっていけるだろう。帰国はもちろん周辺諸国への旅行や日本食含む外食も儘ならず、現地人・日本人との付き合いもないようなのでかなり厳しそうではあるが。
ふと思ったが、ぶっつけ本番くらいの気概がないと、海外移住などできないかもしれない。 以前、New Yorkの日本人コミュニティの人達と会った時、アメリカ駐在になり、そのまま現地法人に勤務することにして海外移住を決めた人達もいると知った。そんなのは、恵まれ過ぎた例外なんだろう。
ぶっつけ本番でハンガリー語も片言程度で移住したとしたらすごいと思う。 言語の壁は働こうと思ったら、大きな壁になる。日本でも、そしてどこの国でもそうだが、一定レベル以上の仕事に就くには、ネイティブなのは当たり前として、ビジネス用語も、そして、くだけた場所でのカジュアルな会話もできないと難しい。よほど特殊な才能や資産を持っていれば別であるが。 そうなると生活費等、経済的なことが重要になるのだが、円安は痛手であろう。まともな仕事に就けないとなると、移住した時から、家系的には退職後の収支が始まっているようなものであるから。 それでもブルガリアが気に入っているのであれば、本望なのかな。望郷の念に駆られる人ばかりとは限らないと思う。
この人のすごいところは行った事のないブルガリアへぶっつけ本番で移住した事。生い立ちと経歴を読む限りなかなかすさまじく、そうせざるを得なかった事情が垣間見れる。
この人にとって想定外だったのはここへ来ての物価高騰と円安のダブルパンチだろう。ハンガリーの生活費は以前は日本の1/2から2/3くらいだったが、今は同等がむしろそれ以上。ブルガリアも同様の筈なので、日本を脱出した主な理由だった生活費の優位性はなくなってしまった。ブルガリアを気に入っているようなのでその点は幸いだが、今後病気になったら言葉もままならず一人で大変だと思う。
ブルガリアのブログを少しだけ読んだが、年金が少ないのでブルガリアで暮らすとのこと。以前は、日本を離れて、フィリピンやタイで年金生活を始めるのを援助する組織もあったら、最近は、日本の経済力低下でそれも難しくなってきていると聞いたが、ブルガリアはまだ大丈夫なのであろうか、とまず初めに思った。
現地の学校に通えるくらいの経済的余裕があったら、そう思うだろうね。ただ、やはり、先進国の場合、修士くらいまで現地でとらないと、日本人にとっては日本ほど良い仕事が見つからないのではないか。日本で勤務して、エウロパに滞在できたのであれば、御の字以上だと思う。海外志向が強くても、海外勤務が叶わない人の方が多いのだから。 バブル全盛期には、現地社員として就職しても給与は日本ほどではなかったと思う。アメリカでも、駐在員と現地社員ではかなりの差があった。現在は、失われた30年と円安の影響で、逆転現象が起きているかもしれないが。
イスタンブール空港で乗りたいと思った具体的な行先があり、それはドイツのリトルジャパン・デュッセルドルフ行きだった。その便に乗ったらどうなったかを考えると現地のドイツ語学校に通い、日系企業に現地社員として就職する位は行けたと思う。そこから先は神のみぞ知るになるが、夢を追ってみたかったという気持ちはある。 その時帰国して以来いろいろあったが、自分のテリトリーに旅行したりEuropaに滞在できたので、結果としては悪くなかった。一年後に計画通りハンガリーへ移住したらどうなるか。
そういえばブルガリアに移住した人のブログをみつけた。読み進めるとかなり癖が強いが、まずまず興味深い。 https://burugariadayori.blog.jp/archives/18354968.html
これは興味深い経験談だ。私も初めてアメリカに行った時、ワシントンDCの空港から早朝、出発するときに、そのまま残ったらどうなっていたかと思う時がある。ただ、その後、身内がアメリカの大学に入学し、ウォールストリートで働きグリーンカードまで取ったのだが、なかなかいい面もあれば、厳しい面もあることを知った。日本以上の学歴社会とコネ社会アメリカに入り込んでいくのは、よほどの資産でもない限り容易ではない。 初めがアメリカ合衆国だったのが良かったのか、悪かったのか。 良かったのは、英語が通じるのと、旅行の後で、飛躍的に英語力が伸びたこと。旅行前と後の英文を自分で比べてみると分かるのだが、旅行前には、何を言いたいのか、よく分からなかったり、丁寧な言葉とカジュアルな言葉使いが混ぜこぜになっていたりして、自分で見かえして恥ずかしい。これは、初めてのアメリカ旅行で知り合ったアメリカ人が、物書きで色々と押してくれたことが大きい。 