仏教のお話

Rの会:法華経序品第一

14 コメント
views
0 フォロー

Rの会:法華経序品第一

Rの会:妙法蓮華経序品第一
:
:
経題の意味
:
~原名はサンスクリット(梵語・ぼんご)「サッダルマ・プンダーリーカ・スートラ」です。「サッダルマ」は「サットとダルマ」の合成語で、サットは〈真実の・正しい・善い・勝れた〉という意味。ダルマは〈法〉という意味。ところが鳩摩羅什(くまらじゅう)はこれを〈妙法〉と訳しています。私(開祖さま)は、これが最高の名訳だと思います。「プンダリーカ」は「蓮の花」。〈人間は俗世(泥)のなかで生活しながら、それに染まることなく美しい・自由自在な生活ができる〉という教え。

梵文学の本田義英京都大学教授は、「プンダーリーカ」は、人間のなかの白蓮華である「菩薩」を意味すると論じています。〈不執不着(ふしゅうふぢゃく)なる般若空観的菩薩行の実践者を意味する〉というのです。かみ砕いて言えば、(菩薩とは…) 〈ⓐ目の前の現象にとらわれず、ⓑ小さな我に執着せず、ⓒものごとの実相を正しくみることによって、ⓓ全ての人間は本質において平等であることを達観し、ⓔそういう観かたにもとづいて人を救い世を救う行ないに挺身する人〉。それがプンダリーカすなわち白蓮華の意味だというのです。「スートラ」は「通し糸」の意味で、〈尊い仏の教えを一筋の系統にまとめたもの〉。「経」です。「経」も元は「縦糸・たていと」の意味です。

「サッダルマ・プンダーリーカ・スートラ」すなわち《妙法蓮華経》というのは、「➊俗世のなかにいながら、現象の移り変わりに迷わされず、➋仏の大慈悲のまにまに正しく生き、➌自分の人格を完成しつつ、世の中を完全平和な理想境につくり上げてゆく道を教え、しかも、➍人間は誰でもそれができる本質を平等に持っているのだということを説いた、この上もなく尊い教えだと定義できます。⇒ 【法華経は菩薩行実践の教え】
:
:
妙法蓮華経とは
:
~妙法蓮華経は、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ saddharma puṇḍarīka sūtra の中国語訳です。サッダルマは、sat + dharma という連声によってsaddharma に音が変わっています。サットは、「正しく、真実、よく、適当に」という意味で、ダルマには色々な意味がありますが、ここでは、「真理」という意味です。よって、サッダルマとは、「正しい真理」「正法」という意味です。竺法護(じくほうご)という訳経僧は「正法」と訳していますが、鳩摩羅什は、「妙法」と訳しました。妙とは、不思議なまでに優れていることです。法と妙法とは、何が違うのでしょうか? 真理には、俗諦と真諦があります。世俗の言葉で表すことができるのが俗諦で、言葉では表せない究極の真理を真諦といいます。妙法とは、真諦のことです。法華経では、真諦をテーマにしているので、サッダルマと名付けたのでしょう。

~プンダリーカ puṇḍarīka とは、白蓮華のことです。蓮華には、五つの徳があるといわれており、インドでは神聖な植物だといわれています。インド原産なこともありますが、その清浄で尊いことから、インドの国花になっています。特に白蓮華は別格です。最高であり、神聖であり、清浄であり、尊く、美しい花として愛されています。そのことから、プンダリーカという言葉によって、サッダルマを最高であり、神聖であり、清浄であり、尊く、美しい法だと譬えています。つまり、妙法蓮華とは、「最高の正しい真理」という意味です。蓮華は妙法に掛かっているわけです。従地湧出品第十五にある「世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」という経文から、妙法蓮華経の蓮華は、汚泥不染(おでいふぜん)のことだと解釈する方もいますが、従地湧出品第十五の蓮華は、パドマ padma です。紅蓮華(ぐれんか)のことですので、プンダリーカとは異なります。

~また、「妙法+蓮華」という言葉によって、「眼に見えない真理を眼に見える蓮華で喩える」という意味も含まれています。現象によって真理へと導くということですから、法華経の内容と一致します。スートラは、糸のことです。いくつかの葉っぱを糸で繋ぐように、教えを繋げて編纂したことからスートラという言葉が使われました。意味は、「教え・経典」です。
:
:
蓮華の五徳

➀汚泥不染(おでいふぜん)の徳
蓮の花は、汚れた泥から出ても、それに染まらずに浄い花を咲かせます。

➁一茎一花(いっけいいっか)の徳
蓮の花は、一つの茎に一つだけ花を咲かせます。

➂華果同時(けかどうじ)の徳
蓮の花は、咲いたと同時に種もできます。

④一花多果(いっかたか)の徳
蓮の花の種子は、一輪に対し多くの量が作られます。

⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳
茎の中には、空洞がありますが、真っすぐに伸びています。
:
:
序品第一とは
:
ニダーナ・パリヴァルタ
1 nidāna-parivartaḥ|

:
ニダーナは、「原因・動機」という意味で、パリヴァルタは、「章」という意味です。よって、ニダーナ・パリヴァルタとは、「原因の章」とうことでしょう。つまり、法華経が説かれるにいたる由縁についての章です。

主な登場人物は、弥勒菩薩と文殊菩薩です。釈尊が瞑想に入られて、不思議な現象を表したので、その理由を弥勒菩薩が文殊菩薩に質問します。この章では、釈尊は一言も話しません。
:
:

ダルマ太郎
作成: 2024/04/08 (月) 19:48:46
最終更新: 2024/04/11 (木) 21:28:14
通報 ...
1
ダルマ太郎 2024/04/08 (月) 23:10:24

