天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮> 阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空> 阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中> 阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨ https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
天台・日蓮教学では、無為法とは一念三千の法門の事を言います。
ではどのように三観が円かに溶け合うのかを次に詳しく説明して参ります。
三観がどのように無為の法と成り得るのか。
それが説かれているのが『法華経』の本門です。
迹門では十如是と三周の説法で三種三観の三三九諦の相がまず開かれます。
どうやって開くかと言いますと方便品の「十如是」の三遍読みで開きます。
こちらの三三九諦図の、別相三観がその開かれた三種三観の相になります。
観の意味は世界観、諦の意味は真理で、凡夫は三観、仏は三諦と凡夫が仮設の世界を観るのに対し、仏は対象を真理(縁起)で観ます。
凡夫が捉える対象物は全て仮設ですが三身の応身如来は仮設ではありません。
縁起で立ち上がる実体が仮設です。
応身如来は凡夫の認識で顕れる真理です。
真如の世界を顕した十界曼荼羅がそれにあたります。
応身(縁=見られる側)+仮観(見る側)+仮諦(因果=因縁説周)
見る側である凡夫が見ている対境の曼荼羅と一体となります。と同時に覚りの因果もそこには備わっております。(一仮一切仮 ← 縁起ではない)
(※假 → 仮)
これが三三九諦図の(所観の境)としての仮諦の一念三千です。
報身とは覚りへ導く智慧です。具体的には『法華経』の教えがそれにあたります。
報身(縁=対境の心)+空観(観じる側の心)+空諦(因果=譬喩説周)
これが三三九諦図の(能観の智)としての空諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一空一切空 (← 縁起ではない)で顕れる。
法身とは法そのもので、具体的には当体蓮華の妙法になります。
法身(縁=南無妙法蓮華経)+中観(当体蓮華)+中諦(因果=法説周)
これが三三九諦図の(証成)としての中諦の一念三千。
因縁果が同時に同体として一中一切中 (← 縁起ではない)で顕れる。
『法華経』本門ではこの>> 16>> 17>> 18の円融三観が説かれております。
それを天台智顗が一仮一切仮・一空一切空・一中一切中の円融三観として説き顕しております。
阿頼耶識の三因仏性が末那識を鏡として円融で凡夫の一身に顕れます。
これが三諦の円融で起こる大円鏡智です。
<一仮一切仮>
阿頼耶識の縁因仏性(因縁説周)を因として、曼荼羅本尊(応身仏)を縁として、凡夫の体に応身如来が顕れます(果)。
<一空一切空>
阿頼耶識の了因仏性(譬喩説周)を因として、法華経(報身仏)を縁として、凡夫の体に報身如来が顕れます(果)。
<一中一切中>
阿頼耶識の正因仏性(法説周)を因として、南無妙法蓮華経(法身仏)を縁として、凡夫の体に法身如来が顕れます(果)。
この三諦の円融で凡夫の阿頼耶識に無漏の種子がインストールされます。
無為法とはこの無漏の種子を自身の阿頼耶識に薫習(インストール)する法門(方法)としての一念三千の事を言います。
無漏種子が薫習される事で、それが知識としてではなく経験値として修行の果徳が自身の阿頼耶識に備わります。
例えば、喫煙者はタバコが体に良くないという知識は持っています。しかし体に悪いと分かっていても中々止められない人が沢山います。しかし、お題目を唱えて行くとどういう訳か自然とタバコを止める事が出来たりします。これが知識としての薫習と経験値としての薫習の違いです。
人は人生において常に〝判断〟が付きまといます。
一瞬の判断を間違うと不幸の道へと転落して行きます。
ですから仏教では正しい判断が出来るように八正道が説かれております。
一念三千の法門で自身の阿頼耶識に無漏の種子が薫習されますと、そういった判断に対して正しい選択を直感的に無意識で出来るようになっていきます。
この場合の無意識は末那識で起こる縁起です(有為法)。
無漏の種子が薫習されているから起こる有為法です。
過去世に仏との善業が無い末法の本未有善の荒凡夫が、無漏の種子を薫習するには『法華経』で説かれた一念三千の法門によるしかありません。
どうしてかというお話を日蓮大聖人の御書を通してこちらで詳しくお話しております。
虚空絵(一) 法介のほ~『法華経』その⑦
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/24
虚空絵(二) 法介のほ~『法華経』その⑧
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/25
虚空絵(三) 法介のほ~『法華経』その⑨
https://zawazawa.jp/yuyusiki/topic/26
『無為法』のお話は、このへんで終わりとさせて頂きます
お付き合い頂きまして、ありがとうございました。