とにかく前々から行きたいと思っていたダラスのディーリープラザと言うケネディ大統領の暗殺現場に行ってみた。そこで2時間から3時間、自分なりに色々と検証して歩き回っていたのだが、同じ場所でフィルム(当時はまだ、フィルムだった)を撮っていたアメリカ人の仲間たちと知り合い、その夜、ナイトクラブでショーをやるので、見に来ないかと言われて、見に行ってからの付き合いで、かれこれ、37年近くになる。 その後、色々と旅行して回ったのだが、途中ボストンのユースホステルで知り合った友人ともいまだに付き合いがあり、日本のわが家に来たこともある。ナイトクラブで知り合った友人は、自宅でパーティーを良くやっていたので、その後、何年間にもわたり、パーティーにお邪魔させてもらい、そこで知り合ったスペインの友人宅にも行ったりした。そしたら、スペイン人がアンダルシアの友人を紹介してくれて、そこで、1週間くらい滞在した。彼らはパーティーのことをFiestaと言うらしい。 ケネディ大統領の暗殺現場には、その後、オズワルドが狙撃されたと言うビルが博物館として公開されたので、再び訪れたが、近々、暗殺に関わる報告書が公開されるとのことで、どんな真相が出てくるのか。 その後、エウロパにも行ったが、エウロパの面白いところは、英語が通じない場所が多いところ。必然的に、現地の言葉を必死に覚えようとすることになる。1週間くらい滞在すると、挨拶だけではなく、買い物、道を教えるときなどを始め、段々と何を言おうとしているのか、どんな文法なのか、おぼろげながら分かってくる。そして、段々楽しくなった頃に帰国するのが常だった。 話を初めてのアメリか旅行に戻すと、確か、1か月半くらいの旅行だったが、帰国した後にリバース・カルチャーショックを感じた。日本の整然としたところと窮屈なところ、良い面も悪い面も感じたが、アメリカの社会のような大らかさがない反面、人種間に横たわるギスギスした緊張感もない。 当時、アメリカの物価は安いと思ったし、友人宅の家の値段もバブル全盛期の日本に比べて、安いと思った。 その後、日本は失われた30年だったが、アメリカはレーガノミクス、クリントン政権のIT革命と経済力を確実に伸ばしていった。 アメリカの友人達は、ローンを払い終わった自宅を購入時の3倍から10倍の高い値段で売却し、フロリダに移り住み始めている。フロリダに行かない友人も、悠々自適の年金を受給し、年に数回、海外旅行を楽しんでいる。 その友人たちは、その子供たちが、日本に来ることが時々あるが、日本はとにかく物価が安いと言って驚いている。
この一か月間の旅行は文字通り人生を変えた。それ迄の平凡で窮屈な日常に対し、新しい世界を目の当たりにする事でアドレナリンが湧き出るような気分の高揚感があった。帰国日にイスタンブール空港で出発便の電光表示に並ぶヨーロッパ方面の行先を見て、帰国を止めあの中のどれかに乗りたいという衝動にかられた。それをしたらどうなっていただろうかと今でもふと思う事がある。
当時既に地球の歩き方東欧編があり、そこには『ブダペストって綺麗な街ですね』と書いてあった。その程度の予備知識でブダペスト東駅に降り立ったら、驚く事が多かった。街中には見た事のないトラバントやラダ等東側製の車で溢れ、それらが吐き出す排煙に覆われていた。地下鉄の改札を出ると掌に靴やTシャツをかざした個人商人が出入口の階段迄ずらっと並んでいて、経済状態の悪さを実感した。街全体の雰囲気は8月だったせいか暗くはなかったけど、旅行者にとって素っ気のないものだった。宿泊したユースホステルでシャワーを浴びたらシャワーヘッドがなく、蛇口から流れ落ちる温水が頭上にあたって飛び散ったのもショックを増大させるのに十分だった。ちなみにこの手のシャワーは現在も市民プール等に残っていて、湯量を調節する事で問題なく使用できる。
などの理由で東欧圏にはもう2度と行きたくないと思い、スイスで会った台湾人にその事を話したら逆に『行くべき』と言われた。彼らは行ける国が限られているので。 それで予定通りユーゴスラビアとブルガリア経由でイスタンブール迄行ってみたら、結構おもしろいじゃないと考えが変わった。
書いていない🧐
89年の秋から暮れに掛け帰宅後に見たニュースステーションでは連日社会主義体制崩壊の様子が報道されていた。それで興味が沸き、翌年ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアを旅する事にした。初めての海外旅行でまずウィーンに降り立ち、外国とはこんなものかと思った後ハンガリーに行った。それで大カルチャーショックを受けたのは書いたっけ?