声聞

是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶なりき。皆是れ阿羅漢なり。諸漏已に尽くして復煩悩なく、己利を逮得し諸の有結を尽くして、心自在を得たり。其の名を阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅という。是の如き衆に知識せられたる大阿羅漢等なり。復学無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼、眷属六千人と倶なり。羅睺羅の母耶輸陀羅比丘尼、亦眷属と倶なり。
:
:
霊鷲山の釈尊のもとへ八万人の菩薩、バラモン教や古代の神々らが集う

私はこのように聞いております。釈尊が王舎城の霊鷲山(りょうじゅせん)にいらっしゃった時のことです。釈尊のまわりには教えを聞くために、1万2千人にも及ぶ大勢の出家修行者たちが集まっていました。この人たちはみな、迷いを除き尽くした尊い境地に達している人たちです。煩悩を断ち切っており、自行を尽くした結果、人格の完成を果たしています。そして様々な現象にとらわれる心がなく、物事から超越しており、自由自在な心境を得ている人たちです。その人たちの名前をあげると、憍陳如(きょうじんにょ)、摩訶迦葉(まかかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もっけんれん・目連もくれん)、富楼那(ふるな)、阿難(あなん)、羅睺羅(らごら)などの大阿羅漢(だい あらかん)たちです。また、すでに学び尽して、もはや学ぶことがない人や、まだ学びの最中にあるお弟子たちが2千人もいます。そしてその中には、釈尊の養母である摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだい びくに)が6千人の同信者を引き連れており、羅睺羅(らごら)の母親である耶輸陀羅比丘尼(やしゅだら びくに)も、同信者たちを引き連れて列座しています。
:
:
このように私は聞きました。ある時、仏は、マガダ王国の都ラージャグリハのグリドラクータ山に住み、高位の男性出家修行者が一万二千人集っていました。この人々は、皆、聖者の悟りの位である阿羅漢たちです。様々な欲望をすでに滅し尽くしており、煩悩はなく、自分の利益を得て、現象にとらわれることがなく、心は自在を得ています。この阿羅漢たちの名をあげましょう。阿若憍陳如。摩訶迦葉。優楼頻螺迦葉。伽耶迦葉。那提迦葉。舎利弗。大目揵連。摩訶迦旃延。阿㝹樓馱。劫賓那。憍梵波提。離婆多。畢陵伽婆蹉。薄拘羅。摩訶拘絺羅。難陀。孫陀羅難陀。富樓那彌多羅尼子。須菩提。阿難。羅睺羅といいます。多くの人々に、善き影響を与えている大いなる阿羅漢たちです。また、学習中の弟子や学習を終えた弟子たちが二千人います。釈尊の育ての母であるマハー・プラジャーパティーが眷属六千人と共におり、釈尊の元妻であり、ラーフラの母であるヤショーダラーも多くの眷属と共にいます。
:
:
声聞衆

阿若喬陳如(あにゃきょうぢんにょ)アージュニャータ・カウンディヌヤ
摩訶迦葉(まかかしょう)マハー・カーシャパ
優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)ウルヴィルヴァー・カーシャパ
伽耶迦葉(がやかしょう)ガヤー・カーシャパ
那提迦葉(なだいかしょう)ナディー・カーシャパ
舎利弗(しゃりほつ)シャーリプトラ
大目健連(だいもつけんれん)マハー・マゥドガリヤーヤナ
摩訶迦旃延(まかかせんねん)マハー・カートゥヤーヤナ
阿㝹樓馱(あぬるだ)アニルッダ
劫賓那(こうひんな)カッピナ
喬梵波提(きょうぼんはだい)ガヴァーン・パティ
離婆多(りはた)レーヴァタ
畢陵伽婆蹉(ひつりょうかばしゃ)ピリンダ・ヴァトサ
薄拘羅(はくら)バックラ
摩訶拘チ羅(まかくちら)マハー・カウシュティラ
難陀(なんだ)マハー・ナンダ
孫陀羅難陀(そんだらなんだ)スンダラ・ナンダ
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)プールナ・マイトラーヤニープトラ
須菩提(しゅぼだい)スブーティ
阿難(あなん)アーナンダ
羅侯羅(らごら)ラーフラ

:
:

2
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 14:21:50

菩薩衆

菩薩摩訶薩八万人あり。皆阿耨多羅三藐三菩提に於て退転せず。皆陀羅尼を得、楽説弁才あって、不退転の法輪を転じ、無量百千の諸仏を供養し、諸仏の所に於て衆の徳本を植え、常に諸仏に称歎せらるることを為、慈を以て身を修め、善く仏慧に入り、大智に通達し、彼岸に到り名称普く無量の世界に聞えて、能く無数百千の衆生を度す。其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩という。是の如き等の菩薩摩訶薩八万人と倶なり。
:
:
代表的な菩薩の名を紹介。そしてそれら菩薩の徳分を讃歎

そして八万人にも達する菩薩たちも、座に連なっています。この菩薩たちはみな最高無上の悟りを目指す志を持ち、もはや善が悪に負けるような心身ではなく、人を正しく導く強い指導力(楽説弁才・ぎょうせつべんざい)を具えています。まるで車輪が回転し続けてどこまでも進んで行くように、仏の教えをあまねく説き弘めて行く努力を続けます。そして、自分の精進が後戻りするようなことなど決してありません。これらの菩薩たちは、これまでに数えきれないほど多くの仏を供養し、仏の悟りを得るための様々な善行を積み重ねています。ですから、仏から常に褒め讃えられている菩薩たちです。この菩薩たちは、まず人の幸せを願う「慈」の心を基本としており、全てのものの差別相(智)と平等相(慧)を見通す力を具えています。すでに迷いの世界を離れ、悟りの境地に達しています。ですからその素晴らしさと名声は、世界中にあまねく知れ渡たり、無数の衆生を救っている菩薩たちです。名前をあげますと、文殊(もんじゅ)菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩、勇施(ゆうぜ)菩薩、弥勒(みろく)菩薩など、数多くの菩薩たちが列座しています。
:
:
八万人の菩薩摩訶薩たちが共にいました。皆、最高の覚りを目指しており、その目的に向かって努力を続け、後戻りすることがありません。皆、ダーラニーを得ており、説法が巧みで、人々が修行から離れず、後退することのない教えを説いています。非常に多くの諸仏を敬い、諸仏に従って様々な善行を行い、常に諸仏に讃えられ、慈の心によって行動し、大いなる智慧に通達し、覚りに至り、その名は広く世間に知られ、多くの人々を救いました。この菩薩たちの名をあげましょう。文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・常精進菩薩・不休息菩薩・宝掌菩薩・薬王菩薩・勇施菩薩・宝月菩薩・月光菩薩・満月菩薩・大力菩薩・無量力菩薩・越三界菩薩・跋陀婆羅菩薩・弥勒菩薩・宝積菩薩・導師菩薩といいます。
:
:
菩薩衆

文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)マンジュシリー
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)アヴァローキテーシュヴァラ
得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)マハー・スターマプラープタ
常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)ニティヨーディユクタ
不休息菩薩(ふくそくぼさつ)アニクシプタドゥラ
宝掌菩薩(ほうしょうぼさつ)ラトナ・パーニ
薬王菩薩(やくおうぼさつ)バイシャジャ・ラージャ
勇施菩薩(ゆうぜぼさつ)プラダーナシューラ
宝月菩薩(ほうがつぼさつ)ラトナ・チャンドラ
月光菩薩(がっこうぼさつ)チャンドラ・プラバ
満月菩薩(まんがつぼさつ)プールナ・チャンドラ
大力菩薩(だいりきぼさつ)マハー・ヴィクラーミン
無量力菩薩(むりょうりきぼさつ)アナンタ・ヴィクラーミン
越三界菩薩(おつさんがいぼさつ)トライローキア・ヴィクラーミン
跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)バドラパーラ
弥勒菩薩(みろくぼさつ)マイトレーヤ
宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)
導師菩薩(どうしぼさつ)

 

3
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 20:14:17

雑類衆

欲界衆・色界衆

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。復名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王あり。其の眷属万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子、其の眷属三万の天子と倶なり。娑婆世界の主梵天王・尸棄大梵・光明大梵等、其の眷属万二千の天子と倶なり。
:
:
また、バラモン教の神々もいます。釈提桓因(しゃくだいかんにん・帝釈天たいしゃくてん のこと)や天上界の神々、四天王や娑婆世界を司る梵天(ぼんてん)の神々がいます。それらの神は、それぞれが何万人という多くの家来たちを引き連れています。
:
:
天上界の神々たち

そこには、シャクラ神が、その眷属の二万人の天上界の神々の子と共に参列していました。また、チャンドラ天子、サマンタ・ガンダ天子、ラトナ・プラバ天子と四大天王も多くの眷属と共にいました。イーシュヴァラ天子、マハーシュヴァラ天子も多くの眷属と共にいました。娑婆世界の大神であるブラフマー神、シキン大梵、ジョーティシュ・プラバ大梵等もその眷属一万二千人の天子と共にいました。
:
:
龍王衆

八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。各若干百千の眷属と倶なり。
:
:
八人のナーガ王も参列していました。ナンダ・ナーガ王。ウパナンダ・ナーガ王。サーガラ・ナーガ王。ヴァースキ・ナーガ王。タクシャカ・ナーガ王。アナヴァタプタ・ナーガ王。マナスビン・ナーガ王。ウトパラカ・ナーガ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
:
:
緊那羅王衆

四緊那羅王あり、法緊那羅王・妙法緊那羅王・大法緊那羅王・持法緊那羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のキンナラ王も参列していました。ダルマ・キンナラ王。スダルマ・キンナラ王。マハーダルマ・キンナラ王。ダルマダラ・キンナラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
:
:
乾闥婆王衆

四乾闥婆王あり、楽乾闥婆王・楽音乾闥婆王・美乾闥婆王・美音乾闥婆王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガンダルヴァ王も参列していました。マノージュニャ・ガンダルヴァ王。マノージュニャ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・ガンダルヴァ王。マドゥラ・スヴァラ・ガンダルヴァ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
:
:
阿修羅王衆

四阿修羅王あり、婆稚阿修羅王・佉羅騫陀阿修羅王・毘摩質多羅阿修羅王・羅睺阿修羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のアスラ王も参列していました。バリン・アスラ王。カラスカンダ・アスラ王。ヴェーマチトリン・アスラ王。ラーフ・アスラ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
:
:
迦楼羅王衆

四迦楼羅王あり。大威徳迦楼羅王・大身迦楼羅王・大満迦楼羅王・如意迦楼羅王なり。各若干百千の眷属と倶なり。

四人のガルダ王も参列していました。マハー・テージャス・ガルダ王。マハー・カーヤ・ガルダ王。マハー・プールナ・ガルダ王。マハルッディ・プラープタ・ガルダ王。それぞれが、多くの眷属と共にいました。
:
:
人王衆

韋提希の子阿闍世王、若干百千の眷属と倶なりき。各仏足を礼し退いて一面に坐しぬ。

ヴァイデーヒーの子、アジャータシャトルも多くの眷属と共に参列していました。各々が仏の前に進み、ひざまついて、その足に頭をつけ、退いて座に戻りました。
:
:

4
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 21:47:37

此土六瑞

爾の時に世尊、四衆に圍繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。仏此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って身心動したまわず。是の時に天より曼陀羅華・摩訶曼陀羅華・曼殊沙華・摩訶曼殊沙華を雨らして、仏の上及び諸の大衆に散じ、普仏世界六種に震動す。爾の時に会中の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人及び諸の小王・転輪聖王、是の諸の大衆未曾有なることを得て、歓喜し合掌して一心に仏を観たてまつる。爾の時に仏眉間白毫相の光を放って、東方万八千の世界を照したもうに周遍せざることなし。下阿鼻地獄に至り、上阿迦尼吒天に至る。
:
:
世尊は多くの菩薩たちに向けて、世を救い、人を救う教え、すなわち『無量義・教菩薩法・仏所護念』の教えを説かれたのでした。世尊はこの『無量義』の教えを説き終えると、諸法実相に全精神を集中する『無量義処三昧』という三昧に静かに入られました。すると天空から美しい花々が世尊のみ上に、そして、その座にいるすべての人たちにも等しく降りかかり、大地も感動して震え動きました。そのため、説法会にいるあらゆる人たち、修行者、バラモン教の神々、鬼神や国王、その家来たち、さらには動物をはじめ生きとし生けるものすべてが、かつてない深い感動を覚え、合掌して仏さまの尊いお顔を仰ぎ見るのでした。その時です。世尊の眉間から鮮やかな光がパッと放たれたのでした。その光は遥か東方の一万八千の国々、つまり、未来のすべての世界に及び、下は無限地獄(阿鼻地獄・あびじごく)、上は有頂天(阿迦尼吒天・あかにたてん)に至るまで、隅々に行きわたり、一斉に明るく照らし出されました。つまり、仏さまの智慧の光(眉間白毫相の光)によって、その人にとっての最低の状態(地獄)から最高の幸せの状態(有頂天)までを、つまびらかに明かされたのでした。
:
:
その時に世尊は、人々に囲まれて、供養、恭敬、尊重、讃歎されて、多くの菩薩たちのために、大乗の「無量義」という教えを説かれました。この教えは、菩薩を教化する教えであり、諸仏が大切に護っている教えです。仏は、この教えを説き終えられると姿勢を調えて坐られ、無量義の教えを深く噛みしめる三昧に入られました。身も心も落ちつかれており、まったく動くことがありませんでした。この時に天上から、マンダーラヴァ、大マンダーラヴァ、マンジューシャカ、大マンジューシャカという珍しくも美しい花々が、仏と人々の上にふってきました。そして、大地は、揺れ、動き、震え、また広い範囲でも揺れ、動き、震えました。その時に、この集会では、男女の出家修行者、男女の在家修行者、天上界の神々、ナーガ、ヤクシャ、ガンバルヴァ、アスラ、ガルダ、キンナラ、マホーラガ、人、人でないもの、王族の者たち、これらの人々は、珍しくも不思議な体験をして、歓喜し、合掌して、一心に仏を仰ぎ見ました。その時に仏は、眉間の白い巻毛より光を放って、東方のあらゆる世界を隅々まで照らし出しました。下は阿鼻地獄にまで至り、上は有頂天に至りました。
:
:
此土の六瑞

~➊『無量義経』が説かれる  ➋『無量義処三昧』に入る  ➌摩訶曼殊沙華が天空から降り注ぐ  ➍普仏世界六種震動  ➎大衆が未曽有の歓喜  ➏『仏眉間白毫相』の光を放つ
:
:
供養、恭敬、尊重、讃歎

~供養とは、プージャー pūjā の訳です。利供養・敬供養・行供養などがありますが、ここでの供養は、恭敬、尊重、讃歎です。恭敬とは、つつしんで敬うこと。尊重とは、相手を尊い者として認めて大切にすること。讃歎とは、徳をほめたたえることです。この言葉は、法華経の経文中によく出てきます。人と交流する際に、供養・恭敬・尊重・讃歎が必要だということでしょう。釈尊は、説法の時に相手の名を呼ぶことが多いのですが、これはインドの習慣で、相手を敬う行為だそうです。弟子たちも、釈尊を敬って、「世尊よ」などと呼びかけをします。
:
:
大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念

~釈尊は、菩薩たちのために、無量義・教菩薩法・仏所護念という名の大乗経をお説きになられました。この無量義を「無量義経」だとする解釈が多いようです。それだから、無量義経は法華経の開経だというわけです。しかし、それを否定する見解もあります。無量義というのは、「無量の教え」のことであり、法華経以前の大乗の教えのことだと言うのです。教菩薩法とは、「菩薩のための教え」のことで、仏所護念は、「仏が護り念じている教え」のことです。法華経以前に説かれた「般若波羅蜜経」は、声聞を菩薩に育てる教えですので教菩薩法とは言い難いのですが、そう呼ぶに相応しい教えがあるのかもしれません。
:
:
東方

東をサンスクリット語では、プゥールヴァ pūrva といいます。東以外にも「以前の」「昔の」などの意味もあります。よって、東方というのは、「過去」のことを表しているのでしょう。太陽は東から出るので東を過去とし、西に沈むので西を未来だとしたようです。西のことをプラチヤチ pratyac といい、未来の意味もあります。阿弥陀如来は西方の仏だといわれますから、未来仏なのでしょう。
:
:

5
ダルマ太郎 2024/04/09 (火) 22:29:33 修正

他土六瑞

此の世界に於て尽く彼の土の六趣の衆生を見、又彼の土の現在の諸仏を見、及び諸仏の所説の経法を聞き、竝に彼の諸の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の諸の修行し得道する者を見、復諸の菩薩摩訶薩の種々の因縁・種々の信解・種々の相貎あって菩薩の道を行ずるを見、復諸仏の般涅槃したもう者を見、復諸仏般涅槃の後、仏舎利を以て七宝塔を起つるを見る。
:
:
そのため六道を輪廻して迷う凡夫の姿や、それらの人々を救う仏の姿、修行者たちや菩薩たちの姿、そして仏が涅槃に入り、仏滅後、仏を讃嘆し供養する人々の姿などが見えるのでした。
:
:
この世界にいながらにして、他方の世界で迷い苦しんでいる人々を見、また、他方の世界で活躍されている諸仏を見、また、諸仏が様々な教えを説いているのを聞き、また、他方の世界の出家修行者たちや在家修行者たちが、様々な修行をし、道を得るのを見、また、菩薩摩訶薩たちが、様々な体験、様々な信心と理解、様々な様相を具え、菩薩の道を行じているのを見、また、諸仏が、完全な涅槃に入られるのを見、また、諸仏が完全なる涅槃に入られた後に、仏の遺骨を納めて七宝の塔を建てるのを見ました。
:
:
他土の六瑞とは

~他土(東方萬八千世界・未来の世界)
➊六道輪廻する衆生が見えた
➋諸仏の姿が見えた
➌諸仏の説法の声が聞こえた
➍出家・在家修行者の修行の結果を見ることができた
➎菩薩が菩薩道を行ずる姿が見えた
➏諸仏が涅槃に入り、人々が塔を建て、仏を供養する姿が見えた
※ 東方の世界とは、「未来の世界」

:
:
東方=未来?

Rの会では、東方を「未来」のことだと解釈しているようです。東とは、プゥールヴァ pūrva の訳であり、「東」「前方」「過去」などの意味がありますので、私は過去のことだと解釈しています。サンスクリットの辞典でも、東・過去と書いています。
:
:
サンスクリット語

仏教の経典の多くは、サンスクリット語かパーリ語で書かれました。大乗仏教の経典は、サンスクリット語です。サンスクリット saṃskṛtam とは、「正しく構成された(言語、雅語)」という意味であり、その言葉自体が言語を表すために、サンスクリットという表記でもいいのですが、日本では、通常、サンスクリット語といいます。

紀元前十五世紀頃から編纂されるようになった「ヴェーダ」という聖典は、ヴェーダ語が用いられており、ヴェーダ語を基にして紀元前五世紀頃にサンスクリット語ができました。ヴェーダは、バラモン教の聖典です。カースト上位のバラモン(司祭)、クシャトリア(王族)しか唱えることはできません。もし、下位のシュードラ(奴隷)などが唱えれば、熱して溶かした金属を耳の中に流し込むなどの罰が与えられました。よって上級の言葉だとされました。雅言葉です。

サンスクリット語には文字はありません。あるのは音だけです。ヴェーダ聖典は、師から弟子へと口伝で伝えられました。仏教の経典も口伝です。釈尊は、一部の上位カーストの人にしか伝わらないサンスクリット語を使うことを禁じ、その地域の民衆の言葉で布教するように教えていましたが、釈尊の死後、数百年もするとサンスクリット語が使われるようになり、サンスクリット語で文字化されました。サンスクリット語は、発音がきちんとできるのであれば、表記する文字には制限はありません。ブラーフミー文字、デーヴァナーガリー文字、ラテン文字などを使っています。

サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族です。英語に近い言語なので、それを中国語にするのは大変な作業です。文法が違うし、単語に共通性がありません。インドの思想と中国の思想は大きく異なるので、訳しようがない単語がたくさんありました。無我や空などは、特に分かりにくかったようです。鳩摩羅什によって、教育がされるまでは、中国での仏教は混乱していました。日本でも混乱があり、その影響は今でも続いています。

インドから中国、中国から日本。異文化の教えがすんなりと分かるはずはありません。よって、経典を読む場合は、仏教辞典が必要です。無我を知るためには、我という言葉の意味を調べる必要があります。日常で使っている意味とは異なります。我とは、アートマン ātman の訳語だからです。中国には、アートマンという概念がなかったため、それを表す言葉もありませんでした。そこで、「我」という字を借りて使うようにしました。我とは、円状の武器のことですので、字の意味とは合いません。アートマンを知りませんから、それを否定する無我については、知りようがありません。何が無いのだろう? と思うばかりです。

アートマンは、インド思想の核となる思想ですので、バラモン教やヒンドゥー教だけでなく、仏教・ジャイナ教などでも根本の教義です。しかし、インドでは常識的な概念でも、インド以外の国では知られていません。想像で意味づけができない概念なのです。それなのに、仏教の解釈本の多くは、自分勝手な解釈をしています。これは、仏教の教えを歪める結果になるだけです。中には、自分の宗派や教団の思想や行動を正当化するために、仏教用語の意味を変えて本にするところもあるので要注意です。

素人は、その解釈が正しいのか誤りなのかの判断がつきにくいです。なので、仏教辞典を持っておいた方がいいです。辞典を引くくせを身につければ、誤った解釈を見破れます。理想としては、経典を読み、出てきた単語は片っ端に辞典を引いて調べ、用語にはサンスクリット原語が書かれていることが多いので、できればサンスクリット辞典で意味を調べるのがいいです。下記のサイトは、使いやすいのでお薦めです。

https://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi

現在は、サンスクリット語経典の現代語訳もでています。法華経の場合は、植木雅俊氏による、サンスクリット原文とその現代語訳、鳩摩羅什訳の訓読を見開きにした本が出ています。少なくとも解釈者は、学んでおいた方がいいと思います。
:
:

6
ダルマ太郎 2024/04/10 (水) 21:19:10

仏教において、「空(くう)」は非常に重要な言葉です。大乗仏教では、この言葉を知らなければ経典は読めません。空には、形容詞のシューニャ śūnya と名詞のシューニャター śūnyatā があります。漢訳では、名詞の空を空性ということがありますが、ほとんどの場合は、どちらも空です。

仏教経典では、以前に言葉の意味を解説した場合は、再度その言葉が使われても解説は略されます。空については、般若経群で詳しく解説されていますので、それ以降の経典では解説はされていません。されても要点だけです。なので、般若経を読まず、仏教辞典も調べずに、法華経を読んでも理解しづらいでしょう。

シューニャは、「空虚な」という意味です。空席とは、坐る人がいないことであり、空箱とは、箱の中身がないことです。このようにあるべきものが欠如した状態が空です。大乗仏教では、あるべきものとは、自性のことだとしました。自性とは、スヴァバーヴァ svabhāva の訳です。「物それ自体の独自の本性、本来の性質」のことで、実体と訳すことが多いです。

一切法空といって、すべての事象には実体が無いと説いています。なぜ、そのことが言えるのでしょう? それは、すべての事象が因縁和合によって生じているからです。決して、それ自体だけで生じるのではなく、因縁によって生じます。よって、集結しているそれぞれには、実体は欠如しています。朝顔の種は、一時的には種としてありますが、やがて発芽して、つるを伸ばし、成長します。成長した朝顔を種とは見ないでしょう。種という実体はありません。因縁によって仮にありますが、実体はないのです。つまり、空です。

空という言葉が使われるようになった背景は、上座部の説一切有部が、「人は無我だが、法は有我である」と論じたためです。釈尊は、人にも法にも実体はない、と説いていたため、説一切有部の論に反論する部派が現れました。それが大乗仏教の般若派です。般若派は、「人無我。法無我」「人無我。法空」を論じました。そして、説一切有部が有ると主張することを悉く、空という言葉によって否定しました。

般若派は、多くの般若経典を作って、空の理を世に広めようとしましたが、難しい内容だったために、ほとんどの人が理解できなかったようです。そこで立ち上がったのが龍樹(ナーガールジュナ Nāgārjuna)です。龍樹は、二万五千頌般若経の解釈本として大智度論を著し、空の理を解釈するために中論を著しました。これによって、空の理は知られるようになりました。龍樹は、中論の中で、「衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義」と論じています。「因縁によって生じる現象を 私は即ち空だと説くのです また仮であると説き 中道だと説きます」です。「我説即是無」というように、空ではなく無という言葉を使っているのは、有と空の二辺否定に誤解されないように、わざと無と訳したのでしょう。サンスクリット原文では、空と書いています。

多くの因縁によって生じるので、その一つ一つには実体が有りません。なので龍樹はそれを空だと説きました。空もまた空なので、そのために仮に名をつけています。仮に有り、実体は無いので、有無の二辺を離れているため中道といいます。この論によって、釈尊が説かれた縁起と空とが結び付いたため、多くの仏教徒は空の理を理解しました。

Rの会では、空を「平等」だと解釈しています。しかし、空にはそういう意味はありません。超訳でしょうか。二次的解釈でしょうか。分かりやすく解釈するために、平等という言葉を選んだのかも知れませんが、重要な仏教用語については、サンスクリット語の意味を確認した方がいいと思います。そうしないと混乱するのは、学んだ人たちです。一度刷り込んだ内容はなかなか消えません。
:
:

7
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:26:57 修正

疑念序

弥勒の疑念

爾の時に弥勒菩薩是の念を作さく、今者世尊、神変の相を現じたもう。何の因縁を以て此の瑞ある。今仏世尊は三昧に入りたまえり。是の不可思議に希有の事を現ぜるを、当に以て誰にか問うべき、誰か能く答えん者なる。復此の念を作さく、是の文殊師利法王の子は、已に曾て過去無量の諸仏に親近し供養せり。必ず此の希有の相を見るべし。我今当に問うべし。
:
:
これらの奇瑞(瑞相)を見た弥勒菩薩の疑問

その有り様を見て、弥勒菩薩は考えました。
「世尊は今、不可思議な力をお示しになって、このような光景を現わされた。これは一体どのような意味があるのだろうか? 世尊にお伺いをしたいが、世尊は三昧に入っておられ、お尋ねすることができない・・・。一体、誰に聞けば、このことを正しく答えてくれるだろうか・・・?  そうだ。世尊のお心をよく知り、過去世において数えきれないほどの諸仏にお仕えしたことのある文殊菩薩ならば、きっとこの不可思議な光景を見たことがあるに違いない。よし、文殊菩薩に聞いてみよう」。弥勒菩薩はそう考えついたのでした。

:
:
その時に偉大なるマイトレーヤ菩薩は、このように考えました。
「今、世尊は、不思議な現象を現わされました。このことで何を教えて下さっているのでしょう? どういう理由があって不思議の力を表わされたのでしょう? 今、世尊は深い瞑想に入っていて、この理由を質問することができません。この不可思議な出来事が起ったことを一体誰に問えばいいのでしょう? 誰が分かりやすく答えて下さるでしょう?」。

また、このようにも考えました。
「ここにおられるマンジュシリー法王子さまは、これまでの過去世において、無量の諸仏に仕えて、供養をし、修行をされたと聞いています。おそらくは、この珍しい出来事についても、過去に体験されていることでしょう。私は、今、マンジュシリー法王子さまに質問してみましょう」