>> 9200 東ドイツ人がハンガリー経由で西ドイツに大量に流れた話は、かすかに覚えているが、このカラクリは知らなかった。 野口悠紀雄が、当時、情報があふれる時代に情報を統制仕切れなくなり、それがベルリンの壁崩壊の遠因になったと言っていた。SNSがない時代でもそんなことがあったのかな、と振り返って思う。
壁が崩壊したのが11月だったが、その2か月前の9月の連休、京都のユースホステルで一緒になったスイス人、西ドイツ人と行動を共にして色々と話した。西ドイツ人が、国家の分裂状態を嘆いていたのを覚えているが、その2か月後に壁が崩壊したのだから、一気呵成に自体が動いたことに今でも驚く。
大統領に就任直後だったので、気概に満ちていたのだろう。80年代に入ると対外債務返済のため、悪名高い飢餓輸出を行った。ルーマニア人の知人はその点を評価していたが。
さらにシステマイゼーションと称して主にトランシルバニア地方の市街地を取り壊して共産主義的な建築物に造り変えるプロジェクトに着手した。これが結果的に鉄のカーテン崩壊のきっかけになった。住居を追われたハンガリー系住民が大挙してハンガリーへ難民として押し寄せた。これを持て余した当時のハンガリー政府は、難民の第三国への出国を許す法案を可決した。89年8月の東独難民がハンガリー経由で西ドイツへ亡命したヨーロッパピクニックはこうして可能になった。その後東欧諸国でのドミノ倒しが発生し、チャウシェスクは自分で自分の首を締めた事になる。
私が勤務する前に訪れたと職場に長くいる女性の先輩が言っていた。 確か会社に来たと言っていた記憶があるが、ただ単に、近くに来たので、その先輩がテレビで関心をもって見たと言うだけだったのかもしれない。検索しても、勤務先を訪れた形跡がないので、多分、間違いである。かつての勤務先付近に来たことがあるようだ、と訂正いたします。すみません。 検索すると、ベアリング工場を視察したとあるが、こういうところが、経済発展を目論む気概を感じる。
>> 9197
ルーマニアのチャウチェスク大統領は、以前の勤務先に来たことがあった。
これではないね?でもこれ以降に来日した履歴がないのだが。
チャウシェスク大統領(ルーマニア)の工場視察 昭和50年(1975)4月、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領(1918~1989、任期1974~1989)が来日、柏原市国分東条町のベアリング工場を視察するとともに、同社と改めてベアリングのプラント輸出協定を締結するなどした。
あの時代からガツガツしていたのかもしれない。
チャウシェスクが宿泊したパリの高級ホテルの部屋の備品がチェックアウト後にいろいろとなくなっていたらしい。
ブカレストのチャウシェスクの墓地へ行った事があるが、献花があり綺麗にされていた。近くにあった妻エレナの墓は対照的に掃除もされていないような状態だった。
素朴さが感じられ
・・・経済で発展しようと思ったら、もっとガツガツしていないとダメだということか・ そう言えば、ルーマニアのチャウチェスク大統領は、以前の勤務先に来たことがあった。あの時代からガツガツしていたのかもしれない。
ブルガリアは出生率1.72, 減少率23%とコソボと同レベル。ブルガリアはEU及びシェンゲン圏なので西側へ自由に行く事ができ、この傾向はより加速する可能性がある。以前は経済的にルーマニアよりやや上という感じだったが、西側との距離感から逆転され差をつけられてしまった感がある。ブルガリアは国全体に素朴さが感じられ、個人的には好きだけど。
ところで、コソボを見ると貧しい国の特徴が如実に表れている気がする。 出生率は、1.88なのに人口は14%減。国の経済が海外出稼ぎ労働者の送金に頼る部分が多いそうだから、おそらく、若者は海外に移住することが多いのだろう。したがって、国自体は高齢化が進んでいるらしい。
青の掲示板レベルの書き込み感想ですまんが、バウアーが戻ってくるか。 これは楽しみだ。 これまでNPBのいい選手が一方的に、MLBに行くだけだったが、日ハムのレイエスもNPB以外考えられないと言っているし、 理由はともあれ、こういう選手が何人かNPBにいてもいい。 あとは、NPBの選手給与を上げる施策だが、球場チケットはかなり上がっているし、収容人数には限りがあるので放映権で稼ぐしかないのでは。 野球が盛んな国は限られているが、逆に言えば、まだブルーオーシャン戦略を他国で取れると言うこと。 台湾をNPBのリーグに巻き込むとか、チーム数を増やすとか、すでに巨人中心のリーグ経営の時代ではないので、色々と案は出てくるんじゃないかな。
>> 9191 ルーマニア人と言うのは、そんなに堕落しているのか😮
国境と言えばアゼルバイジャンがコロナ禍以降も外国人に対し陸路国境を閉ざし続けている。理由はパンデミック防止のためとされているが、実状は強権体制維持の一環か。しかし空路から入れば日本人なら無料のアライバルビザが支給されて自由旅行が可能と、トルクメニスタンに比べれば状況は緩く何のためなのかよくわからない。要は貧乏人は来るなという事か。
あまり知られていないが、隣国のイランには本国アゼルバイジャンの人口を上回る2000万人以上のアゼルバイジャン系がマイノリティーとして暮らしている。この人達は本国との自由な往来ができない。またアゼルバイジャンの飛び地のナヒチェバンはトルコと国境を接しており、アゼルバイジャン語と方言程度の言語の違いと言われるトルコ人の往来ができない。
この結果、シルクロード旅行者の旅程にも弊害をもたらすというなんとも不条理な話である。
アメリカの国境線は、メキシコ国境は、テキトーだったので、問題になっている。また、フロリダは、現在は減ったかもしれないが、かつてはキューバから舟で渡ってくる人もそれなりにいた。
したがって、メキシコ国境に近くなるとヒスパニックが多く、フロリダ南部はキューバ移民が多い。
もっとも、バイデン政権の時代は、不法移民を取り締まらないバイデン政権に業を煮やしたテキサス州知事が、不法移民をハリス副大統領の公邸の前までバスで連れて行って降ろしていったり、移民に寛容な姿勢を示すサンクチュアリーシティと言われるシカゴ、New York、サンフランシスコと言った地域向けを中心に、そこまで運んで降ろした。その結果、それらの都市でも反移民を掲げるトランプ大統領支持派が増えたと言われている。
アメリカが国境をあまり厳しく管理してこなかったのは、アメリカが移民の国であり、移民に開かれた国でなければならないという理念と、移民を安い労働力でこき使う悪徳資本家の要望だったと思う。
ただ、次から次と不法移民が押し寄せると、合法的に移民となった人達の賃金の下降圧力となるので、トランプ大統領の主張が支持される。
エウロパの国境管理の厳しさは、一般の日本人も殆どのアメリカ人も想像しがたいと言う点で共通すると思う。
>> 9230
この前読んだ『異国の旅から』を読んだときも、同じソ連影響下の東欧でありながら、国境警備の緊張感を感じた。
ところで、主権国家による国際秩序と国境の明確化と言うのは、1648年のウエストファリア条約以降のこと。
それまでは、現在のような国境はなかったと思うので、少子化が起これば、多産の民族が移り住んでくるだけで、少子化が国家の問題になると言うことはない時代だったと思う。また、現在の国境線を超えて自由に民族が出入りしていたはずなので、この地図のような分布になっていると言うことは、ウエストファリア条約以降に、血みどろの紛争が絶えなかったと言うことだろう。
それがEuropaとアメリカの違い。隣国と陸路でつながっているとは言え、言語と国境の壁は大きい。例えばこの地域では隣国の首都間を結ぶ国際列車は一日一往復あればいいほう。飛行機も飛んでいない事が多い。
とは言え旧ユーゴ諸国のように、ついこの間まで国境がなかったにも関わらず平準化されていないのは、各民族のアイデンティティーの強さ故か。
またまたまたバルカン半島の資料。

タイトルは、Percentage of Islam in the Balkansと言うものだが、この数値が合っているとしたら
これだけでも民族構成や文化が入り乱れていることが推察できる。
普通、場所が異動するにつれて、徐々に宗教や民族構成が薄まったり、変化していくものだと思っていたが、
バルカン半島は、そうでもない。
いよいよプロ野球のキャンプインだが、今年は、気持ちテレビでの取り上げが少なかった気がした。大谷選手の取材に人員を割いているためなのか、気のせいか。新人監督で饒舌な藤川監督がテレビでは結構、喋っていた。
ところで、先日、上原浩治氏のYouTubeで三浦監督を見た。監督曰く、日本シリーズ優勝から、殆ど休みがないとのこと。個人的にテレビで時々見たり、イベントに参加している記事を読んだりするだけなのだが、そんなに忙しいのか、と思ってしまった。
ところで、バウアーはいつ来るのか。日ハムのレイエスは、母国ドミニカ共和国で練習しているのをSNSに載せているようで、暖かい地で独自調整をアピールしているが、バウアーはどこで調整しているのか。
AIによると次の理由らしい。野菜に着目していなかった。AIにはないが、日本のような清流が少ないのかもしれない。
漁業の事はよくわからないけど、いろいろな種類の魚介類の漁場として向いてないんじゃない。緯度と気候とか海底の地形とか海流の関係で。それでFish&Chips用のヒラメやタラくらいしか獲れない。イギリスに限らずノルウェーを除くスカンジナビア、バルト三国、ポーランド、ドイツあたりで地元の魚介類の名物料理はほとんどみかけない。
せいぜいオランダのニシンの酢漬け、ベルギーのムール貝と生牡蠣くらい。
イギリスっていうのは海に囲まれているのに何で食事がまずいって言われるんだろうね。海の幸が豊富なはずなのに。
そうそう。サンドウィッチ屋でパンの種類と具を選んで作ってもらうのと、日本みたいに出来合いがパックになったのがある。食べたのはもっぱら前者。当時£2(400円)以下だった。ダブリン出張の際食べてみたらロンドンのより具が多くておいしかった。後者は当時見ただけで食傷気味となり食べれなかった。
イギリスのサンドイッチと言うのは、日本のサンドイッチみたいに食パンの耳を切り取った白い部分にオカズを挟んだもの?サンドイッチ伯爵が、カードゲームをしながら食べられるものを考案したと言うのが起源らしいから、そうじゃないかな。日本では大船駅で最初に売り出したらしいので、駅弁としてデビューしたのであろう。
アメリカでサンドイッチと言うと、ハンバーガーに近い。それもかなり大きめ。(もっともアメリカの食事は何でも大きめだが。)
夕食を Tea と呼ぶのは聞いた事がない。Teaと一緒に cold meal を食べる事なのか afternoon tea で夕飯を抜きにする事なのか。Supperも聞かなかった(と思う)。
イギリスには不思議な食べ物が多い。クロテッドクリーム、ヨークシャプディングやパイ類、グレイビーソース、ベイクドビーンズなど。外国人はこれらを食べ慣れないが故に、一概にまずいと評すように思う。個人的にはFish&Chips以外はおいしいと思った。サンドウィッチは見るのも嫌になる程食べたが、今はコンビニでたまに買ってしまう。
イギリスとアメリカでは、色んな違いがあるが、夕食、夜食、おやつの言い方が異なるらしい。

そして、どうやらイギリス国内でも地方により違いがあるらしい。
High tea partyと言うのに日本で参加したことがあるが、これもteaだからお茶飲んで終わりかと思ったら結構、食べるものが多かったりする。主催者はイギリスの大学院を出た人だった。
ようワカラン。
それは大きなエネルギーになるだろう。
恐らく、その人の行動様式や思考パターンが、周りの環境と相性が悪かったと言うことだと思う。
生活保護を受けることを親族に知られたくないと言う思考も、日本にいるとその人のコミュニティにおける見栄の意識が優先してしまうと言うことだろう。そういう時は、大きく環境を変えるのも手である。
相性と言うと抽象的な言い方だが、具体的に突き詰めることに時間を割くよりも、環境を大きく変えてしまったほうがいいと言うこともある。
プロ野球だと、トレード等の球団移籍がその例だが、もっと大きく、長嶋一茂のように、野球を離れて芸能界に入り、大成功と言うこともある。この前、テレビでやっていたが、ハワイの別荘を購入時のレートで2億1千万円で購入したそうである。還暦まで数年にもかかわらず、現在もおそらく軽く1億円以上の年収があるであろうことを考えると、環境を変えて成功した例である。
別に、長嶋一茂を例に取らなくても、そう言うことはある。一方で、というか、殆どの人は、長嶋一茂のような知名度と言う資産もなく、同じ失敗を繰り返しながら人生を終えていくので、自分の分をわきまえて、大失敗をしない程度の挑戦にとどめる、ということが大切なのであろう。
どうにも行き詰まって海外に行ってみると言うのはアリだと思うが、好きで言ったのだからと言う理由で苦労を納得できるだけの心意気は必要であろう。
簡単に言うとそんな感じ。実際親族に連絡が行くのを嫌がり生活保護を受給せず、ホームレスに転落する人も多いらしい。
この人の場合それに加え投資で詐欺にあったり借金を棒引きにされたり散々な目に合い、日本に愛想をつかして未練がないとの事。それらから得た反動をぶっつけ本番移住のエネルギーにした。
遺産相続でもめたので、生活保護を受けるのを親族に知られたくないと言うこと?
やはり、東南アジアでホームレスになった日本人もいたか。オーストラリアのワーホリの人達も、あてが外れてsouo kitchenに群がる日本人も出てきているそうだから。
この人は遺産相続等で親族と大もめして決別しているので、日本で生活保護という選択肢は考えられないと思う。できる限り年金の範疇で生活して貯金の切り崩しを最小限にし、その貯金でブルで終活するという心積もりのようだ。
最近は東南アジアで放蕩にふけた挙句ホームレス状態に陥っている人も多いらしいので、この人は恵まれているほうというか計画実行力はある模様。
損得を普通に考えたら、生活保護制度のある日本に住んだ方がいいであろう。但し、生活保護をもらうにも多少の気概が必要らしいが。親族に連絡するとかそれ以前に、窓口の人がどうにかして追い払おうとする。彼らにしてみれば、余計な仕事が増えるだけという感覚なんだろう。しかも受け持ち量が変わっても、民間の営業マンと異なり、給与は上がらない。
生活保護の申請に同行する弁護士のボランティアと言うのがあり、録音機を持って窓口に行く活動がある。
ロンドンでそういう人を知っている。駐在時とほぼ同等の待遇だよんと言っていた。しかし数年後に現地法人が畳まれる事になり、その後音信不通になった。
あっ、この人は年金生活者ね。しかも国民年金のみ。それで円安と物価高はダブルパンチ。調べてみたらBGN/JPYはこの人が移住した2016年以降3割以上高くなっている。物価が50%上がったとすると、生活費の上昇率は倍近いだろう。多少の貯金はあるみたいだけど全額ブルの銀行に送金して退路を断っているので、凌ぐしかない。
しかし家があるので月6,7万円でもやっていけるだろう。帰国はもちろん周辺諸国への旅行や日本食含む外食も儘ならず、現地人・日本人との付き合いもないようなのでかなり厳しそうではあるが。
ふと思ったが、ぶっつけ本番くらいの気概がないと、海外移住などできないかもしれない。
以前、New Yorkの日本人コミュニティの人達と会った時、アメリカ駐在になり、そのまま現地法人に勤務することにして海外移住を決めた人達もいると知った。そんなのは、恵まれ過ぎた例外なんだろう。
ぶっつけ本番でハンガリー語も片言程度で移住したとしたらすごいと思う。
言語の壁は働こうと思ったら、大きな壁になる。日本でも、そしてどこの国でもそうだが、一定レベル以上の仕事に就くには、ネイティブなのは当たり前として、ビジネス用語も、そして、くだけた場所でのカジュアルな会話もできないと難しい。よほど特殊な才能や資産を持っていれば別であるが。
そうなると生活費等、経済的なことが重要になるのだが、円安は痛手であろう。まともな仕事に就けないとなると、移住した時から、家系的には退職後の収支が始まっているようなものであるから。
それでもブルガリアが気に入っているのであれば、本望なのかな。望郷の念に駆られる人ばかりとは限らないと思う。
この人のすごいところは行った事のないブルガリアへぶっつけ本番で移住した事。生い立ちと経歴を読む限りなかなかすさまじく、そうせざるを得なかった事情が垣間見れる。
この人にとって想定外だったのはここへ来ての物価高騰と円安のダブルパンチだろう。ハンガリーの生活費は以前は日本の1/2から2/3くらいだったが、今は同等がむしろそれ以上。ブルガリアも同様の筈なので、日本を脱出した主な理由だった生活費の優位性はなくなってしまった。ブルガリアを気に入っているようなのでその点は幸いだが、今後病気になったら言葉もままならず一人で大変だと思う。
ブルガリアのブログを少しだけ読んだが、年金が少ないのでブルガリアで暮らすとのこと。以前は、日本を離れて、フィリピンやタイで年金生活を始めるのを援助する組織もあったら、最近は、日本の経済力低下でそれも難しくなってきていると聞いたが、ブルガリアはまだ大丈夫なのであろうか、とまず初めに思った。
現地の学校に通えるくらいの経済的余裕があったら、そう思うだろうね。ただ、やはり、先進国の場合、修士くらいまで現地でとらないと、日本人にとっては日本ほど良い仕事が見つからないのではないか。日本で勤務して、エウロパに滞在できたのであれば、御の字以上だと思う。海外志向が強くても、海外勤務が叶わない人の方が多いのだから。
バブル全盛期には、現地社員として就職しても給与は日本ほどではなかったと思う。アメリカでも、駐在員と現地社員ではかなりの差があった。現在は、失われた30年と円安の影響で、逆転現象が起きているかもしれないが。
イスタンブール空港で乗りたいと思った具体的な行先があり、それはドイツのリトルジャパン・デュッセルドルフ行きだった。その便に乗ったらどうなったかを考えると現地のドイツ語学校に通い、日系企業に現地社員として就職する位は行けたと思う。そこから先は神のみぞ知るになるが、夢を追ってみたかったという気持ちはある。
その時帰国して以来いろいろあったが、自分のテリトリーに旅行したりEuropaに滞在できたので、結果としては悪くなかった。一年後に計画通りハンガリーへ移住したらどうなるか。
そういえばブルガリアに移住した人のブログをみつけた。読み進めるとかなり癖が強いが、まずまず興味深い。
https://burugariadayori.blog.jp/archives/18354968.html
これは興味深い経験談だ。私も初めてアメリカに行った時、ワシントンDCの空港から早朝、出発するときに、そのまま残ったらどうなっていたかと思う時がある。ただ、その後、身内がアメリカの大学に入学し、ウォールストリートで働きグリーンカードまで取ったのだが、なかなかいい面もあれば、厳しい面もあることを知った。日本以上の学歴社会とコネ社会アメリカに入り込んでいくのは、よほどの資産でもない限り容易ではない。
初めがアメリカ合衆国だったのが良かったのか、悪かったのか。
良かったのは、英語が通じるのと、旅行の後で、飛躍的に英語力が伸びたこと。旅行前と後の英文を自分で比べてみると分かるのだが、旅行前には、何を言いたいのか、よく分からなかったり、丁寧な言葉とカジュアルな言葉使いが混ぜこぜになっていたりして、自分で見かえして恥ずかしい。これは、初めてのアメリカ旅行で知り合ったアメリカ人が、物書きで色々と押してくれたことが大きい。
とにかく前々から行きたいと思っていたダラスのディーリープラザと言うケネディ大統領の暗殺現場に行ってみた。そこで2時間から3時間、自分なりに色々と検証して歩き回っていたのだが、同じ場所でフィルム(当時はまだ、フィルムだった)を撮っていたアメリカ人の仲間たちと知り合い、その夜、ナイトクラブでショーをやるので、見に来ないかと言われて、見に行ってからの付き合いで、かれこれ、37年近くになる。
その後、色々と旅行して回ったのだが、途中ボストンのユースホステルで知り合った友人ともいまだに付き合いがあり、日本のわが家に来たこともある。ナイトクラブで知り合った友人は、自宅でパーティーを良くやっていたので、その後、何年間にもわたり、パーティーにお邪魔させてもらい、そこで知り合ったスペインの友人宅にも行ったりした。そしたら、スペイン人がアンダルシアの友人を紹介してくれて、そこで、1週間くらい滞在した。彼らはパーティーのことをFiestaと言うらしい。
ケネディ大統領の暗殺現場には、その後、オズワルドが狙撃されたと言うビルが博物館として公開されたので、再び訪れたが、近々、暗殺に関わる報告書が公開されるとのことで、どんな真相が出てくるのか。
その後、エウロパにも行ったが、エウロパの面白いところは、英語が通じない場所が多いところ。必然的に、現地の言葉を必死に覚えようとすることになる。1週間くらい滞在すると、挨拶だけではなく、買い物、道を教えるときなどを始め、段々と何を言おうとしているのか、どんな文法なのか、おぼろげながら分かってくる。そして、段々楽しくなった頃に帰国するのが常だった。
話を初めてのアメリか旅行に戻すと、確か、1か月半くらいの旅行だったが、帰国した後にリバース・カルチャーショックを感じた。日本の整然としたところと窮屈なところ、良い面も悪い面も感じたが、アメリカの社会のような大らかさがない反面、人種間に横たわるギスギスした緊張感もない。
当時、アメリカの物価は安いと思ったし、友人宅の家の値段もバブル全盛期の日本に比べて、安いと思った。
その後、日本は失われた30年だったが、アメリカはレーガノミクス、クリントン政権のIT革命と経済力を確実に伸ばしていった。
アメリカの友人達は、ローンを払い終わった自宅を購入時の3倍から10倍の高い値段で売却し、フロリダに移り住み始めている。フロリダに行かない友人も、悠々自適の年金を受給し、年に数回、海外旅行を楽しんでいる。
その友人たちは、その子供たちが、日本に来ることが時々あるが、日本はとにかく物価が安いと言って驚いている。
この一か月間の旅行は文字通り人生を変えた。それ迄の平凡で窮屈な日常に対し、新しい世界を目の当たりにする事でアドレナリンが湧き出るような気分の高揚感があった。帰国日にイスタンブール空港で出発便の電光表示に並ぶヨーロッパ方面の行先を見て、帰国を止めあの中のどれかに乗りたいという衝動にかられた。それをしたらどうなっていただろうかと今でもふと思う事がある。
当時既に地球の歩き方東欧編があり、そこには『ブダペストって綺麗な街ですね』と書いてあった。その程度の予備知識でブダペスト東駅に降り立ったら、驚く事が多かった。街中には見た事のないトラバントやラダ等東側製の車で溢れ、それらが吐き出す排煙に覆われていた。地下鉄の改札を出ると掌に靴やTシャツをかざした個人商人が出入口の階段迄ずらっと並んでいて、経済状態の悪さを実感した。街全体の雰囲気は8月だったせいか暗くはなかったけど、旅行者にとって素っ気のないものだった。宿泊したユースホステルでシャワーを浴びたらシャワーヘッドがなく、蛇口から流れ落ちる温水が頭上にあたって飛び散ったのもショックを増大させるのに十分だった。ちなみにこの手のシャワーは現在も市民プール等に残っていて、湯量を調節する事で問題なく使用できる。
などの理由で東欧圏にはもう2度と行きたくないと思い、スイスで会った台湾人にその事を話したら逆に『行くべき』と言われた。彼らは行ける国が限られているので。
それで予定通りユーゴスラビアとブルガリア経由でイスタンブール迄行ってみたら、結構おもしろいじゃないと考えが変わった。
書いていない🧐
89年の秋から暮れに掛け帰宅後に見たニュースステーションでは連日社会主義体制崩壊の様子が報道されていた。それで興味が沸き、翌年ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアを旅する事にした。初めての海外旅行でまずウィーンに降り立ち、外国とはこんなものかと思った後ハンガリーに行った。それで大カルチャーショックを受けたのは書いたっけ?
>> 9200
東ドイツ人がハンガリー経由で西ドイツに大量に流れた話は、かすかに覚えているが、このカラクリは知らなかった。
野口悠紀雄が、当時、情報があふれる時代に情報を統制仕切れなくなり、それがベルリンの壁崩壊の遠因になったと言っていた。SNSがない時代でもそんなことがあったのかな、と振り返って思う。
壁が崩壊したのが11月だったが、その2か月前の9月の連休、京都のユースホステルで一緒になったスイス人、西ドイツ人と行動を共にして色々と話した。西ドイツ人が、国家の分裂状態を嘆いていたのを覚えているが、その2か月後に壁が崩壊したのだから、一気呵成に自体が動いたことに今でも驚く。
大統領に就任直後だったので、気概に満ちていたのだろう。80年代に入ると対外債務返済のため、悪名高い飢餓輸出を行った。ルーマニア人の知人はその点を評価していたが。
さらにシステマイゼーションと称して主にトランシルバニア地方の市街地を取り壊して共産主義的な建築物に造り変えるプロジェクトに着手した。これが結果的に鉄のカーテン崩壊のきっかけになった。住居を追われたハンガリー系住民が大挙してハンガリーへ難民として押し寄せた。これを持て余した当時のハンガリー政府は、難民の第三国への出国を許す法案を可決した。89年8月の東独難民がハンガリー経由で西ドイツへ亡命したヨーロッパピクニックはこうして可能になった。その後東欧諸国でのドミノ倒しが発生し、チャウシェスクは自分で自分の首を締めた事になる。
私が勤務する前に訪れたと職場に長くいる女性の先輩が言っていた。
確か会社に来たと言っていた記憶があるが、ただ単に、近くに来たので、その先輩がテレビで関心をもって見たと言うだけだったのかもしれない。検索しても、勤務先を訪れた形跡がないので、多分、間違いである。かつての勤務先付近に来たことがあるようだ、と訂正いたします。すみません。
検索すると、ベアリング工場を視察したとあるが、こういうところが、経済発展を目論む気概を感じる。
>> 9197
これではないね?でもこれ以降に来日した履歴がないのだが。
チャウシェスク大統領(ルーマニア)の工場視察
昭和50年(1975)4月、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領(1918~1989、任期1974~1989)が来日、柏原市国分東条町のベアリング工場を視察するとともに、同社と改めてベアリングのプラント輸出協定を締結するなどした。
チャウシェスクが宿泊したパリの高級ホテルの部屋の備品がチェックアウト後にいろいろとなくなっていたらしい。
ブカレストのチャウシェスクの墓地へ行った事があるが、献花があり綺麗にされていた。近くにあった妻エレナの墓は対照的に掃除もされていないような状態だった。
・・・経済で発展しようと思ったら、もっとガツガツしていないとダメだということか・
そう言えば、ルーマニアのチャウチェスク大統領は、以前の勤務先に来たことがあった。あの時代からガツガツしていたのかもしれない。
ブルガリアは出生率1.72, 減少率23%とコソボと同レベル。ブルガリアはEU及びシェンゲン圏なので西側へ自由に行く事ができ、この傾向はより加速する可能性がある。以前は経済的にルーマニアよりやや上という感じだったが、西側との距離感から逆転され差をつけられてしまった感がある。ブルガリアは国全体に素朴さが感じられ、個人的には好きだけど。
ところで、コソボを見ると貧しい国の特徴が如実に表れている気がする。
出生率は、1.88なのに人口は14%減。国の経済が海外出稼ぎ労働者の送金に頼る部分が多いそうだから、おそらく、若者は海外に移住することが多いのだろう。したがって、国自体は高齢化が進んでいるらしい。
青の掲示板レベルの書き込み感想ですまんが、バウアーが戻ってくるか。

これは楽しみだ。
これまでNPBのいい選手が一方的に、MLBに行くだけだったが、日ハムのレイエスもNPB以外考えられないと言っているし、
理由はともあれ、こういう選手が何人かNPBにいてもいい。
あとは、NPBの選手給与を上げる施策だが、球場チケットはかなり上がっているし、収容人数には限りがあるので放映権で稼ぐしかないのでは。
野球が盛んな国は限られているが、逆に言えば、まだブルーオーシャン戦略を他国で取れると言うこと。
台湾をNPBのリーグに巻き込むとか、チーム数を増やすとか、すでに巨人中心のリーグ経営の時代ではないので、色々と案は出てくるんじゃないかな。
>> 9191
ルーマニア人と言うのは、そんなに堕落しているのか😮