:
:
大衆の疑念

爾の時に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等、咸く此の念を作さく。是の仏の光明神通の相を今当に誰にか問うべき。
:
:
その時、出家・在家の修行者をはじめ、天人・竜神など、その座に連なる全ての者たちも弥勒菩薩と同じ疑問を持ち、この不可思議な現象の真相を、誰に聞けばよいのかと考えていました。
:
:
その時、この集会に集う男女の出家修行者、男女の在家修行者、そして天上界の神々、ナーガ、鬼神など、多くの者たちがこのように考えました。
「この仏さまの光明による不思議な出来事を、今、誰に問えばいいのでしょう?」

:
:

8
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 15:45:36 >> 7

発問序

爾の時に弥勒菩薩自ら疑を決せんと欲し、又四衆の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び諸の天・龍・鬼神等の衆会の心を観じて、文殊師利に問うて言わく。何の因縁を以て此の瑞神通の相あり、大光明を放ち東方万八千の土を照したもうに、悉く彼の仏の国界の荘厳を見る。是に弥勒菩薩重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を以て問うて曰く。
:
:
すると弥勒菩薩は、その者たちの心中をハッキリと分かりましたので、弥勒菩薩は自らの疑問を解決するだけでなく、この者たちの疑問を解かなければならないと思い、文殊菩薩に向かって尋ねたのでした。
「文殊菩薩よ。世尊の眉間から光を放たれて、不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ。栴檀(せんだん)の香風がそよいで、人々の心は喜びに満たされています。そればかりか、はるか『東方の世界』も照らし出されて、すべてを目(ま)の当たりにすることができます。こうした現象が起きているのは、一体どのような意味があるのでしょうか」

:
:
その時にマイトレーヤ菩薩は、自分自身の疑問を晴らしたいと思い、また、多くの人々の心を察して、マンジュシリー菩薩に問いました。
「何の理由があって、世尊は、この珍しくも、ありがたい神通力を現わされているのでしょうか? 世尊は、大いなる光明を放って、東方の多くの国土を照らし、ことごとく他方の仏さまの世界の素晴らしさを見せて下さっています」

ここで、マイトレーヤ菩薩は、詩にして、もう一度、マンジュシリー菩薩に問いました。
:
:

9
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 16:09:04 >> 7

此土の六瑞を問う 1

文殊師利 導師何が故ぞ
眉間白毫の 大光普く照したもう
曼陀羅 曼殊沙華を雨らして
栴檀の香風 衆の心を悦可す
是の因縁を以て 地皆厳浄なり
而も此の 世界六種に震動す
時に四部の衆 咸く皆歓喜し
身意快然として 未曾有なることを得
眉間の光明 東方万八千の土を
照したもうに 皆金色の如し
阿鼻獄より 上有頂に至るまで
諸の世界の中の 六道の衆生
生死の所趣 善悪の業縁
受報の好醜 此に於て悉く見る

:
:
文殊菩薩よ
世尊の眉間から光を放たれて 不可思議な世界が現出するのは一体なぜですか? 曼荼羅華(まんだらけ)が天から降り注ぎ 栴檀(せんだん)の香風がそよいで 人々の心は喜びに満たされています そればかりか はるか『東方の世界』も照らし出されて すべてを目(ま)の当たりにすることができます こうした現象が起きているのは 一体どのような意味があるのでしょうか 私たちは 人間の住むあらゆる世界で 六道を輪廻する人が 生まれ変わりして善悪の行為を重ね そして その報いを受ける姿を 目の当たりにすることができました

:
:
マンジュシリー菩薩さま
導師はなぜ
眉間から大いなる光を放ち
世界を照らされているのでしょうか?
天上界から 珍しく美しい花々をふらし
センダンの香りを漂わせて
人々の心を悦ばせています
このことによって 大地も人々も
厳かで穢れがありません
しかも この世界が様々に震動しました
その時 人々は誰もが歓喜し
身も心も悦びを感じ
ありがたい現象を体験しました
眉間の光明は
東方の多くの世界を照らし出し
その世界を 黄金色に浮かび上がらせています
阿鼻地獄から 有頂天にいたるまで
様々な世界の中の迷える人々の
事物・現象が因縁によって起こっているということ
善悪の行為とその縁となるもの
報いによって 好い状態、醜い状態に
環境が変化することを
ここに居ながらにして ことごとく見ました

:
:

12
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 19:53:06 >> 9

偈頌(げじゅ)
:
偈頌は、ガーター gāthā の訳です。偈ともいいます。意味は、「歌・詩」です。散文(長行)で説かれた内容を詩の形式で繰り返しています。偈を説く前には、「爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言」(爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく)というように告げます。サンスクリット語の偈は、次の通りです。これは、序品の偈です。
:
:
kiṃ kāraṇaṃ mañjuśirī iyaṃ hi
raśmiḥ pramuktā naranāyakena|
prabhāsayantī bhramukāntarātu
ūrṇāya kośādiyamekaraśmiḥ||1||

:
māndāravāṇāṃ ca mahanta varṣaṃ
puṣpāṇi muñcanti surāḥ suhṛṣṭāḥ|
mañjūṣakāṃścandanacūrṇamiśrān
divyān sugandhāṃśca manoramāṃśca||2||

:
:
サンスクリット語の偈では、偈の番号がつけられています。一つの偈は、8音節からなる句を4つ並べた32音節から構成されています。この形式をシュローカといいます。韻を踏むことはなく、シュローカと音節の長短が重視されます。漢訳すると当然ながら偈のリズムは取れません。
:
文殊師利 導師何故 眉間白毫
大光普照 雨曼陀羅 曼殊沙華

:
というように、漢訳では4文字や5文字で構成しています。
:
:
YouTubeで、法華経の偈を探してみましたが見つけることができませんでした。ゴータマ・ブッダを讃える詩がありましたので、参考のためリンクを貼っておきます。シュローカの雰囲気はつかめると思います。
:
:


:
:

10
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:49:28 修正

此土の六瑞を問う 2
:
又諸仏 聖主師子
経典の 微妙第一なるを演説したもう
其の声清浄に 柔軟の音を出して
諸の菩薩を教えたもうこと 無数億万に
梵音深妙にして 人をして聞かんと楽わしめ
各世界に於て 正法を講説するに
種々の因縁をもってし 無量の喩を以て
仏法を照明し 衆生を開悟せしめたもうを覩る

:
:
また 他方の諸仏が
最上の教えを説かれている様子も
見ることができました
その仏さまのお声は
清浄で柔らかい音であり
多くの菩薩たちに対して
清らかで 深く 
きわめて優れた教えを
説き示されました
各世界において 
正しい教えを説くのに
様々な出来事を話し
多くのたとえ話をして
仏法を誰にでも分かるように説き明かし
人々を悟りへと導いているのを見ました

:
:

11
ダルマ太郎 2024/04/11 (木) 17:58:53 修正

此土の六瑞を問う 3
:
若し人苦に遭うて 老病死を厭うには
為に涅槃を説いて 諸苦の際を尽くさしめ
若し人福あって 曾て仏を供養し
勝法を志求するには 為に縁覚を説き
若し仏子有って 種々の行を修し
無上慧を求むるには 為に浄道を説きたもう
文殊師利 我此に住して
見聞すること斯の若く 千億の事に及べり
是の如く衆多なる 今当に略して説くべし

:
:
もし 人が苦にあって
老化・病気・死などの
苦悩から離れたいと願うならば
その人のために安らぎの境地を説いて
迷いの世界から
離れる修行を説き示しました
もし 人が善行を積んで 福を得て
これまでに 諸仏を供養したことによって
勝れた教えを求める人がいたならば
その人のために 
縁覚の修行を説き示しました
もし 菩薩がいて
様々な修行を実践し
無上の智慧を求める人がいたならば
その人のために
浄き道を説き示しました
マンジュシリー菩薩さま
私が ここに居ながらにして
見て聞いたことは
このように 多くありました
このような多くの出来事から
今は 略して語りましょう

:
:

13
ダルマ太郎 2024/04/14 (日) 18:02:27

他土の六瑞を問う 1
:
布施
:
我彼の土の 恒沙の菩薩
種々の因縁をもって 仏道を求むるを見る
或は施を行ずるに 金 銀 珊瑚
真珠 摩尼 硨磲 碼碯
金剛 諸珍 奴婢 車乗
宝飾の輦輿を 歓喜して布施し
仏道に回向して 是の乗の
三界第一にして 
諸仏の歎めたもう所なるを得んと願うあり
或は菩薩の 駟馬の宝車
欄楯華蓋 軒飾を布施するあり
復菩薩の 身肉手足
及び妻子を施して 無上道を求むるを見る
又菩薩の 頭目身体を
欣楽施与して 仏の智慧を求むるを見る

:
:
私は 他方世界の多くの菩薩たちが
様々な因縁によって
仏道を求めているのを見ました
あるいは 布施を実践するのに
金・銀・サンゴ・真珠・珠玉・シャコ・メノウ
ダイヤモンドなどの珍しい宝
召使・車・宝で飾った輿(こし)などを
喜んで布施し
その布施の功徳を
仏道を得ることにふり向けて
この世界で最高の 
諸仏が讃嘆する教えを
会得したいと願うのを見ました
または 菩薩たちが
4頭立ての美しく飾った馬車を
施すのを見ました
または 菩薩たちが
自分の肉体や手足 妻や子供を施して
無上の教えを求めるのを見ました

:
:

14
ダルマ太郎 2024/04/14 (日) 23:15:53 >> 13

廻向(えこう)
:
初期仏教・部派仏教では、業報輪廻を説き、自業自得であることを教えました。自分がしたことは、自分が受け取るということです。これは、徹底した自己責任であり、他者のせいにはできないシステムです。過去の業報も現在の果報になるというのなら、今の環境を変えるために、何をすればいいのかが分かりません。善行を積み、来世に期待するしかないのでしょうか。病気・障害・貧困などがあれば、前世の結果だと後ろ指をさす人もいます。本当に前世の業によってハンディを持つのでしょうか? もしそうならば、この世界は弱者にとっては苦に満ちた世界です。
:
業報を否定したのが、廻向です。廻向(回向)とは、パリナーマナー pariṇāmanā の中国語訳です。変換・変化・転回などの意味です。自分が為した善行の功徳を自身の覚りにふり向けたり、他者の救済・覚りにふり向けることをいいます。自業によって、他者を救いへと導くのですから、自業自得を説く業報輪廻とは思想が異なります。初期仏教にも似たような思想があったようですが、この考え方が顕著になったのは大乗仏教においてです。自分の功徳を他者に振り向けることで、他者を救うという大乗思想が成立しています。善行は廻向できますが、悪業はできません。自分が悪いことをして、それを他者に振り向けるということはありません。
:
空においては、業も業報も輪廻もすべては無自性です。実体は有りませんから、執着する対象がありません。廻向もまた実体は有りません。実体が無いので、自業自得と言うように固定して観ません。善・悪・楽・苦というものもありません。すべては、仮に名前が付けられているだけであって、実体の無いものです。そういう概念に執着せず、真理に従って行動することが求められます。しかし、真理が何なのかが凡夫には分からないので、八正道・六波羅蜜を実践するわけです。
:
廻向が概念だとしても、業報輪廻を信じるよりはましです。業報輪廻は、救いようのない思想ですが、廻向を信じれば、菩薩道を歩むことができます。
:
: